LGBT理解増進法について考える⑵一寛容は双方向でなければならない

     LGBT理解増進法をめぐる論点と課題について考察したい。まず令和元年6月に自民党政務調査会性的指向・性自認に関する特命委員会が公表した「性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A」の要点の確認から始めよう。同「Q&A」によれば、平成28年2月に、稲田朋美政務調査会長(当時)の指示により、古谷圭司衆議院議員を委員長とする同特命委員会が自民党内に設置され、ヒアリングを積み重ねてきた。
●特命委員会の主要な論点
「Q&A」の主要な論点を列挙すると、
⑴    性的指向や性同一性は、本人の意思で選んだり変えたりすることが難しい。
⑵    同性愛は医学的には病気や障害としては取り扱われず、治療の対象ではない。
⑶    同性婚・憲法24条については、平成27年2月18日の参議院本会議における以下の安倍総理答弁が政府見解である。

<憲法24条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法のもとでは、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。同性婚を認めるために憲法改正を検討するべきか否かは、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要するものと考えております。>

⑷    性的指向・性同一性の多様性に関して、「病気である」「趣味や嗜好の問題である」といった誤った思い込みのために、結果として偏見や差別にあたる言動が蔓延し、当事者の方々が辛い思いをされているのではないか。従って、「理解増進」を図ることが、当事者の困難の解消に繋がる。カムアウトという肩ひじ張った意識を持つ必要のない、自然に会話し、お互いを当たり前に受け止めることができる社会を目指す。
⑸    一時期、男らしさ・女らしさを否定する「ジェンダー・フリー教育」や、教育現場における過激な性教育(拙著『間違いだらけの急進的性教育』黎明書房、平成6年,参照)等に関し、問題として取り上げてきたが、性的指向・性同一性の多様性に関する理解の増進を図ることは「全く別の問題」である。LGBTに関し、差別禁止と称して「ジェンダー・フリー教育」と同様な動きを推進する一部団体や勢力の主張とは相容れないものがあり、注意が必要である。LGBT支援として広がっている制服やトイレ等の対応については、本当に当事者及び周囲の方々のためになっているのか、十分に検討する必要がある。
⑹    社会への理解の増進と、政府・自治体・民間セクター等の取組みを通じて当事者の方が直面する困難の解消を目指していく法案の国会提出が検討された。
⑺    性的少数者に対する「不当な差別や偏見はあってはならない」「性的マイノリティーに関する啓発の充実、適切な相談対応、人権侵害の疑いのある事案への迅速な救済等に取り組む」というのが政府見解である(平成31年3月25日、衆議院予算委員会における安倍総理答弁)。
⑻    パートナーシップ制度(婚姻関係の一部またはほぼ同等の権利を同性カップルに認める登録制度)については、婚姻関係に法律的又は事実上認められている権利及び義務等について具体的なコンセンサスが国民にある状況ではなく、国民の性的指向・性同一性に対する理解の増進が前提であり、その是非を含めた慎重な検討が必要である。

●「差別禁止法」へ変質した具体的問題点
 ところが、LGBT理解増進法案」の第1条(目的)において、立憲民主党や公明党への配慮から「性的指向および性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下に」という文言を新たに盛り込んだために、本来の「理解増進」から「差別禁止法」へと法案の趣旨が変質してしまったことが問題なのである。
 また、同第1条の冒頭に「この法律は、全ての国民が、その性的指向又は性自認にかかわらず」という文言を盛り込んだ点も、男女共同参画社会基本法の前文に「性別にかかわりなく」と明記したために「ジェンダー・フリー」の法的根拠とされて教育現場の混乱を招いた、二の舞を踏む危険性を孕んでいる。
 同性婚やパートナーシップ制度については、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であるから極めて慎重な検討を要するという従来の政府見解が、「性的指向と性自認」を絶対価値とする、「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」という論理の必然的帰結として根底から揺らぎ、これらを認めないのは「差別」と見做される矛盾を孕むことになる。
 男らしさ・女らしさを否定する「ジェンダー・フリー教育」や過激な性教育とは「全く別の問題」であると「Q&A」で強弁しても、「性のグラデーション」と称して、性の多様性を容認させる教育は、必然的に性行為の多様性も「性的自立」すなわち「性的自己決定権」の当然の帰結として容認させる「過激な性教育」とならざるを得ない。性の多様性を容認しつつ、性行為の多様性を否定する教育はあり得ないからである。
 令和4年度から使用される高校教科書の大修館「家庭の基礎」のコラム「多様な性(性はグラデーション)」(19頁)や、数研出版「公共」の「性のあり方はグラデーション」(26頁)等が、「性自認」「性的指向」「性表現」の多様性を色分けしていることはいいとしても、
「身体の性」も色分けしていることは、個々人によって男性性7割に対して女性性3割などの男女の性別の多様性があるような誤解を生徒に与えかねないのではないか。
 LGBT理解増進法案第7条(学校の設置者の努力)は、「性的指向及び性自認の多様性に関する当該学校の児童等の理解の増進に自ら努める」と明記しており、こうした教科書が増えることは不可避といえる。ちなみに、LGBT法連合会の差別解消リストによれば、制服・体操服、男女別授業・部活・体育祭・合唱コンクール・学校行事、学生証・卒業証明書・成績証明書の性別欄など60項目に及んでおり、学校教育への影響は計り知れない。
 また、同第12条(相談体制の整備等)は、「国及び地方公共団体は…相談体制の整備その他の必要な施策を講ずる」と明記しており、「相談体制」が「差別密告」化する危険性がある。
 世界人権宣言第29条第2号は、「すべての人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する」と明記しており、この点を十分に踏まえる必要がある。

●寛容は双方向でなければならない
 マイク・リー米上院議員は、「今や焦点は、重大な良心の権利をいかに守るかにある。結婚とは一人の男性と一人の女性の結合だと信じる人々が連邦政府に不当に扱われてはならない」と主張した。つまり、同性愛者への寛容と伝統的保守派への寛容は「双方向でなければならない」ということである。
 共和党の次期大統領女性候補のニッキー・ヘイリー元国連大使の「これは女性の権利の問題だ。全フェミニストに呼びかけたい。見過ごしてはならない」という核心を衝いた発言も極めて示唆的である。なぜこのように強く批判したのか。その背景には、バイデン大統領が署名した「性自認、性的指向に基づく差別を防ぎ、闘う大統領令」の中に、「子供たちは、トイレやロッカールーム、学校スポーツに入ることを拒否されるという憂いなしに学べなければならない」という一節があるために、生物学的に男性であるトランスジェンダーの選手の女子スポーツでの活躍が目立つようになったという事情があった。
 実際、コネチカット州では、男性部門で中位の成績であったトランスジェンダーの陸上選手二人が女子部門に移って以来圧倒的強さを見せ、スポーツ奨学金を得たという。東京オリンピックにもトランスジェンダーの選手が参加予定であるが、この点に関して、我が国のスポーツ関係議員はテストステロン(男性ホルモン)を抑えれば問題ないと発言したが、女性論客のアビゲイル・シュライアーは、次のように指摘している。

 <力とスピードを争う競技では、思春期に拡大する男女の運動能力差は永続的で越えがたいものである。その後にテストステロンを抑えても、男性の生物学的優位一より大きな心臓、肺、骨格、より高い骨密度、より強い筋力など一は失われない。>

 女子サッカー・テニス・ゴルフなどの女子スポーツ界への影響は大きく、「差別禁止法」が成立すれば、日本でも遠からず同じ問題が起きて混乱することは避けられないであろう。
 2012年、コロラド州のケーキ店主がゲイカップルのウエディングケーキの注文を、信仰を理由に断り訴訟になったが、最高裁判決が7対2で店主の主張を認めたことは極めて注目される。寛容の精神に基づき、同性愛者の尊厳と信仰の自由の両立を試みるべきだったが、この職責を放棄し、店主に一方的に「敵意」を向けて、公聴会の場で、店主の「誠実な宗教的信念を奴隷制やホロコーストを弁護する論理に例え、これに異議を唱える委員は一人もいなかった」ことは、到底バランスの取れた審議だったとは言えないとして、最高裁のリベラル派の二人の裁判官も店主の主張を認めた結果、7対2という大差になったわけである。

● 多様性に「通底する価値」を探る「対話」一道徳教育と人権教育の接点
 性的少数者の人格の尊厳と人権は尊重されなければならないが、思想信条の自由などとの両立を試み、双方向の寛容のバランスを図ることが重要な課題といえる。モラロジー道徳教育財団の「道徳サロン」連載16の拙稿「『対話』とは、『変容』であり、『通底する価値に身を投じる手段』」で論じたように、多様性を認める「寛容さ」にとどまらず、『通底する価値』を探る「対話」によって、「異なるものの調和」を意味する「和して同ぜず」の和の精神を実行することが、この問題をめぐる論議や教育にも求められているのではないか。
 「普遍的(universal)」という言葉には、「一つにする」という意味があるので、「普遍的価値」ではなく、「通底(transversalを和訳した仏教用語)する価値」という表現が、2005年のユネスコ創立60周年記念国際シンポ「文化の多様性と通底の価値」の最終公式声明で使われた点に留意する必要がある。
 性的指向と性同一性の多様性について、二者択一的な「正常」「異常」という「普遍的価値」の視点ではなく、「通底する価値」という視点から「考え、議論する」教育が求められているのではないか。道徳教育と人権教育の接点もこの「通底する価値」の視点から探究する必要がある。
 性的少数者を二者択一的に「異常」と見做せば、人格の尊厳と人権の尊重に反する「差別」が生じることは避けられないからである。前述した「民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たす」という「制限にのみ服する」という世界人権宣言の趣旨も踏まえる必要があろう。
 
 
 
 
 

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