見出し画像

選挙の当たり前を疑ってみた〈ベータ版〉(1)

はじめに

本稿を書こうと思ったきっかけは、Twitterでよく見る、選挙で選ばれたんだから、「政権を批判するな」「これが民意だ」「政権のすることに反対するな」「文句を言うな」「従うのは当たり前」「安倍さんにがんばってもらうしかない」といった言葉に違和感を覚えたためだ。これらを当然視するのはおかしいのではないか。こういう問題意識から出発して、考えを進めてみたい。

まず、選挙にまつわる一連の行動を図式化すると、下記のようになると考える。

(1)「選挙のお知らせ」が届く → (2)候補者の選択・決定 → (3)投票

「気をつけて。あなたは運命を選ぼうとしている」

公平な競争と言えるのか

「(2)候補者の選択・決定」から検討してみたい。

選択・決定の判断材料として思いつくものを挙げてみる。
公営掲示板のポスター/街中に貼られている候補者や政党のポスター(選挙期間前に、それ以前のものと貼り替える必要があるようだ)/選挙公報/政見放送/駅前や街中での演説/選挙カー/メディアによる報道(選挙期間中、及びそれ以外)/候補者や政党、支持者などによるTwitterやYouTube、SNS、ブログなどでの発信/政治広告(ネット、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌など)/その他

一見、それぞれの生活スタイルにあわせて、多くの選択肢があるように思える。ただ、これらの情報にアクセスできない有権者にとっては、どう考えたらいいのか。たとえば、私の周りでは、自宅にテレビがない人は少なくない。また、私の場合は、今回、選挙公報が届かなかった(自治体のサイトでも閲覧できることを思い出したのは、投票を済ませて何日か経ってからだった。総務省の特設サイトがあることを知ったのは投票日前日だった)。

これらの媒体(と情報)にアクセスできても、たとえば、ポスターには、顔写真と候補者名、政党名、あればスローガンくらいの記載だけのものがほとんどだ。多くの有権者にとって、これだけで判断することは無理がある。また、選挙カーについては、公職選挙法により、「走りながら流す内容は、キャッチフレーズ(政策)と候補者名・所属政党名の連呼に留まる」とのこと。

また、選挙公報において、以前、ある自民党現職候補は、「実現したこと」として、「介護職の処遇改善加算、月額平均3万円アップ」のように記載していた(「平均」というのがミソなのかもしれない)。介護員当事者として、これは事実と異なると言わざるを得ない。しかし、一般の有権者は、「そうなのか」と思い、評価するのが自然だろう。意図的ではないにしろ、事実誤認にしろ(現職の国会議員が事実誤認するのも問題だと思うが)、判断材料に、オルタナティブ・ファクトと言えそうなものが混じっている可能性がある。かつ、そうしたものが検証されることは稀なように思う。

あるいは、政権にとって都合の悪い情報の公表を選挙後に先送りすることもあった。これは、毎日新聞のスクープ記事によって明らかになった。

「2018年度介護報酬改定の基礎資料となる介護事業経営実態調査の結果公表を厚生労働省が衆院選後に先送りしていたことが、同省関係者への取材で分かった。社会保障費抑制の観点から介護報酬は厳しい改定になる見通しで、今回の調査結果は財務当局が報酬引き下げを主張する後押しになるデータも含まれる。引き下げ論が強まれば介護事業者らの反発も予想され、同省幹部は「選挙に影響を与えないため、公表を遅らせた」と明かす」(『毎日新聞』「介護経営調査 公表先送り、厚労省「選挙に配慮」」2017年10月16日)

また、2014年12月の総選挙では、投票日の2日後に、介護報酬の引き下げ方針が発表された。

さて、公営掲示板でも、届け出た候補者全員のポスターが貼ってあるわけではなく、掲示板によってバラツキがあった。ちなみに、2016年7月の東京都知事選では、候補者21名に対し、私が見た限りでは、大体どの掲示板も7〜8枚程度しか貼っていなかった。該当するのが、どれも主要政党の候補者ではなかったとはいえ、税金を使っている事業において、こうしたことがあっていいのか疑問がある。結局、ポスターを貼るのにボランティアをどれだけ動員できるかどうかによって差がついている現状があるのではないか。

こうして見ると、「候補者の選択・決定」に関して、ふたつの点に思い至る。ひとつは、選挙を競争としてとらえた場合、その公平性が必ずしも担保されているわけではないということ。端的に言えば、与党に有利ではないかということ。2点目は、上記で挙げた判断材料に事実でないものが紛れ込んでいたり、あるいは必要な情報が十分に提示されないまま、有権者が判断をしてしまう可能性があるということ。税金が、これら選択の判断材料の財源であろうことを考えると、一納税者として釈然としないものがある。

最近、「EQUALITY」(同等、平等、対等)と「EQUITY」(公平、公正)の対比を示したイラストのことを知る機会があった。選挙においても、何らかのこうした措置が必要ではないだろうか。ただし、足台の配分をめぐる調整は、今後さらに難しくなりそうな予感はある。

なお、競争の公平性ということで言えば、首相の(衆議院)解散権についても、徐々にではあるが問題化しつつある。首相が自党に都合のいいタイミングで解散することができるのは、党利党略そのものだと言える。政治学者の野中尚人氏は、「世論調査などが発達した現代では、いつ衆院選を行えばどの党にとって有利かをかなりの程度まで予測することが可能」と指摘する(『朝日新聞』「制限ない「首相の解散権」時代遅れ」2016年5月13日 朝刊)。また、「いまや主要先進諸国は解散権を制約し、ほぼ使えないようにしている」。たとえば、イギリスでは、「2011年に、議会が内閣不信任した時以外にはほぼ解散ができないとする法律が成立」したという。

【参考】
不意を突く「アベノミクス」解散 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス

ガラパゴスな投票の陥穽

「(3)投票」についてはどうか。私自身は毎回若干の緊張がある。ついうっかりして違う候補者名を書いて、そのまま投票箱に入れてしまうのではないか、何かの間違いで私の1票が無効になることはないか、という心配だ。また、以前、ポリタスで、「手に力が入らず、候補者名や政党名が書けないという声も聞いたことがある」と書いた。

先日、毎日新聞の記事で、「自書式」(自書主義)を採用しているのは、先進国の中では日本だけで、他の国々では、投票用紙に印を付ける「記号式」が主流と紹介していた。

「日本式投票はガラパゴス 他国の主流は「記号式」」

最近、安倍首相が、立憲民主党を「民主党」と繰り返し言い間違える(?)ことがニュースになっている。記号式にすれば、こういうことは(前述した私の心配も)なくなるかもしれない。今回の選挙で「民主党」と書くと、国民民主党に票が行く可能性が非常に高いという。なお、立憲民主党は「りっけん」で略称を届け出ているとのこと(だから、同党の候補者が「#りっけん」というハッシュタグを使用しているのかと今更気づいた)。

参院選で「民主党」と書いたらどうなるの?選管に聞いてみた

また、同じくポリタスで、「不正は難しいのではないかと思う」と書いたが、今年2019年4月の福井県知事選での、特養の施設長や職員による不正投票に関するニュースが報じられていた。不在者投票の外部立会人の普及は、あれから約4年半経った現在、どこまで進んでいるのだろうか。

健常者であっても、たとえば若い世代、特に自宅から離れた地域の大学に通っている有権者が、投票用紙の請求が間に合わずに投票できなかったという話も聞く。手続きの煩雑さが、一種のバリアとして機能してしまっていると言える。

【学生必見】一人暮らしでも住民票を移さずに選挙で投票する方法 | NANAPI [ナナピ]

私の場合、今回、期日前投票に行ったところ、その会場ではまだ行われていなかった。確認したところ、その会場で期日前投票ができるのは、投票日の一週間前からだった。それまでの間で投票できる場所は、私の住む自治体内では一箇所に限られていた(確認しないのが悪いと言えば、それまでだが)。そこまで行くには交通費がかかるので、日を改めて投票した。私の場合、今回は、改めて行くことがたまたまできたが、それができない有権者も多くいるだろう。

「疑ってみた」ということで言えば、即日開票についても触れておきたい。先日、「翌日」開票の選挙があったが、これで特に問題ないのではないか(不正防止は考える必要があるかもしれないが)。対応する職員などの負担(以前、死傷事故を起こして逮捕された選管職員が、1か月間に200時間以上の残業をしていたことが報じられたことがあった)、経費(割増賃金など)の面でも望ましいのではないか。以前、投票所の閉鎖時刻を早めることも起こっていたらしい。

メディア、特に、テレビ局は視聴率的に難色を示しそうな気がするが、むしろ、何を報じたらいいかを冷静に考える機会になるのではないか。20時過ぎの当選確実を報じることに、どれだけの意味があるのか。また、そこに注力するより、他に大事なことがいくらでもあるのではないかと思う。

(2)へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?