選挙の当たり前を疑ってみた〈ベータ版〉(2)

投票所までの移動にお金がかかる?

冒頭の図式の、「(2)候補者の選択・決定」と「(3)投票」の間には、投票所までの移動(自宅との往復)がある。健常者でも天候によって投票率が上下することはよく言われている(2017年10月の総選挙では、台風21号が直撃した)。障害がある有権者にとってはどうなのか。

ポリタスで「体が動く方でも、例えば、足が痛いから投票所まで行けなかったという声を聞く」とも書いた。たとえば、要介護状態の高齢者の場合、家族やホームヘルパーによる支援が必要になるかもしれない。家族が付き添えない場合もあるだろう。ケアマネジャーに依頼して、ヘルパーを手配する必要がある。ただ、お金と手間がかかるため、これだけでも十分ハードルになりうる。そもそも、当事者の方も、その家族も、投票行為にヘルパーの支援が依頼できることを知らないかもしれない。

試しに、Twitterで、「#投票支援」「#投票介助」で検索したところ、このツイートがヒットしただけだった。

ただ、この場合も、自費ヘルパーなので、お金と手間がかかる。介護保険を利用するにしろ、自費(保険外サービス)を利用するにしろ、投票するためにお金がかかる有権者がいるという状況は、どう考えたらいいのか。

投票行為は、ノーマライゼーション、ひいては人権のスタート地点に等しいと思うのだが、このことについて、支援職はどう考えているのか気になる。また、海外の状況はどうなっているのか。

未来からのメッセージは伝わりにくい

これらは、年金の有り様と似ているように思う。年金(参政権)があっても、要介護状態の場合、「支援する人手」がないと、自分の年金(参政権)を自分のために十分に使うことができない。かくして権利は死蔵されることになる。年金のことで言えば、年金(現金給付)に対して、「支援する人手」(現物給付)への視点を欠いた議論が多いように感じる。

また、よく言われる「シルバー民主主義」についても、一面的な見方だということに思い至る。投票率が高い高齢者に有利な施策が多いと言われがちだが、その中で「要介護状態の高齢者」は、おそらく念頭に置かれていない。

特養入居者は、—全ての施設がそうではないと思うが—たとえば、一年の間で、人によっては日の光に当たる機会が極端に少なかったり、入浴は、どの方も基本的に一週間に二回だったり、トイレに行くのも、(人によっては)介護員に遠慮しながら頼むこともある。また、施設入居者を支えている介護員は、主に若い世代であることが考慮されていないと感じる。

ある時から要介護状態になり、セーフティーネットが穴だらけということに気づいて、怒り、声を上げようとしても、そのときには、おそらく社会的な発言力はなくなっている。以前、ある特養入居者が、施設の生活のあまりの不自由さに、「ここは格子のない牢屋だ」と介護員を難詰した。その声は、介護員が傾聴して終わり、一般的には社会まで届くことはない(はずだ)。

健常者にとって、施設及びその入居者と接する機会はほぼないと思う。しかし、見えにくいだけで、確実に隣に存在し、かつ、健常者自身の「未来」(に近い状況)を映している。施設入居者の声が直接社会に届くのは稀なように思うが、在宅生活を営む方の声が漏れ伝わってくることはある。また、一部のヘルパーや施設の介護員などが勤務の合間を縫って声を上げている。

ただ、フィクション作品でモチーフになるように、「未来からのメッセージ」は、とかく伝わりにくい。それに、そのメッセージが届いたとして、真剣に取り合っている健常者がどれだけいるだろうか。

政権の「正統性」と施策の妥当性の関係

今まで見てきたことから言えそうなのは、投票する意思があるのに、それが叶わない人がいて、そのことに対処しない現状が続いているということではないか。これは、国会の多数派(与党)や政権の「正統性」に関わる問題だ。かつ、その政権の「施策の正統性」及び妥当性にも関わると言える。

結果として、多様な有権者の実態とは乖離した施策が出てくる可能性が高い。実際に、社会保障分野において、当事者や現場の実態と乖離した施策は数多く出ている。

私の手元に、故・多田富雄氏が生前寄稿した新聞記事がある。脳梗塞で倒れた氏が、2006年の診療報酬改定(2005年の「郵政解散」の翌年でもある)により、障害者のリハビリが発症後180日を上限として実施できなくなったことに抗議する内容だ。

「リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う決定は、人間の尊厳を踏みにじることになる」(『朝日新聞』「診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告」2006年4月8日 朝刊)

少数者、当事者の声を聴くことから「新しい社会」を構想する

こうした状況は、社会の漸進的な改善を阻んでいるようにも見える。社会的な損失も多大だ。

別の観点からは、代表の選出について問い直す必要性も出てくる。たとえば、今回の選挙では、れいわ新選組から—「特定枠」というイレギュラーな制度によってではあるが—重度障害の当事者二人が立候補している。また、永田夏来氏牟田和恵氏が指摘しているように、昨年2018年5月、「政治分野における男女共同参画推進法」(日本版パリテ法)が成立しており、これも同様の視点で見ることができる。各政党の取組み状況についても、永田氏が解説している。

法政大学の堅田香緒里准教授は、「もはや私たちは、人的資本であるより前に、その生を無条件に保障される人間であることは出来ないのだろうか」と問う。そして、新しい社会を構想するヒントとして、中西正司氏と上野千鶴子氏の著書『当事者主権』(岩波新書)を引用した上で、こう記述する。

「そもそも選挙権を持たない者や選挙権の行使を実質的に阻まれてきた者、間接民主主義の下では絶対に少数者にならざるを得ない者がいること。障害者や女性のような「社会的弱者(少数者)」は一般に、「人的資本」としての価値を値踏みされ、その価値を低く見積もられてきたこと。そうした社会の在り方を問い直し、主権の埒外に置かれてきた「少数者」の声に耳を傾け学び、そこからあらたな社会を構想すること」(池田賢市・桜井智恵子・教育文化総合研究所「研究会議」編著・2018年・「求められるまま「アクティブな市民」を育てるのか?」・『主権者はつくられる』・アドバンテージサーバー)

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