【短編小説】青い空
どんな天気のときでも、どんな時間でも、その窓から見る空は青く見え、青ではない空が見える。そんな窓を作ったという話を、卒業生のオオカワから聞いた。
築五十年は越えるサークル棟の二階の隅にある、物置のようにさまざまなものがつめこまれた小さな部屋の奥を、当時の自分は寝床としていた。何年も前の学際で使った看板、バスケットボール、トランポリンの鉄枠、かどが欠けた将棋盤、スキー板、錆びた釣竿、そんなものを壁際におしのけてスペースを作り、誰かが卒業式のあとに遺棄していったマットレスを敷いた。マットレスには他人の臭いがしみついていたため、前にラブホテルの客室からちょろまかしたシーツをかぶせた。そこで寝起きし、授業に出ていた。
サークル棟にはシャワーもある、トイレもある。電源も室内にある。洗濯は体育会の洗濯機を勝手に使う。飯は学食で十分だった。アパートの家賃を払うのは馬鹿らしい。最近は構内の警備もうるさくなって、夜遅くまでサークル棟に居残っている学生もいない。一人暮らしをするにはちょうどいい環境だった。家賃や生活費の足しにしろと言って親が毎月口座に振り込む金にはほとんど手をつけていなかった。
その日は曇っていた。重くたれこめた雲からは、今にも雨が落ちそうだった。実際、五限の講義の最中に雷が鳴った。その講義が終わるころには十メートル前が見えないほどの強烈な雨が降っていた。
長傘を手に持つ学生も、外へ出るのはあきらめて建物の中で雨をやりすごしていた。確かにこの日の天気予報は雨だったが、こうもひどい降り方は短時間に限られたものだろうと皆が思っていたのだろう。だが、雨は三時間たっても期待するほど弱まりはしなかった。三時間の間に、学生はひとりまたひとりと、傘を持つ者も持たない者も雨の中へ出ていった。残ったのは自分一人になった。施錠に来た警備員が、ぼんやりと廊下に立つ自分を憐れんだのか、ビニール傘を貸してくれた。警備員が言うには、雨は深夜まで続くらしかった。近くの川が氾濫しそうだとも言った。駅までの道々を気をつけるように言われた。
傘をさしながらサークル棟まで全力で走った。耳元で機関銃でも撃たれているかのような雨音だった。建物の軒下に着いたときには、スニーカーの中まで浸水していた。サークル棟の汚れた廊下を裸足で歩くわけにもいかず、濡れた靴のまま寝床の部屋まで歩いた。廊下は普段の土汚れやほこりに混じって水たまりが点々とあった。自分の様に足元を雨に濡らした誰かが水を散らかしていったのだろう、そう考えたがその水たまりは寝床の部屋の前まで続いていた。水を撒き散らした人間ががどこかのサークルメンバーなら不審には思わないが、自分の居室代わりにしている部屋の前まで濡れているとなるとさすがに眉を顰めずにはいられなかった。誰かが中にいるのか。いつもは無造作に開けている引き戸を、おそるおそる開けた。
中には確かに人の気配がした。明かりはないが、粗大ごみのような物品の奥のほうでなにか人らしき塊がみえた。
「あの」
声をかけると、塊はびくりと肩を上げた。
「どなたですか」
塊は黒いコートを着ていた。それはレインコートらしく、動くたびに布地がうるさく音をたてた。迷わずスマートフォンのライトを点灯させ、塊に向けた。
ひげ面の男がマットレスの上に寝転んでいた。伸び放題にしか見えない白髪交じりの髪がうねっている。近所のホームレスが雨から逃げてきたとしか思えない風体だった。
「卒業生だ」
男は寝転がったまま、偉そうに言った。
「お前こそ、誰だ」
偉そうな口ぶりとは裏腹に、男の目はひどく怯えていた。
「在校生です」答えてから少し考えて、「そのマットレスの、持ち主」と彼の体の下を指さした。
「あ、そうなのか」
男は弾かれたように居住まいを正し「汚した。すまない」と頭をさげる。確かにシーツは雨で濡れているようだった。男は靴すら脱いでいない。
「べつに、いいですけど」
話しているところが巡回の警備員に見つかったらやかましいため、自分も部屋の中に入ってドアを後ろ手に閉めた。マットレスに向かう前にスニーカーと靴下を脱いだ。ドアの近くにあるコートスタンドに干してある靴下を一足手にとって履きなおすと、ようやく人心地がつく。
「雨、遅くまで続くみたいですよ」
「あんた、俺が怖くないのか」
世間話をふったら警戒された。
「卒業生なんでしょ」
「オオカワだ」
「はい?」
「俺の名前」
「オオカワさん」
「あんたは」
「あ、じゃあ、オガワで」
「じゃあってなんだ」
身元もわからない他人に本名を教えることはない。それを説明するのは面倒で、適当に空笑いした。
隣に座ってもいいかと尋ねたら「濡れている」と言われたため、床においてあるボストンバックからタオルを取り出して尻の下に敷いた。
近くで見るオオカワの肌は赤黒かったが、体臭はしなかった。清潔に気をつけてはいるのかもしれない。彼には見えないようにスマートフォンの画面を隠し、通話アプリを開いた。
「あんた、ここに暮らしているのか」
「はい」
「ホームレスじゃねえか」
「苦学生なので」
「いまどき」
「うそです。帰るのがめんどうなだけ」
喋りながら、通話アプリに「110」を入力する。なにかされそうになったら、すぐに通話ボタンを押すつもりだった。
「よくこんなところに住めるな。ドアしかないじゃないか」
「いろいろ粗大ごみもありますけど」
「気ぃつまらないのか」
「別に、寝に来るだけだし。それより、本当に卒業生なんですか」
「俺は探しに来たんだよ」
「卒業生なんですよね?」
「そうだよ」
「何を探しに来たんですか」
「窓」
まど? 思わず復唱した。
「窓って、なんの窓ですか」
「昔、サークル室の窓が壊れた。台風で、ひどいのが来たときにどこからか飛ばされてきた鉄の棒がぶっささってガラスが割れた。俺が大学三年のとき」
「いつの話です?」
「ガラスがだめになって、雨風で室内もぐっちゃぐちゃになって、部屋は掃除してどうにかなったけど、窓は大学が直してくれなかった。予算がないって言われて。しょうがないから板をはめたが、外も見えなくなったしずっと暗いしで味気ない。だから俺がつくったんだよ」
「なにをです」
「空だよ」
コンクリート壁をはさんだ外の世界では雷鳴がとどろいていた。単なる夕立ではない豪雨だった。
「空なんてつくれるんですか」
「塗ったんだよ。木の板に、青いアクリル絵の具で」
「なんだ」
少し期待して損した。そこまでは言わないが、大仰な言いっぷりが胡散臭い男だった。
「なんだとはなんだ。あんたは空をつくれるのか」
「空はつくるものじゃなくてあるものですよ」
「あんた、空の色は青だと疑わないクチか」
「青って、いや今の空の色は真っ黒ですけど」
「色なんてのは概念だよ。色は光だ。光によって生まれただけだ。俺は青い絵の具を使って何色にでも見える空をつくったんだよ」
一瞬にして相手をするのが面倒になった。早く出ていってくれないかな、追い出してしまおうか、ここは警察も見回りに来ているからあんたなんか不法侵入でつかまるなどと適当な事を言って、などと頭の中では無意識が勝手に算段を組み立てていく。
「あんた、信じていないな。俺たちが見ている色は光が作っているんだよ。学校で物理やってないのか」
「はあ」
「光があってこそ色があるんだよ。神様だって言っただろ、一番初めに『光あれ』って」
「自分、無宗教なんで」
オオカワは「やれやれ」とでも言いたげに肩を落として首をふった。
「光をふくんでどう発色するか、どんな光を受けるかで、色は変わる。俺は青い絵の具を塗ったくった板で、ありとあらゆる空が見えるような表現をした。成功した。どんな天気のときでも、どんな時間でも、その窓から見る空は青く見え、青ではない空が見える。俺は空をつくった。あれは俺の作品、人生で一番の作品だった。あれを取り戻せれば、俺は」
「じゃあ探しに行きます? どのサークルですか」
「ねえよ。見に行ったよさっき。俺がいたときには予算がないって修繕してもらえなかった窓にはピカピカのガラスがはまっていたよ」
「なんだ、不法侵入じゃん」
「あんただってここで寝起きしていい許可なんぞ得ていないだろう」
「少なくとも在校生なので、オオカワさんよかここにいていい権利を持っていますけど」
「俺は俺の作品を取り戻しに来ただけだ。窓から外されたなら、倉庫にあるんじゃねえかと思ってここに来た」
「ありました?」
男は力なさげに首をふった。ないだろう、自分だって見たことがない。ここで寝泊まりして一年ほど、しまいこまれた物品はすべて見たが、青色に塗りたくられた板は記憶にない。
「ここは窓がないんだな。ドアだけだ」
「はあ、まあ、景色なんて見なくても」
「寝るだけだからか」
「まあ」
「青っていっても一色じゃないんだ。いろんな青を計算して塗りたくった。見た人に訴える青を塗ったくった。その作品を、大学は捨てた」
「そんなに大切なら、卒業の時に持って帰ればよかったじゃん」
「俺はもっとすごいのが作れると思ったんだよ。遊びでつくったやつなんて用無しだって卒業するときには思っていた」
「必要になったんですか」
「俺はあの作品を越えるものが作れなかった。だから最高傑作を取り戻して」
男はそのまま絶句した。ライトの光を男の横顔にあてると、その頬には涙の筋があった。
「取り戻したところで俺の人生は戻らないんだが」
「なんかあったんですか」
「デザイナーだったんだよ。インテリアの。卒業してすぐ大手のデザイン会社に入ったが、上司と揉めて辞めた。そのあとも小さい事務所を全国転々としたが、だめだった。コンペにも落ち続けた。どこも雇ってくれなくて、採用もされず、こうなった」
「デザイナーなら自分で事務所かまえて個人相手の細々とした仕事もできたんじゃないですか」
「俺は大きい仕事をしたかったんだよ。それこそほら、空をつくるような」
「それはデザイナーの領域じゃないですね」
「いっそ神様になりたかった」
オオカワはそれきり黙りこくった。110番をする必要はなさそうだと直感し、手にしていたスマートフォンの通話アプリの画面を消した。外の雨は一向にやむ気配がない。暴力的な雨音を聞きながら、まぶたを伏せて青色にしか見えない多色の空を想像した。青を、たくさんの青を眼前に広げる。青の中に様々な色が混じる。しかしそれは青。青。青。目の奥のほうの視神経を越えたどこかでパチンパチンと光がはじける様な気がした。
「俺、もう行くわ」
不意にオオカワが立ち上がった。急に引き戻された現実の目の前には、見慣れた埃っぽいガラクタばかりの暗闇だった。
「外、まだ雨ふっていますけど」
「あんたもう寝るだろ」
「そうですね。でも」
「迷惑だし」
「この辺に住んでるんですか」
「前の家は大阪だった。そこからずっと東京を目指して歩いてきて、目指していたのはここだから」
「この後、アテはあるんですか」
「どうにかなるだろ」
どうともならないとは思ったが、立ち上がったオオカワのコートをひっぱるような真似はしなかった。彼はガラクタにつまずきながら、部屋から出ていった。最後まで閉められなかったドアの隙間から、男の引きずるような足音が聞こえてきた。
大学近くの川で死体が見つかったという話を教えてくれたのは学食のおばちゃんだった。皿洗いを手伝っている途中の無駄話の一つにしか過ぎなかったが、死体はホームレスの風体をした身元不明の男だということまで彼女は知っていた。昨夜の豪雨で川はいっきに水量が増したらしい。その岸に設置された「遊泳禁止」の看板に引っかかった水死体を通行人が発見したそうだ。オオカワだな、と直感した。なんだよ死んだのかよ、と思う反面、そりゃ死ぬよな、とも思う。その死体の身元が明らかになったというニュースは、その後も特に聞かなかった。
大学を卒業した後、デベロッパーに就職していくつかの建物の設計に関わった。そのなかで、一度だけ上司や同僚に「いつでも空が青く見える窓」を提案したことがある。だが一考される余地もなく鼻で笑われた。「意味がわからない」それだけだった。そういうことなのだろう。「ステンドグラスってわけでもない、そういうのって盲窓っていうんだろ。アートをやりたいなら物好きな金持ちに頼んで別荘でも設計させてもらえ」
めくらまど。そう言われてしまえば何も言えない。見れば見るほど視覚を超越できる空を見たくはないかと反駁しようものなら変人扱いされ、どのチームにも入れてもらえなくなるだろう。その窓の件は、一度言ったきり自分の中で封印した。
三十五歳になる年の梅雨明けした時期から、入社して何件目かの大きなプロジェクトに参加していた。会議のために社外へ出ることも多かった。今日もクライアントの社屋で打ち合わせがあった。外壁も内壁もすべて全面ガラス張りにできないか、そうすりゃ誰もかれも監視しあえるじゃないか、と冗談めかして言う相手先の部長に対し思わず「いつでも空が青く見える窓」の提案が口をついて出かかったがすんでのところで理性が働いた。提案の代わりに「トイレはせめて、普通の壁がいいですね」と言ったら、相手も周りも機嫌よく笑った。打ち合わせはその後も滞りなく進んだ。
客先での予定を全て終えた後、帯同していた同僚たちと近くの定食屋に入る。ランチタイムだったが、奥の壁際のテーブルがうまい具合にあいていた。注文後、すぐに提供された唐揚げ定食をほおばりながら、壁にしつらえてある小さな窓を見る。その向こう側は青空だった。雲一つない晴天。夏の太陽がうなっていた。それを見上げながら、油まみれの唇で「光、」あれ、とつぶやきかけて我に返る。同僚たちは一瞬不審な視線をこちらへ向けたが、すぐに仕事の話に戻った。その話に加わりながら、学生のころからの貯金を元手に個人事務所を立ち上げようかなどと頭の片隅で考える。
了
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