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2020年11月3日に仙台に行った話

本棚は揺れていた

確かあの日は朝から家にいたと記憶しています。中学生生活で最後の期末試験や高校受験も終わった時期で、特に学校の授業もなく自宅学習、という体裁の春休みに入っていました。

私の部屋には自分の身の丈よりも背の高い本棚があった(今も自室には同じものがある)のですが、お昼時と夕方のちょうど境目のような時間にその本棚が最初は小刻みに、そして徐々に大きく揺れ始めました。

当時(今もですが)私の部屋には本が多く、他に室内には取り立てて大きな物もなかったので本棚が倒れまいと押さえました。どれほどの時間支えていたでしょうか、揺れが収まった頃、2階の自室のラジオのスイッチを入れました。

当時バンドにハマっていた私はネット掲示板の2ちゃんねるの楽作板(楽器・作曲板)によくよくROM専ではありましたが入り浸っていました。2ちゃんもいつからか5Chへと名前が変わってしまいましたね。

そうしてラジオを聞きつつ次は2ちゃんを見るべくPCで2ちゃんの専ブラーJaneだったか―を開いた記憶があります。東北地方のユーザーからの書き込みは青森・秋田・山形が主で、私の見る限り岩手・仙台・福島からのレスが全く途絶えていたのが印象的でした。ただ事ではないのだな、と真っ先に感じたのはその瞬間でした。

何が起こったか、何が起こっていたかは2011年3月11日を同時代的に経験した人にとっては多かれ少なかれご存知かと思いますし、敢えてここに書こうとは思いません。

次に2011年春の記憶として強く残っているのは米が足りなくなったことです。買い占めか、物流が滞ったのか、はたまたその両方か、近隣のスーパーや食料品店から米がなくなったことには驚きました。どこからか―おそらく人づてなのでしょうが、30分ほど車を走らせた店で量は少ないが米を売っているらしい、という話を親が聞きつけたようで、米の買い出しに親と共に向かったのを覚えています。

数日後には中学校の卒業式を控えていました。ちょうど輪番停電が関東一円で始まるかどうか、というタイミングでの卒業式でした。当初の予定では午前中に式を挙行するはずでしたが午後から行うことになりました。卒業式を終え、夕方ごろ中学校を後にする際に学年主任が「早く帰りなさい、でないと停電するぞ」と、冗談なのか本気なのかなんとも言えない口ぶりで卒業の余韻に浸る生徒たちを追い出していました。

高校時代

高校に入学してみると、ほんのひと月前に大きな地震があったとは思えないような空気が―これは今思えば、という話ですが―流れていたような気がします。生徒会に入ってだいぶ月日が経った後に先輩たちから、「入学する直前の時期に募金活動をしたんだよ、全然集まらなかったからうちの生徒はケチなのかもね(笑)」とごくごく簡単な話を聞きました。

またしばらく年月が経ち、私の地元の日高市で岩手県の震災がれきを処理する旨を説明するチラシが役所から配られた記憶があります。日高市はごみ処理の仕組みが特別で、市内にあるセメント工場でごみを処理してセメントの原料にする、という方法をとっているのですが、そのやり方でがれきを受け入れて処理する、といった旨でした。確かそこにはがれきの元の場所と福島第一原発との距離は日高市との距離よりも遠いです、という文言もあったと記憶しています。

大学時代

高校卒業後、私は1年間大学受験浪人をしていたのですが、そのときの予備校の世界史の先生がアメリカでハリウッド版ゴジラを観た話を授業中の雑談で話していました。「あのゴジラは震災や原発事故のオマージュを入れている」と黄緑色に髪を染めた先生が語っていました。

大学に入学したのは2015年の春ですが、被災地復興ボランティアに取り組む学生も多くいました。私の友人でもそうした活動に多少なりとも携わった人は肌感覚ですが半分かそれくらいいたような気がします。在学中のバイト先だったコンビニでも私とほぼ同年代で陸前高田出身の方がいました。

「被災地」に関わろうと思えば関わることはできたと思いますが、一方で学生時代の私は経済的に満ち足りていたかといえばそうでもなく、在学するのに精いっぱいで直接ボランティアのような形で関わるのには踏み込まず、言葉を選ばずにいえば少し引いたところから眺めていました。

大学を出てから

一方で、この先数年の間のどこかで、ほんのわずかでも足を運ぶことができたらいいなとも思っていました。できたらいいな、というよりはそうする・そうなるのだろうな、という半ば根拠のない自信や直感に近いかもしれません。

2020年の秋ごろから、私は体調を崩していました。最近よく話す大学の先輩から「頑張りすぎたんだね」と言われましたが、結果的にはひと月以上仕事をお休みしていました。

大学の2年生の秋か冬ごろの時期から、それ以来毎年毎年その季節に集まってその一年のよもやま話や次の年の目標など、様々なことを話す大変気心の知れた仲の友人が2人いまして、その2人とお休みしている期間中に話す機会がありました。大学2年のころに初めて集まり始めたときもきっかけは私を励ます会、のような建付けで、今回もこれからどうするべきか、といったずいぶん重い相談をしたのですが、そのときに「どこか行きたい場所、したいことはないの?」と問われました。私の口からは「東北の被災地を見ておきたい」という言葉が出ました。

友人からは「行きたい気持ちが少しでもあるのならば行ったほうがいい」と声をかけられました。そのときの私の気持ちは、まあ確かに足を運びたい気持ちはあるが、果たしてそれは今なのだろうか、今でよいのだろうか、と迷いがありました(その友人は自分が就職先にアプライをする背中を押してくれた人でもあります)。

実際に行こうと決めたのは前日の夜でした。迷いは最後までありましたが、遠出すれば気分転換にもなるだろう、というほんのわずかな違いだったと思います。前日の夜、駅の券売機で翌日のほとんど朝一の新幹線のチケットを取りました。

行きの新幹線の中では「82年生まれ、キム・ジヨン」を読みました。本の感想もまたどこかで書きたいですね。暮らしの拠点が生まれてこの方関東以外になったことがない身で、仕事の出張に行くということもないため新幹線に乗る頻度はそう多くないのですが、高校のときに所属していた新聞部でエネルギー政策を特集した際に静岡県の浜岡原発まで取材したとき新幹線に乗って(途中乗りそびれて東京~品川間だけ乗って降りる、なんてこともしました)向かったこともありました。

新幹線に乗っているとBUMP OF CHICKENの「銀河鉄道」の一節を思い起こします。

僕の体は止まったままで 時速200キロを越えている
考える程に可笑しな話だ 僕は止まったままなのに

仙台に着いた

仙台駅に着いて、仙台市営地下鉄東西線に乗り換え、終点の荒井駅へと向かいます。そこからはバスに乗り継ぎ、震災遺構荒浜小学校前のバス停で降りました。

現地でどうするかは慰霊碑に手を合わせようと思っていたこと以外特に決めていなかったのですが、旧荒浜小学校の校舎内は震災当時の被害や避難所としての様子が記念館のように展示されていたので一通り見学することにしました。

【宮城県 仙台市 若林区 荒浜】 1889年(明治22年)に周辺との合併で宮城郡七郷村の一部となり、後に仙台市の一部となる。仙台湾沿いにあり、漁船を浜辺に引き揚げる海浜漁村だったが、その後は漁船を仙台港か貞山運河に係留している。2011年の東日本大震災直前にはおよそ800世帯、2100人が住んでいたが、津波で186人が死亡し、建物全てが流された。住民は内陸に移り、深沼海岸にあった海水浴場の清掃活動などを行っている。 Wikipedia「荒浜」

荒浜小学校4階建ての校舎のうち2階の高さまで津波は押し寄せ、3階外壁にも瓦礫がぶつかっていたそうです。

印象的な展示はこちらでした。

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(写真中央あたりに「今ここ!」とあるのが荒浜小学校の位置)

荒浜地区の街村の姿を1/500サイズの縮尺模型で復元したものに、地域の人たちが各々の記憶を語り言葉を記した「記憶の旗」という形で地域の記憶を残す試みです。(「『失われた街』模型復元プロジェクト」槻橋修+神戸大学槻橋研究室)

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どこに誰さんの家があった、あの林ではよくキノコ狩りをした、昔は貞山運河でよく釣りをした、などなどの地域の人のエピソードが「記憶の旗」として模型の中に記されています。

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模型はちょうど荒浜小学校から荒浜地区の向きと合わせて展示されていました。

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今の荒浜地区。1枚前の写真の展示室(教室)から望んだ景色です。雲と風はあれど晴れて過ごしやすい天候でした。

海岸線へ

荒浜小学校から海岸線へは徒歩で10分程度でした。海岸へ向かう道のりには津波で流された住宅の基礎部分が残されていました。

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道すがら建設自動車やショベルカーの動く音が聞こえていたのですが、それは一部の遺構を残して他の瓦礫、基礎などを撤去する工事を行う音だったようです。

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歩みを進めていると海岸を背に立つ慰霊塔までたどり着きました。自分の他には訪れている人はいませんでしたが、自分が手を合わせた後遠巻きに振り返ってみるとまた別の方々が手を合わせていました。雲が多くなり風も強くなりやや肌寒さを感じてきました。

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防波堤に上がると太平洋が広がっています。海を自分の意思で一人で見に行ったのは初めてかもしれません。この日の太平洋は穏やかでした。

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同じ場所から後ろを振り向くと荒浜地区が見えます。写真中央には先ほどの慰霊塔が、そのやや右には荒浜小学校の校舎が見えます。その向こうには2019年に全線が開通した東部復興道路、かさ上げ道路が仙台市を南北に通っているため仙台市街までは見通せません。

雲が多く海風で冷えてきたのですが、それでもほんのひととき日が差す瞬間もありました。

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海辺とはいえ、地平線まで見通すのも初めてだったかもしれません。

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どれくらい防波堤の上に腰かけていたでしょうか。駅へ向かうバスの時間が近づいてきたため海岸から離れる途中には「荒浜記憶の鐘」というものがありました。

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写真奥の鐘のついたモニュメントから手前の「13.7m」と刻まれた丸い石との距離が13.7メートル。これは荒浜地区を襲った津波の最高到達高です。

仙台駅周辺まで戻る

バスと地下鉄を乗り継ぎ仙台駅まで戻ることにしました。体調も本調子ではなかったためこれ以上はあまり動きまわれないなと感じたためです。

14時ごろ、そういえばお昼を食べていないことを思い出したので仙台名物の牛タンを食べてみることにしました。

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食べた瞬間、表情が和らいでしまうような美味しさでした。これは本当に美味しかった。

いよいよ動きが取りづらくなってきたため、帰りの新幹線を予約した後はベローチェに入り抹茶ラテを頼んでテーブルに突っ伏していました。

仙台に行き、どう思ったか

これは自分にとって難しい問いです。一度震災の被災地に足を運びたかったという願望を実現させられたという意味ではよかったかもしれません。また、自分の目で見ておくべきだろうという義務感も心のどこかに抱えていたのでそれに対しても応えることができました。

ただ、長く住んでいた土地が津波で更地になってしまう気持ちを想像することはできても実際に経験することはできません。荒浜地区の住民の方々は被災後には仙台市の内陸部に移り生活しているそうです。

仙台市営地下鉄東西線荒井駅には荒浜地区を含めた周辺地域の復興とこれまでの歩みを展示するスペースがありました。海岸に近い地域からの移住、交通網の整備、地下鉄の開通、様々な出来事が震災以降あったそうです。

出来事の風化があろうとなかろうと、人の営みは続いていき、その積み重ねがまた新たな土地の記憶として残っていくのか、そんなことを感じました。

一つ言えるのはまた足を運びたいな、ということです。

本棚はまた揺れていた

2021年3月11日に公開できればと思って書いていたこの文章ですが、書きあげられず下書きに残していました。そうしていたら2月13日には福島県沖で、3月20日に宮城県沖で地震が起こりました。

2011年3月11日と同じく、私は自分の部屋で本棚を抑えていました。

しかしながら、2011年春と2021年春、とった行動は同じであっても異なる心境で揺れが収まるのを待っていました。ただただ、待っていました。


この文章はあったこと・行動を書くのが目的だったので読者の方には読みづらかったかもしれません。しかし自分で見聞きしたものをそのまま文章として残したいと思ったのでその点はご了承ください。それでは。