選挙の当たり前を疑ってみた〈ベータ版〉(4)
消費税増税は、介護員に打撃を与える
今回の選挙の争点と言える消費税増税について、ホームヘルパーや介護員の生活に打撃を与えるものだと考える。これは、元々の可処分所得が低いからだ(ヘルパーや介護員の給料は、政府が定める「介護報酬」によって大きく左右される)。2014年の消費税増税(5%から8%へ)ですら影響は大きかった。実質的に賃下げと同じ効果があったと考えている。更に、これを10%に引き上げるとは、いかに現場のことを理解していないかの証拠だ。
特養に勤める20代の中堅介護員から、給料の手取りが月額20万円以下と聞いて、その人に見合った対価ではないと思って驚いたことがある。正規職員で、ボーナスが出るとはいえ、学生時代の奨学金の返済があり、これが長年続くという。これで、一人暮らしで家賃を払うと、一体いくら残るのか。また、お子さんが生まれて、金額的なことから介護の仕事自体から離れた元同僚もいる。介護の専門学校を出て、キャリアも十分だったが、仕事の選択肢から外さざるを得なかった。
一応は、「介護職員処遇改善加算」という国の制度があるものの、複雑で、自分がいくらもらっているのか分からないという人もいた。事業所により運用が大きく異なるという話も聞く。また、この制度では、加算分は利用者に転嫁されるため、ほぼ競争がないと言っていい特養と違い、訪問介護事業所では適用できないところもあるという話も聞く。
進む経費削減、後退する生活の質
入居者の生活への影響は多岐にわたる。オムツや尿取りパッドの使用量を減らすため、入居者の排せつ介助の回数を減らす。また、生活相談員が、各居室トイレの便座のスイッチを「節電」にして回る場面に居合わせたこともあった(ただし、認知症のある方は、便座が冷たいと、嫌がって座ってもらえないため、後で元に戻した。意思表示できる方からは、もちろん指摘があった)。冷暖房や明かりを控えるよう指示が出たこともある。高齢で、かつ要介護状態の入居者を預かる施設として、生命や健康に関わったり、生活環境に不当な制限を受けていると感じた。また、職員、特に介護員の残業代の抑制もある。
「自民党改憲草案」と介護の未来
改憲論議に政治リソースが費やされてしまう。
自民党の改憲草案にある「家族条項」。これがもし実現した暁には、たとえば、愛知県の踏切事故と類似のことが起こった場合、また違った司法の判断が出るのではないかと危惧している。
今の与党では、社会保障の立て直しはできない
今の与党である、自民党、公明党では、社会保障の立て直しはできない。いろいろな要因が考えられるが、まず、議員も、支える組織票も固定化して、新陳代謝が起こる余地がほとんどないように見える。世襲議員が多くを占め、目線の高さが違うと感じる。また、前述したように、当事者である要介護状態の高齢者も、また伴走している介護員も、投票行為から遠のいているため、票田としてみなされることがない。そのため、与党議員にとっては介護現場を改善するインセンティブが働かないと見る。もし社会保障を立て直すなら、6年半もあって、かつ絶対多数であれば、実効性のある取り組みの結果が出てきそうなものだが、現場からそういう声を聞いたことがない。
リスクヘッジとしての野党育成
かといって、「野党には任せられない」という声があるのは承知している。私の考えでは、自民党以外の選択肢をつくっておいた方がいい。1993年は、日本新党の躍進、新生党や新党さきがけの結党などを経て、細川護熙内閣の成立につながった。その後、2003年に「民由合併」を果たしてから、2009年の民主党への政権交代に至るまで、ザッと10年以上かかっている。これは、戦前戦中の支配層の流れを汲む自民党に対する、多くの有権者の試みだったととらえることができるのではないか。
野党議員に関しては、たとえば、介護関係の集まりがあれば、少なくない数の国会議員本人、あるいは秘書など関係者が顔を出して、講演などの内容に耳を傾ける姿を目にする。現場の実情に近いと感じるのは野党議員だ。政党には意見集約機能があり、それを果たそうとしている。
毎日新聞の笠原敏彦氏は、著書『ふしぎなイギリス』(講談社現代新書・2015年)の中で、「イギリスの政権与党にはその政治システムからくる「寿命」がある」と指摘する。そのシステムとは、多数の議員が閣僚などとして政権入りすることを指す。その上で、ゴードン・ブラウン労働党政権から、デービッド・キャメロン保守党政権への権力移譲の様子を解説する。「労働党は13年間政権を維持し、この間に内閣改造を重ねたことを考慮すれば、人材と構想力が枯渇したことは容易に想像できるだろう」とし、「政権与党が「金属疲労」を起こした状態」と形容する。
続けて、フィナンシャル・タイムズ紙の「13年が経ち、労働党は活性化のために休息が必要だ」との指摘を取り上げた上で、「労働党はいったん下野し、次の政権交代に向けて知識を蓄えアイデアを練る時期を迎えていた」と記述する。日本でも、同じようなことが言えるのではないか。
また、アメリカでは、大統領専用機エアフォースワンとは別に、副大統領の乗るエアフォースツーがあるという。あるいは、投資の世界には「卵は一つのカゴに盛るな」という分散投資を促す言葉がある。選択肢が一つしかないのはリスクが高すぎる。これは、安倍政権で露呈したことだと思う。政治にも「冗長化」の仕組みが必要だ。
野党を「他者化」したい欲望
ただ、ネットで散見するのは、「野党憎し」の言動だ。それには善悪二元論的な危うさを感じる。野党支持者などによる安倍政権への非難も目にすることはあるが、与党として長年権力を握っていて、かつ数々の疑念を生じさせている現政権とは同列には論じられないだろう。
この二元論に関して、樋口ヒロユキ氏(サブカルチャー/美術評論)が、フィクション作品についての評論の中で、このように述べている。
「善悪二元論は社会生活に不可欠ないっぽう、暴走すれば社会そのものが危機に陥るほどの毒を孕む。おそらくこれほど強力で、根源的な思考システムはほかにあるまい」
「おそらく善悪二元論は、人間の脳や思考パターンの奥深くに刻み込まれたOSのようなものだろう。(略)「効率と収益最大化こそ善であり、経済的に計量可能でない価値は悪である」とする経済的カルト思想などは、現在もっとも広範にはびこる二元論だろう」(「怪物的宿命を生きる美の血脈--『仮面ライダーキバ』をめぐって」・『ユリイカ 9月臨時増刊号』、青土社・2012年)
「政治の安定」より「緊張感ある政治」を
冒頭から見てきたように、残念ながら、選択・決定の判断材料が、どうも当てにならない。有権者は何となく知名度やイメージで選ぶしかないような気になってしまう。「NHKから国民を守る党」や「安楽死制度を考える会」が掲げるような極端なシングルイシューも、そうしたイメージの中に含まれるのかもしれない。今回は出ていないが、公の場の演説で、公然とヘイトをまきちらす政党も出てきている。有権者は、一体どうしたらいいか。
権力は、使い方次第でどうとでも作用する。それは、たとえば、歴史やフィクション作品が教えてきたところだ。幸いなことに、現在の私たちには投票という手段がある(なお、このことに関して、特に、日本とイギリスの「女性参政権」の歴史を(改めての人も)紐解くことをお勧めしたい)。一人一人の有権者が、投票行動でもって権力をコントロールするしかない。
各候補、各政党の実績などを考慮するのも悪くはないかもしれないが、どちらかというと、いま必要なのは、「選挙後」の議席のバランスを見越して投票することだと思う。自民党と公明党がことある度に強調する「政治の安定」の意味を考えること。その「安定」の結果、何が起こったか。これだけでも判断材料としては十分だ。いま必要なのは、「緊張感ある政治」ではないか。運命に身を委ねるのか、自分自身で切り拓くのか。支持政党がある有権者も、よく考えてほしいし、今こそ無党派層の出番ではないかと思う。
最後に、内田樹氏の示唆的な指摘を見ておきたい。
「子どもは成熟をめざす歴程に足を踏み入れなければならない。それは子ども自身のためであると同時に、彼らを含む共同体の安全のためでもある。それは子どもが子どものままであることが、共同体にとっての災厄を意味するからである」
「「矛盾」を知らない子どもはある意味で「無敵」である。葛藤を知らず、世界のすべての意味を熟知しており、真偽の判定も価値の査定も自分に委ねられていると信じている幼児たちほど恐ろしいものはない」
「しかし、この「子どもだけでも経営できるシステム」が不調になったときに、いったい「誰が」メンテナンスを引き受け、「誰が」制度設計の青写真を描き直すのかという問題は答えのないまま残されている。私たちが今緊急に考えなければいけないのはこの問題だろう」(「もっと矛盾と無秩序を」・『大人のいない国』、プレジデント社・2008年)
以上、投票のヒントとして、また、要介護状態の高齢者に限らず、この日本社会で、いないことにされている多くの隣人たちのことを考えるきっかけになれば嬉しい。決してひとごとではないかもしれないのだから。
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