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たかだたたみ と申します/最近のアニメ/オタク文化と文脈について

・どーも。皆様。たかだたたみと申します。

・当年取って37歳(夏の終わり生まれ)。趣味はインドア全般。嫌いなものは、スポーツ中継。主に書き物とエンゲキをアマチュアリズムにのっとってやっております。

・37というと、世間的にはおじさんな年齢ですが、どーにもしっくりこない。
そもそも37ってものすごく中途半端な年齢に思ってるし、自分の立ち位置もすごく中途半端。
手堅く真面目に社会に生きるでもなく、川原乞食になっても芸人として生きる覚悟がある訳でもなく。。。(ここで言う芸人とは、字面通りのお笑い芸人ではなく、芸事で日銭を稼ぐ、カッコよく言えばアーチストのことです)
自分の表現活動をやりたいけど、普通の生活も捨てたくなぁ~い!という我儘なスタンスです。ええ。
そういう何とも言えない立ち位置は、若い時分はいくらでも許されるけど、おっさんになればなるほど、社会にも周りの人間関係的にも「許されざる者」と相成っていくわけですね。周りを見渡しても、どんどんそういう、職業:遊び人みたいな人は少なくなっていく。今の自分には一応生業となる職業はあるわけですが、RPGで言うサブジョブというか、なんか職業:戦士だけど、僧侶の魔法も覚えとくって言う感じの掛け持ちを、創作活動に充ててる訳であります。うわ〜、どっちつかずぅ〜。それでもヘラヘラと自分の好きなことをある程度出来てる時点で、ありがた~い(自販機のあたたか~いみたいなイントネーション)身分ではありますね。そんなハンパもんのアラフォー、いわば、半おじさんが、ダラダラと書くてきとうな雑記です。サブカルチャーについて書いたものが多くなると思います。


・アニメの話をします。

・アニメ映画『音楽』、そして、TVアニメ『映像研に手を出すな!』、話題ですね。御多分にもれず、私もダイスキなんです。絵が動く。その喜びを、圧倒的快楽が伴ったアニメーションで表現するアニメ作品が、ほぼ同時期に公開されているのは、とても意義ある事だと思うんすよ。

・そして、この二つのアニメのわずかながらの共通点として、所謂、オタク的な文脈と遠い場所にあるのが、僕にとって、とても心地よい。
逆に言うと、昨今のオタク向きのコンテンツに、僕は飽き飽きしている。(僕だってオタクではあるんだが、、、)


・特に『映像研~』が素晴らしいのは、主人公3人組が全員オタクとして描かれているのに、そこにはオタク的な感性や文脈から切り離され、オタクという者の生態を非常に写実的に描いてる点が良い。
 主人公3人の、浅草氏⇒監督・設定  水崎氏⇒役者・アニメーター 金森氏⇒プロデューサー・制作進行・・・・というアニメ製作においてのプロセスを見事にキャラ化してるのと同時に、オタクという生き物の類型をも見事にキャラ化してるのがすごい。(これは、主に原作の功績だが)

浅草氏⇒コミュ障で凝り性で妄想過多という、三人の中では一番オタク的な性格で、オタク的クリエイティブの権化とも言える。 
水崎氏⇒オタクコンテンツに対して偏見も負い目もない、無垢なアニメーションオタク。非常に無邪気で、あまつさえ、カワイコちゃんとゆう、昨今目立つ様になったタイプのオタク。
金森氏⇒実利を重んじるリアリストで非ヲタだが、その実、言動においてはオタクの中の理想像がバシバシ散見される人物。一番、「居そう」だし、それでいてオタクなカッコ良さを詰め込んだキャラ。
・・てな感じかな〜。うーむ、全員「居そう」だ!見事。

しかし、こういったオタクが前面にフィーチャーされている中にあって、『映像研〜』はオタクの文脈や話法を使って物語を推進させない。あくまで、方法としてアニメ文法が(やや過剰に)引用されているだけで、そこにオタク世界の作法は特にないのだ(表面上はね)。

私は多分、同族嫌悪なんだと思うんだけど、オタクの自意識ってやつが本当に苦手で、オタクの自己アピールも諧謔もネタもめちゃくちゃ苦手なんすよ。だから、登場人物が無意味に萌え萌え美少女なのもヤダし、登場人物がオタク的価値観に必要以上に理解があったり、必要以上にネタ化キャラ化してるのも嫌。全部、オタクの自意識を読み取ってしまう。もっと適正な距離感でやってくれよ・・・!と忸怩たる思いでアニメマンガを消費していたので、ここにきて、やはり『映像研〜』『音楽』はその文法と距離感があってイイのよね〜。心地いいのよね〜。


・オタクってなんなんだろうか?いつも考えて、そして尽きぬ謎、なんですが。いくつもの疑問の中で、私の中で(一人称は安定しません)一つの結論へと至ったのが、キャラクターと文脈の消費を重要視するのが、今のヲタク文化なのかな、って思うんですよ。

オタクがキャラを消費してるってのは言わずもがなですが、文脈ってなに?と思う人もいるかもしれない。一言では説明できないけど、オタクに限らず一つのコミュニティ内で出回っているコードやお約束・・・って感じかな。そして、そのコードやお約束に則って、作品や現象を消費するってのがイマドキのオタクstyleなんじゃないか、と。

作品というのは、作品そのものが独立して一個のものとしてあるわけではない。幾つもの先人の影響やスタイルの継承で成り立っており、それを読み解く為のコードやお約束ごとの集積として「文脈」が形成されていく。ウルトラマンは3分以内に怪獣を倒さなければならないし、仮面ライダーはライダーキックで怪人を倒さなければならない。それは作品のフォーマット、お約束なのではあるが、それが後の作品にも連綿と続いていき、歴史となる事によって、それは一つの「文脈」として形成される。そして、それを仲間と共有し、さらに独自に発展させて楽しむモノなのではないか?と僕は考える。

だから、オタク的振る舞いがもっとディープになっていくと、その中で求められるのは、ストーリー展開やキャラよりも、もっと奥。それらがいくつも絡まったコードの集積としての「文脈」なのではないか。その「文脈」を理解し共有して、その中で遊ぶと言う行為が今のオタク的振る舞いなんだと僕は思うのだが、君たちは、どうだ?


・長くなったので、この辺にしときます。「文脈」の話はいつかもっと詳しく書こうとは思います。

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