利他行動への「共感」とWell-being・道徳との関係

  ウェルビーイングと道徳の関係を解明するキーワードは「共感」である。共感に関する科学的な定義は極めて多様であるが、共感が感情を認知する過程や、他者が感じているものを自分事として感じる過程、他者の視点でものを見る過程など、多面的な枠組みによって構成されているという点は共通している。

●「情動的共感」と「認知的共感」
 脳科学を通しての共感の科学的研究については、有田秀穂『共感する脳』(PHP新書、2009)や、クリスチャン・キーザーズ著、立木教夫・望月文明共訳『共感脳:ミラーニューロンの発見と人間本性理解の転換』(麗澤大学出版会、2016)などがあるが、東大定量生命科学研究所の奥山輝大准教授らの研究グループは昨年7月、前頭前野という脳領域に「自分と他者の感情の情報を、同時に併せ持って表現する」神経細胞が存在することを発見し、その研究成果が英国科学誌「Nature Communication」に掲載された。
 共感には「情動的共感」と「心の理論」としてよく言及される「認知的共感」とがあり、「情動的共感」は、相手の思考や感情を自分の事のように感じる、「隣の人が悲しいと、自分まで悲しくなってしまう」身体の動きに対する実感である。一方、「認知的共感」は、相手の思考や感情を相手の立場に立って「この人は悲しいのだな」と頭で理解することで生じる共感である。私はこれまで前者を”realize”、後者を”understand”という英語で区別してきた。
 この2種類の共感は、ウェルビーイングの要因と深い関係がある。ウェルビーイングは「I(私)」が一人でつくりだすものではなく、「私たち」や社会が共につくり合うものである。情動的共感は「WE(私たち)」のウェルビーイングの要因のもととなる、目の前の人との関係を築くうえで必要不可欠なものである。一方、認知的共感は、目の前にいない人に対してもその立場に立って考えることができる共感である。従って、地域コミュニティや社会の一員としての「SOCIETY」のウェルビーイングの意識の源泉となる。

●共感性の欠如と精神疾患の関係一親の関わり方
 この「情動的共感」と「認知的共感」は脳の中では異なる神経回路(前者はミラーニューロン、後者はメンタライジング)によって実現されており、それぞれ独立して発達する。たとえば、ソシオパス(反社会的な人格障害を持つ社会病室者)は優れた認知的共感性を持ち、うまく嘘をついたり、相手を説得したり、友人をつくることはできるが、情動的共感性が欠落しているため罪の意識や良心の呵責のような、分別のある感情的反応を示すことができず、暴力的になることもある。
 反対に、ASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群)の人は認知的共感力に障害があり、他人が感じていることや考えていることを頭では理解できないが、誰かが苦しんでいる場面では、ストレスを感じる情動的共感性を持っている。
 幼少期の親の心遣いや関わり方が、共感の認知的側面と情動的側面の両側面の発達に重要だということも、これまでの研究から明らかになっている。親の共感能力の欠如は子供の共感能力の発達不全に繋がり、この不幸なサイクルの結末は、社会のあらゆる場面に悪影響をもたらす。それ故に、児童虐待やいじめ等を予防するための方策として、共感能力を発達させるプログラムが、子供や若者向けに行われているのである。
 共感性が欠如してることが、様々な精神疾患と結びついているという事実は、裏返せば、共感とウェルビーイングとが深く関係していることを示唆している。共感性の欠如は強い社会的絆を形成することを阻害すると考えられ、ある研究によれば、ウェルビーイングの低下と共感性の低下が相関関係にあることが明らかになっており、情動知能、非認知能力の向上がウェルビーイングの向上につながると考えられる。
 西洋文化圏において、全く議論されていない共感の一側面に、「喜びの共感」がある。喜びの共感は仏教的心理学において多くの注目を集めており、「ムディタ―(mudita)」はサンスクリット語で「喜びの共有」又は「共感的喜び(人の喜びを自分の事のように感じること)を意味し、4つの崇高な心の状態(「四無量心」と呼ばれる仏教の徳目)の1つとして挙げられている。
 慈しみ、平静さ、思いやりと同様に、共感的喜びは社会的ウェルビーイングを高めるための理想的な心的状態のうちの1つと考えられている。仏教指導者である高僧Nyanaponika Thera(ニヤナポニカ・テーラ)によれば、これらの状態は「社会的な障壁を崩し、調和的なコミュニティを構築し、長い間忘れられていた寛容さを呼び起こし、永らく置き去りにされていた喜びや希望を蘇らせ、利己主義の力に対抗する人類の兄弟愛を高める」という。

●「共感一利他性仮説」とスタンフォード大・カリフォルニア大の研究成果
 トマス・アクィナスやデイビッド・ヒューム、アダム・スミスは、共感と思いやりが利他行動を引き起こすと指摘し、ダニエル・バトソンも研究結果に基づき、「共感一利他性仮説」を提唱した。この仮説によれば、利他的な動機を引き起こすものは共感である可能性が高いとされている。スタンフォード大学の思いやりと利他主義研究教育センターやカリフォルニア大学バークレー校の大善科学センター(Greater Good Science Center)もこの領域における多くの関連する研究成果を生み出しており、利他行動が他者中心的な思いやりによって引き起こされる時には、ウェルビーイングの向上につながることが明らかになっている。
 大阪大学大学院の大西助教らが5,6歳の幼児を対象に行った共同研究によっても、与えることによって与えられる「互恵関係」に「共感」した幼児は利他行動をすることが判明しており、これらの国内外の実証的研究は、今後のウェルビーイングと道徳教育の課題に大きな示唆を与えてくれる。
 道徳性の3本柱は「道徳的心情」と「道徳的判断力」「道徳的実践意欲と態度」であるが、「道徳的心情」は「情動的共感」、「道徳的判断力」は「認知的共感」に近いことがわかっており、これらを「実践的意欲と態度」にいかにつなぐかが今後の道徳教育の最大の課題と言える。そのためには、利他行動を引き起こす共感と思いやりをいかに育むかが鍵を握っているのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?