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地上100センチメートルの世界から

カメラを手にお散歩することがグッと増えた。
これは私にとっては画期的でレボリューションともいえる出来事だ。
なぜかといえば、病の身になり闘病生活を送るようになって10年。
ほとんどが"寝たきり"に近い暮らしだったからである。

そんな私が闘病11年目にして、立ち上がったのだ。
寝たきり生活にピリオドを打つべく、カメラを持って出掛けるようになったのだ。ただし、あくまでも車椅子でのお散歩である。

私はまったくの自力歩行ができないわけでもないが、歩くことは容易ではない。ゆえに、車椅子散歩だ。

さて、カメラを始めるにあたって『写真の撮り方』と言った類のテキストなどを購入したりしてみた。その本の、一頁目からしてショボンとなってしまった。テキストには「被写体に向かってしっかりと立ち、アングルを定める」といった内容のことが記されていたからだ。

そうだ、そうなのだ。私は忘れていた。かつて少しばかりカメラをいじっていた頃の私は健康だったし、足腰など自由に動かせたので、アングルを決めることも容易いことだった。

ところが、現在の私は"車椅子"といった限られた状況の中で、被写体にレンズを向ける。テキストでいわんとしていることが、病ゆえに体が不自由になった今の私には無理なことなのだ。

車椅子に乗った私の世界は、地上100センチメートルからの世界。しかも両脇を手すりに縛られているわけで、非常に限られたポーズでしか写真が撮れない。

「あーあ、病身で体が不自由だと、カメラさえも趣味にはできないのか」とショボンとしてしまったのだった。

いやいや、しかし、ここでくじけはしないぞ!と翌日には、カメラを持ってお散歩に出かけた週末。
写真のプロにはなれないかもしれない。けれども大事なのは、病に負けない気持ちを持つことだと思ったからだ。仮りに…だ、仮りに私の写真がコンテストで入賞することはなくても、はなから、あきらめてしまうのは違う。そうだ、私はカメラを手にした理由は、"生きること"に挑戦したいからなのだ。そして、"生き抜いた証"を写真として残したい。

新芽の季節になった。
病に打ちひしがれて、心までうつむいてばかりいた日々に別れを告げ、人生を生き直す決心をしたのだから、新緑が芽吹くこの時はカメラのシャッターチャンスであり、生きることへの再度のチャンスでもある。

車椅子から見える世界は、地上100センチメートルの世界。限られた世界。
それでも、いい。人生に再挑戦して、生きる。

イヤな顔ひとつせずに笑顔で私の車椅子を押してくれるパートナーのKさん。"共にふたりで生きた時間"を切り取るように、証にできるように、シャッターを切るのだ。

新芽の季節、私も再び芽吹こう。
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