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その時代、もう終わってます。

青臭いと思うのは勝手だが
私は「政治とは弱者のためにある」と思っている。

強いもの、恵まれているもの、のためにあるのではなく、様々な隙間に入り込み困っている人、生きづらさを感じている人、強者や圧倒的多数に対し、不平等や理不尽があるのであれば、それを見直すことが「政治の役割」であると信じている。


先日、ある会議の中で「多様性」について否定する発言があった。
残念ながら、私には理解が出来なかった。

現代における多様性に例えられることとして、LGBTや身体障害者、体形、働き方の選択、肌の色、人種、難民など、定義として掴むことができない。

また、それぞれ属性もあるため、個人的な意見も言い難い内容でもある。

しかしながら、ここではっきりしていることは、世の中で多様性に属すると思われる人々は少数であること。少数であるために、自分たちの意見が認められない、もしくは理解してもらえないこと。つまり社会では弱者であるということと、私は勝手に解釈している。

いわゆる「マイノリティ」である。

例えば、私は女性が大好きだ。
それが故、LGBTの方々については、その心境・社会的な立場について、何を求めているのかは理解できないが、存在は一切、否定しない。

何年か前に、「LGBTのカップルは生産性が無い」という論文で話題になった国会議員がいたが、どのような生産性を必要とした発言なのか、それが少子化問題に対しての生産性であるのなら、世の中の夫婦は社会の生産性のために子供を産み育てているとでも言いたかったのか。その国会議員は自分の子供さえも生産性向上の一助を目的として出産したのか。と、感じた記憶が思い出された。

生きづらさを感じる圧倒的少数のLGBTの方々が、社会的立場の平等を求めることは間違っていないと思う。しかしながら多数の「LGBTではない」方々との「共存」も考える必要がある。

例えば、男子トイレに、心は男性の女性がいたら、私は用を足すことが出来ないだろう。また女子トイレで、その逆パターンも考えられる。もしかしたら防犯ベルを鳴らされるレベルかもしれない。

ここでは、社会で互いを認めることから、「存在する意味があるという前提に立って」議論していくことが必要な、大変難しい多様性の分野であるのではないかと感じる。


また、東京オリンピック、北京冬季オリンピックも無事に開催されたが、私はパラリンピックを心待ちにしていた。まさにマイノリティであり、世界の多様性の概念そのものであると思う。

生まれながら、もしくは病気や事故などが原因で障害を抱えてしまった少数の人が、生きづらさを感じることは決してあってはならない。

また、健常者や社会は、その人達を特別扱いするのではなく、同じように働き、納税してもらうという社会環境を整備することが重要である。

様々な障害を抱えた選手が、健常者の何倍もの訓練や練習を重ね、パラリンピックの舞台で輝きを放つ姿は、本当に美しいし、健常者と共に、互いを補って生きていく、そして存在している。その結果、繁栄していく。

まさに現代社会での「多様性の在り方」をパラリンピックは示しているのではないか。


多様な人がいればいるほど意見が多くなり、その分、互いを理解するには時間や労力が必要となる。多様性を尊重するということは「言うは易く行うは難し」である。

しかしながら、価値観や生き方は時代と共に変わる。
まさに生き物である。


多様性を否定する時代は、相当前に終わっていることを理解してほしい。


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