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精神の政治学〜シュトレーゼマンの強かさ

シュトレーゼマンは、第一次世界大戦後、大量の賠償金を背負わされたワイマール共和国(ドイツ)で、首相を務めた人物である。彼はヴェルサイユ条約ののち、この困難な局面の打開には「履行政策」以外の方法はあり得ないという信念に到達した。

ドイツの政治家や世論は、戦前の軍事強国を基準にした自国観を捨てきれず、ヴェルサイユ条約にすべての不幸の原因をみるヴェルサイユ・シンドロームにとらわれていた。そのため、歴代の共和国政府はヴェルサイユ条約修正(修正主義外交)を至上課題としなければならなくなり、外交選択の幅を狭める結果になった。
二三年秋から二九年に死ぬまで外相を務めたシュトレーゼマンは、その意味で例外に属した政治家であった。……その後かれは態度を変え、共和国とヴェルサイユ条約の現実に立って、周辺国家との折り合いのもとで、経済力を基盤に条約の修正を求め、それを共和国の安定に結びつけようとした。……現実を踏まえて自己変革を遂げ成長する能力……それを実証し、一見平凡な政策を実行したところがシュトレーゼマンの傑出した点であった。

木村靖ニ他 世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕

この一見平凡な外交を持続的に追求するためには、政治力と忍耐が必要であり、それを認識して実践したところにシュトレーゼマンの長所があった。

成瀬治ほか ドイツ史3 1890年▶︎現在

彼の外交目的自体は、他のヴァイマル修正主義がいこうと基本的には変わりはなかった。しかし、戦後の修正主義外交が、原則的立場を強調し、性急に成果をもとめたのにたいし、シュトレーゼマンはヴェルサイユ条約を現実おしてうけいれ、そのうえで西欧諸国との関係改善をとおして国際秩序を安定させ、長期的展望のもとに、平和的手段、つまり交渉とドイツの経済力を梃子とする段階的修正をめざした。

シュトレーゼマンの根底にあったのは1848年「三月革命」の国民的自由主義の理念であった。ここから彼は「にわか共和派」とも距離を置きつつ、政治的に皇太子や保守派との連携を模索していた。
共和国政権に対する微妙な距離は1920年3月のカップ一揆の際にも示された。カップは臨時政府の設立を宣言。大統領と共和国政府は脱出をることを余儀なくされた。そうした状況のなかでシュトレーゼマンは反乱軍と政府との仲介役を買って出ている。
彼の行動は共和国政権に対する忠誠がそれほど強固なものでなかったことを示しているが、他方で反乱や共和国転覆を支持していたわけでもはなく、早急に秩序を回復して内乱や革命の発生を防ぐ意図があったといわれている。

パリ連合国会議は賠償総額2960億マルクと設定。当初は批判的であった。シュトレーゼマンは賠償拒否の線で政党連合による政府を構想していた。しかし、賠償拒否した場合、どんな事態がおこるのか。①フランス側は制裁措置としてルール地域を占領。②オーバーシュレジエンの住民投票の結果をめぐりポーランド人との紛争戦闘が深刻化している状況にあった。
賠償拒否は相当リスクを伴う選択だった。
しかし、賠償受諾すれば、当時票を伸ばしていた人民党が政党連合から外れ政権から排除されてしまう。
考慮した結果、シュトレーゼマンは条件付き賠償受諾へと傾いていった。
中央党は支払総額1320億マルクを受諾を決定。条件付き受け入れの線で意思統一を図ろうとした。工業諸団体を支持基盤とする人民党の協力により、連合国側に譲歩を引き出そうとしたが、重工業グループは拒否し、計画は頓挫した。
その後、内閣は辞職し新たに組閣されシュトレーゼマンは政権から外された。何度か政権が変わり、「履行政策」がとられたが、なかなか連合国側からの譲歩が引き出せない。
また支払いが滞ってしまったドイツに対し、フランスはルール地域占領を行った。ドイツ側は国民に受動的抵抗を呼びかけた。
そんな中シュトレーゼマンは再び政権を引き受けた。「受動的抵抗」の立場に対して、彼は積極的な政治を訴え、ドイツ側から積極的に交渉再開を進めるべきと表明した。

フランスとドイツとの間の今日の闘争において決定的に重要なのは政治的問題の解決である。……われわれは経済に対して政治を優位におかねばならない。「ラインとルールそしてザールの自由のために支払われる経済的犠牲は、およそわれわれの支払いうるものである限りは、高きにすぎるということはない。」

牧野雅彦 ロカルノ条約 シュトレーゼマンとヨーロッパの再建

その後ヒトラー一揆の収束、紙幣の通貨改革(1レンテルマルク=1兆マルク)を行い、シュトレーゼマンはルール占領に対して彼が設定した最低限の目標、ドイツの政治的・領土的統一の維持という目的はひとまず達成された。

ロカルノ合意は、全ヨーロッパ安全保障の機構の内にドイツを同権的な構成員として組み込むことで、フランスの対ドイツ安全保障を達成しようという試みだった。フランス・ドイツは国境付近の安全地帯を放棄し、お互い合意。これによってドイツラインラルト占領の意味も、軍事的安全保障から賠償支払いの保証へと転換した。
フランス・ドイツの世論はこれに対しては冷ややかな反応であったため、政権は平和主義・協調主義の左翼と連携し、右翼を牽制せねばならない立場になった。
ロカルノ条約の成果を内実あるものにするための第一歩は、国際連盟へのドイツの加盟だった。シュトレーゼマンは加盟を申請。ドイツは常任理事国としての発言権を目標にしていたが、フランスはポーランドにも常任理事国になってもらうことでドイツの発言権と相殺しようと画策していた。さらにスペインブラジルベルギーなどの国が理事国の席を要求するなど、ドイツは他国の利害対立にまきこまれながらの加盟となったのだった。

シュトレーゼマンはパリを訪問しドイツフランス首脳会談を行い、ドイツフランス関係が動き出した。「戦争の総体的清算」に向けた合意が形成されたのである。
ドイツとしてはラインラルト撤収の早期実現を課題としていた。
ここで出た二つの案を並べてみよう。

筆者の解釈で作成

シュトレーゼマン外交の最後の成果となったヤング案は、たしかにドーズ案にくらべて負担減となり、連合国のドイツ監視体制の除去をもたらした。しかし、ドイツが期待したヴェルサイユ条約の修正そのものにはいたらず、その見とおしもむずかしかった。シュトレーゼマン外交も限界につきあたったのである。シャハトらはその点をつき、同時にヴァイマル体制を批判しようとした。五八年間にわたる賠償支払いは、孫子の代にまで負担を強いるとの反対意見は耳にはいりやすく、反共和国勢力はここに絶好の攻撃材料を見出した。その後、ナチ党などによってヤング案反対の全国委員会が結成され、地方小政党であったナチ党がこれを機に全国政党とならぶ認知をうけ、はげしい行動で一挙に名をあげることになる。

伝記作家エバーハルト・コルブは、彼を「彼の生涯で世界で最も有名で最も尊敬されているドイツの政治家」と呼んでいる。
まとめてると、苦労人シュトレーゼマンの内政外政の手腕に驚いた。彼は敗戦後の国際秩序を求め、そしてドイツが経済的に自立できるように苦心していた。

現在、東欧が揺れている。ヨーロッパの経済的共同が良き未来を築くよう祈っている。

参考文献
wiki
世界の歴史
ドイツ史
ワイマル共和国
ロカルノ条約

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