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選挙の当たり前を疑ってみた〈ベータ版〉(3)

寝ていたい有権者のために

今現在は健常者であり、行こうと思えば行けるが、選挙に行かないという有権者について考える。冒頭の図式で言えば、

(1)「選挙のお知らせ」が届く → (4)選挙に行かない(棄権) と表せる。

すぐ思い起こすのは、投票に行かない有権者のために使うお金のことである。2017年10月の突然の解散総選挙(「国難突破解散」)の時、かかるお金が600億円以上になると話題(もとい問題)になったが、このうち、これらはどのくらいを占めるのだろうか。

選挙にかかる600億円なんて、たいした額じゃない

選挙の啓発ポスターから始まって、駅に掲げられた横断幕、投票日当日の防災行政無線による放送、コンビニでの放送、最近では、電車内や商業施設、地下通路などに設置されているデジタルサイネージ(電子看板)での広報もある。今回私が足を運んだ投票所の前には巨大な看板がそびえていて、建物の中にも、投票所入口の位置を示す看板などがあった。

また、先日は、選挙管理委員会が駅前でウェットティッシュを配っていて唖然とした。これだってタダなわけがない。材料費も、配る人たちの人件費も、企画した人たちの人件費だってかかっているだろう。

啓発ポスターについては、毎回著名人が起用されているが、以前、急な衆議院解散だったため、なかなか決まらないというニュースがあったように記憶している(検索してみたが、いつの選挙のことか分からなかった)。担当の方が毎回知恵を絞って苦労されているのだろう。ただ、これらの費用対効果を検証したことがあるのか気になる。健常者については、「選挙のお知らせ」で十分ではないのか。これらを、前述の、支援が必要な有権者のために回すことは難しいのだろうか。

ペナルティをとらない審判

これもよく言われることだが、投票率が下がると、組織票が強固な自民党や公明党に有利に働く。言い換えれば、どういう意図であれ、選挙に行かないことは、現与党・現政権を、間接的、消極的にでもアシストしているようなものだと言える。

その結果として、国会議員としてふさわしいのか疑わしい候補者が当選することもある。たとえば、『新潮45』への寄稿などが国内外で問題になった杉田水脈衆院議員は、2017年の衆院選において、自民党の比例中国ブロックで単独17位(比例代表のみの出馬)だったが、比例上位の候補者が(重複立候補した小選挙区で)軒並み当選したため、この順位でも当選した。

また、特に今回の選挙の場合、この6年半の安倍政権に対して、どのような評価をするか、有権者が問われていると言える。先日、たまたまJリーグの試合を見ていて、選手/プレイヤーがファウル(反則)をしても、ペナルティをとらない審判みたいなものだと思った。ルールが守られないことを審判が放置すれば、ゲームとして成り立たない。想像するだけでもカオスだ。しかし、現実に、今そうした状況になっているように見える。

たとえば、森友学園問題における財務省理財局による決裁文書の改ざん、毎月勤労統計の不適切調査など統計不正問題、中央省庁による障害者雇用の水増し問題、また、南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報問題では、当時の稲田朋美防衛相が辞任に追い込まれている。

もっと他にもあったはずだし、フローかつ断片的な情報しか分からない。政権の支持層と不支持層でも解釈が違っていて、ますます理解できない。新書サイズで解説する本がほしいくらいだ。

「文書の保管」や「改ざん防止」については、私の知る限り、介護現場でも(そして、おそらくどの分野でも)日常的に神経をとがらせる課題だ。介護分野では、そうした文書のチェックが行政機関によって行われるため(そのチェックが妥当かどうかは別の問題として考える必要がある)、予定日が近づくにつれ職場は戦々恐々とした雰囲気に包まれる。もろもろの準備のため、ひどい長時間残業の話も数多く聞く。しかし、こうしたことがあって、はたして示しが付くのか。

選挙制度の検証が必要

投票率が下がれば下がるほど、前述した、国会の多数派(与党)、政権や施策の「正統性」に関わる。衆議院総選挙についてではあるが、一橋大学大学院の中北浩爾教授は、1996年以降の自民党の絶対得票率について次のように指摘する。「小選挙区ではおおむね25%前後、比例代表では15~20%で推移している。大勝した2012年と2014年の総選挙も、この水準にとどまっている」。

「自民党」盤石じゃないが優位は崩れない理由

つまり、死票の多さが問題になってくるが、そのことを考えると、特に衆議院については、現行の「小選挙区比例代表並立制」でいいのかという問いも出てくる。1996年に初めて実施された後、すでに20年以上経過した。壮大な社会実験でもあったと思う。参院選ではあるが、このことも議論されていい。

参議院についても、一人区は(衆議院の)小選挙区と同じと言える(ただし、衆議院と違って、比例代表との重複立候補はできない)。比例代表については、「拘束名簿式」から「非拘束名簿方式」に移行したものの、有権者にとっては、数多くの候補者の中からどうやって一人を選択するか。候補者にとっては、いわば全国区なわけで、活動範囲をどうするか。選挙費用との関係をどうするか。比例代表は政党名を書いてもいいわけだが、こうして全体的に見ると中途半端な印象を拭えない。

もちろん、一票の格差に端を発した、「合区」や「特定枠」についても議論を進めなければいけない。ただし、議員定数の削減ありきで話を進めることには一旦立ち止まって考え直してほしい。定数を削減した分、国民の代表も減ることになるからだ。

また、国会議員の担い手が、特に、長年与党である自民党において、世襲議員に大きく偏っている現状を問い直す必要もある。休職制度の広がりや供託金の再検討など、考えなくてはいけないことが山ほどある。

JAXAに在職しながら出馬。「立候補休職制度」は議員のなり手不足解消に一石投じるか

いっそ、中世〜近世フランスのように、全国三部会にしてみてはどうだろう。「三つの身分はそれぞれ、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民で構成される」そうだ。二世議員から(つまり、三世、四世…)は第二身分と見立て、宗教団体系の議員は第一身分と見立てれば、有権者にとってだいぶ分かりやすくなるのではないか。

選挙権と多数決も疑ってみた

治部れんげ氏が指摘しているような、子どもたちが「代表なくして課税」されている状態というのは私もそう思う。消費税で言えば、子どもたちも払うし、日本で暮らしている外国籍の方も払っている。「代表なくして課税なし」あるいは「代表なしの課税は暴政である」を是とするなら、何らかの措置が必要ではないか。たとえば、現行の有権者の持分を2票にして、子どもと外国籍の方は、それぞれ1票とすることを想像してみてほしい。

子どもの判断能力を疑う声もあるのだろうが、では、大人がきちんと判断して投票していると、どこまで言えるのか(私だってそんなことは言えない)。支持政党や所属組織の上意下逹で投票してはいないか。また、約半数の有権者が投票に行かないことをどう考えるか。

子ども食堂が盛んになり(そのことが持つ意味も考える必要がある)、そこから「子どもの貧困」についても、人々の認識が広がり始めていると感じる。また、ヤングケアラー(18歳未満の子ども、学校に通っている子どもでケアをしている人)や若者ケアラー(18歳からおよそ30代の人、とのこと)、また、コーダ(聞こえない親を持つ子ども)といった若者世代の声はどこまですくわれているのか。こうした問題の当事者として、被選挙権は学業などの関係で困難だとしても、選挙権は18歳以下でもあっていいのではないか。資格は十分あると思う。

※ヤングケアラー、若者ケアラー、コーダについては、「ケアする子どもと若者たち—ケアを担うということ、そして将来への不安」『支援 Vol.7』、2017年、生活書院を参照した

もうひとつ。多数決についても疑ってみてもいい。坂井豊貴氏は『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波新書)の中で、2000年のアメリカ大統領選挙を例に挙げ、「多数決は「票の割れ」にひどく弱い」と指摘する。また、多数決を採用した「選挙が人々の利害対立を煽り、社会の分断を招く機会として働いてしまう」と言い、これは今の日本社会に当てはまると感じる。

同氏によると、多数決は「慣習のようなもので、他の方式と比べて優れているから採用されたわけではない」。「民主主義を実質化するためには、性能のよい集約ルールを用いる必要がある」として、多数決以外の集約ルールのひとつ、「ボルダルール」を紹介する。これは、「1位に3点、2位に2点、3位に1点というように、順位に等差のポイントを付け加点していく」ものだ。詳細は本書を参照していただくとして、「社会制度は天や自然から与えられるものではなく、人間が作るものだ。それはいわば最初から不自然なもので、情念より理性を優先して設計にあたらねばならない」という氏の言葉に耳を傾けたい。

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