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平和を享受する僕ら

緊急事態宣言下ということですが、ここ沖縄は平和です。

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ちびちゃんと一緒に歩く若い親子。
塀に座り夕日を眺めるカップル。
部活帰りの中学生。
巣ごもり疲れに息抜きに来た家族。

こうも穏やかな時間が流れていると、平日の忙しなかった日々がウソのようです。
一昨日の記事にも書きましたが、最高の今を積み重ねることが最高の人生を送ることなのであれば、今この瞬間は適切な人生を生きていることになるのだと思います。

僕のお気に入りの場所である「宜野湾マリーナ」でアウトドアチェアに座り、平和な空気を存分に吸っていました。
カバンに入れていたのは石井光太さんの「神の棄てた裸体」でした。
以前投稿にも書いたので、久しぶりに読んで見ようと忍ばせていたのです。

分かってはいましたが、過酷な現実の中、傷つきながらも懸命に生きていく人たちに胸が締め付けられました。
恋人に石で頭を殴打されても愛し続ける13歳の娼婦、
ゲリラ軍に暴行を受けた過去を持つ老婆の女性”性”との対峙。
重々しい現実を改めて突き付けられ、今目の前の平和な景色とのコントラスに眩暈がしてきました。
僕にとっては平和なこの時間がリアルであり、けれど平和を享受できない人たちも確実にいる。
僕らはこのギャップとどう対峙すれば、笑って生きていけるのでしょうか。


僕は前にも同じようなことを考えたことがありました。
それは、カンボジアのトゥルースレン虐殺博物館を訪れた時のことです。
カンボジアがポルポト政権下の時に虐殺があったとされるトゥルースレン収容所。
wikipediaによれば、収容所として稼働していた2年9か月の間に14,000人~20,000人が収容され、生き残りはわずか7人だという。
しかも、虐殺の舞台となったこの収容所は、かつては高校の校舎だったというからやるせない。

僕はその収容所跡を訪れた時、そこで犠牲になった方々の顔写真を見つめ続けました。
今では博物館として運営されているこの場所では、観光客が多く訪れます。
たくさんの犠牲者の顔写真を素通りしていく見学者たちに疑問を持ちながら、意地になって彼らのことを見つめ続けていたのです。
現代を生きる僕たちは、彼らの悲しみや絶望を少しでも感じ取らなければいけないと思ったからです。

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けれど人ひとりが抱えられない絶望を目の当たりにし、僕はすべての犠牲者と目を合わせることを諦め、悔しくも外に出ました。
施設の外では平和な時間が流れていて、子どもを遊ばせているお母さんや、読書をしている若者がいました。

たった今見てきた史実と、目の前のあまりにも平和な光景が、同じ場所であるということに気持ちが追い付かず、やはり眩暈がしたのです。
けれど、あの日の僕は、平和な時間を享受している彼らを罵倒するのではなく、平和な時間が当たり前に流れるようになったことを喜ぼうと思うことにしました。

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一昨年刊行されたFACT FULLNESSというベストセラー本によると、世界は良くなっていることも多くあると言います。
それを素直に喜び、かつての犠牲者の絶望を現代の人が後ろめたさによって同じく背負い込む必要はないのだと思います。
ただ僕らはこの悲劇を、彼らの感情を含めて忘れず、世界をより良くすることに注力していかなくては、と思うのです。

泣いている人がいる 笑っている君がいる
それは決して罪じゃなくて 幸せを分けあたりゃいい
君にはそれができるから


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