当事者になりかけた人間がみた『劇場都市TOKYO演劇祭』の本質的な問題とは何か

さて、私(高羽彩)が3月に出演するろりえ『ミセスダイヤモンド 2022』が、劇場都市TOKYO演劇祭から辞退しました。
これによって私と演劇祭の間にはなんの関係もなくなりましたので、「知らぬ間に演劇祭の当事者になって、すぐにリリースされた人間」からみた、この演劇祭の問題について書き残しておこうと思います。

私がこの演劇祭の抱える問題を知ったのは、1月26日。おそらくこの文章を読んでいる皆さんとそう大差ないタイミングでしょう。
某企業の商品を笑顔で掲げる出演者の写真とその引用リツイートがTLに回ってきたのです。

その時の私の心情はこちら

演劇祭そのものについての認識は「あー確か小劇場主催の演劇祭が立ち上がったというツイートを読んだなぁ。いいねぐらいはしたかもしれない…」という程度。愛国思想強めの演劇祭とは知りませんでした。
その後、こういう趣旨の演劇祭に参加するのはどんな団体なんだろう?と演劇祭のウェブサイトを確認したところ、
ろ、ろりえ!!!?!
ろりえ、出とる!!!!!!
ろろろ、ろりえ!!!!!!!!
と驚いたわけです。
その時の私の心情はこんな感じ。

……我ながら品のないツイートですね。
漢字も間違えてるし。浸透じゃなくて心頭ですね。
すみません、思春期からネットカルチャーに親しんできた私は、動揺すると古のネット民仕草が飛び出てきてしまうのです。

この時私は
「もしかしたら、ろりえを降板しなければいけないかもしれない」
と思いました。
ろりえ主宰の奥山さんがこの演劇祭の趣旨に賛同して参加を決めたのだとしたら、奥山さんの大事にしているものと、私が大事にしているものはあまりにもかけ離れている。一緒に作品を作り上げることは不可能だと思ったのです。
(あと、演劇祭に参加が決まった時点で出演者に連絡ぐらいしてくれよ、とも思いましたが、その件については今は置いておきます)
そこで奥山さんに演劇祭参加に至る経緯を確認しました。
経緯は、ろりえが公表した【劇場都市TOKYO演劇祭辞退のお知らせ】にある通りです。


劇場から演劇祭参加の打診があった時点では、演劇祭の「反・反権力」的な企画趣旨は説明されていなかったとのこと。
ろりえと劇場の間でどういったヒアリングが行われたのかその詳細はわかりませんが、結果としてろりえは演劇祭への参加を辞退し、私は降板を免れ、今この文章を書いています。

「説明がなかった」
ここに、この演劇祭が抱える本質的問題が表れています。
説明のないまま団体を演劇祭に囲い込んで、その後に演劇祭の趣旨を明らかにするのは、参加者の思想・信条の自由、精神の自由をあまりにも軽んじた行為です。
もちろん、演劇はいろんな人がやっていい。それこそ「反・反権力主義」だろうが「愛国主義」だろうが「懐古主義」だろうが「神秘主義」だろうが「保守派」も「急進派」も「右翼」も「左翼」も、誰でもやっていい。どんな芝居も作っていい(ただし他者の生命や安全な生活を脅かす、差別を助長する作品は厳重に批判されて然るべきですが)
なぜなら、幸運なことに日本では「思想・良心の自由」が、保障されてるから。
だから「反・反権力」演劇祭があってもいいんです。
でもそれは、主宰者と参加者に双方の合意があった場合に限り、です。

誰だって人の家に上がる時は「お邪魔します」って言うでしょう。土足厳禁と言われれば靴脱ぐでしょう?
演劇祭側の行為は、無断で土足で人の家に上がり込んだ挙句、「ここ俺んちだから」って言うようなものです。

今回、演劇祭の趣旨を知らされることないまま参加を決めてしまった参加者は、一様に「演劇祭の趣旨に賛同した人たちなの?」という疑いをかけられてしまいました。その結果、参加者たちはなんらかの形で自分の立場を表明しなければならない状況に追い込まれました。
私が奥山さんに「場合によっては出られないかも…」と告げた行為も立場の表明だし、ろりえが辞退するものそう。いろんな事情で演劇祭への参加を継続する団体にしたって、その決定自体がなんらかの立場表明だとみなされてしまいます。
日本国憲法に定められている思想・良心の自由には、沈黙の自由というのも含まれていて、これは、自分が何を思っているのか言いたくなければ言わなくてもいいという権利です。(憲法は国家権力に対して課される法規範ですが、じゃあ民間はそれを守らなくていいかというと、そうじゃないですよね)
私は自分がしたくて立場表明をしていますが、参加者の中にはイデオロギーに対する立場表明なんてできることなら生涯やりたくないと思っていた人たちも少なからずいるでしょう。
そう言う人たちの沈黙の自由も、演劇祭の杜撰な運営の結果、踏み躙られてしまいました。

人間は思考することで人間であり続けてきました。だから思想・良心の自由、精神の自由は、人間の尊厳に関わる基本的な権利です。そして思想の表出として表現があり、その自由もまた、人間の尊厳に関わる大切な権利。
精神の自由は、表現者にとっての命綱です。(もちろん表現者に関わらず誰にとってもそうです)
それを、表現の場である劇場が軽視したことは、運営内部でどんないざこざがあったにせよ、批判を免れぬ重大な過ちだと思います。
主にTwitter上で取り沙汰されている、開催概要やツイートの文言に対する問題や、協賛企業選定の問題は結局のところ、他者の尊厳を軽んじた結果の表れなんでしょう。

実は、私が一番情けなく感じたのは「演劇が反権力という呪縛に云々…」という文章ではありませんでした。

「日本を愛し、演劇を愛すそんな当たり前を取り戻します♪」
これ。

別に、演劇を愛すことも、日本を愛すことも、当たり前じゃない。
生涯一度も演劇に触れない人だっている。
日本にはいろんなルーツを持つ人が一緒に生活をしていて、その中には日本を愛していない人だっている。日本にルーツを持っていたって日本を愛してない人もいる。その逆もまた然り。
そしてその思いは誰であっても尊重されるべきです。
そういうことに対する想像力の無さ、当たり前と言い切る雑さ、無遠慮さ、思いやりのなさ。他者の尊厳を軽視する演劇祭側の姿勢が、この一文に全て煮締められていると思いました。

なんか…なんか…、どんな考えを持っていてもいいけど、表現に携わる人ならせめて、想像力ぐらいは逞しくあってくれよ…。そう思いました。

以上が、私からみた劇場都市TOKYO演劇祭の本質的問題です。
各劇場主宰の皆様には猛省していただき、未来への礎としていただければと思います。
そしてできることなら、もっといい形で、各劇場さんと出会い直せればよいなと思っております。


ダラダラと長い文章をここまで読んでいただきありがとうございました。
演劇界のなかなかに情けない実情が明らかになってしまいましたが、個人的には自らを顧みる良い機会になりました。
ホウレンソウの大事さとか、事前確認や裏取りの大事さとか、清濁併せ呑むといったって、自分ならどこまでの濁を呑み込めるのか、とか……。
今回の経験を経て、改めて自分の考えを整理することができました。
感染拡大状況どうなるかわかりませんが、可能であれば3月のろりえ、応援していただけますと幸いです。




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