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摘まれても摘まれてもなお種をまく 泣いた分だけ咲き誇れわたし/三冬つくし

2022年5月18日(水)のうたの日17時部屋の題「種」の短歌。

抽象的な歌だが、その分さまざまな状況に当てはめて考えられて、解釈の広がりのある歌となっている。

作中主体は、「摘まれても摘まれても」めげない。雑草魂のようなものが感じられる。芽や生長した草が摘み取られても、新たな「種をまく」のだという。

作中主体は、摘み取られる度に涙を流す。せっかく育て上げた草も、何者かに摘み取られてしまう。育てた努力が水の泡になってしまうようなものだが、それでも作中主体は「種をまく」。

岡本真夜「TOMORROW」の歌詞「涙の数だけ強くなれるよ」ではないが、いずれ「咲き誇」ることを夢見ている「わたし」がいる 。

さて、何が摘み取られてしまうのだろうか。何か消費されてしまうものか。作中主体の作っている何かか。作中主体が努力して生み出す何かか。

例えば、作中主体の作品だろうか。作品が評価されないことを「摘まれ」ると表現していて、評価されることを「咲き誇」ると表現しているのだろうか。

はたまた、自分自身の仕事などでの成功と失敗自体を示しているのだろうか。

具体的に何が「摘まれ」て、何が「種をまく」ということで、何が「咲き誇」ることかと詮索するのはナンセンスなのかもしれない。この歌は、力強い作中主体の心意気自体を漠然と読み取るだけで十分なのだろう。

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