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15衝突後、起業診断を受けることになってしまった【公開】。

66(X2年7月)

 大喧嘩後、流石に反省した。

 既成事実化を進めて強引に押し通すなど、やはりあり得ない。板東先生の頃とは時代が違うのだ。
 実際、池谷さんの勉強会で、起業宣言を表明した私も含めた3人全員が、結局失敗に終わった。それも大失敗だ。

 1人は普通に口論で敗退し、数年掛けてじっくり進める事にしたそうだ。もう1人は、私以上に危機的状況に陥ってしまった。現在奥さんが子供を連れて実家に帰ってしまっており、やり直しには、板東塾を辞め真面目に働く、池谷さんと縁を切る、という条件を突きつけられてしまったそう。

数日前、その相談に乗っていたのだが(乗れる立場では無いのだが)、今日メールがあり、{板東塾を辞めることにした}、とあった。

 池谷さんからは、「1年間だけ猶予期間をもらって、そこで結果を出したらどうですか?」と提案されたそうだが、その人によると、「そもそも池谷さんが未だに安月給の教師時代とさして変わらない収入しか得てないのに、よくそんなアドバイス出来るよね」と怒っていたので、恐らく池谷さんとも縁を切るのだろう。(えっ池谷さん、そうなんだ……と私もちょっと驚いた。なお、その人は池谷さんとは旧知の間柄で池谷さんに誘われ塾に入ったそう)

 確かに家族が居る以上、強引に押し通すのは絶対にやめた方が良い。私も、起業準備は一旦取り止めにし、仕切り直すことにした。今度は、定期的に話し合いの場を設ける事を提案し、会社を辞める時期も今年中というのは諦め、来年にすると伝えた。起業準備の状況もきっちり報告し、相談無しには進めないとも約束。麻子も起業そのものに反対では無いと強調していたので、恐らく私の進め方を改めて欲しいと言いたかったのだと思う。

 客観的に見れば、その通りだ。あの進め方はマズかった。

 大喧嘩以後、掃き溜めでの仕事にも多少は身が入るようになった。まだしばらく働くというのもあるが、目が醒めたというのもあるかもしれない。今後、コンサルに進出する以上、残りの時間で経験を積めるだけ積んだ方が良い。

 私にやる気が戻ると、小堀の丸投げ度がさらに高まり、もう殆ど私が院長みたいな立場で仕事をする形になった。診療報酬のまとめ、小口現金の管理、決算に必要な資料の整理、各業者とのやり取りに至るまで。

 こうなると、小堀は全くもって必要無い。その雰囲気を察したのか、小堀が頻繁に休むようになった。先週など、出勤は3日だけ。でも、誰も咎め立てしないし、むしろ休んでくれる方がありがたいとスタッフ全員が口にしている状況。よく、こんな状況なのに平気でいられるなと逆に感心する。メンタルが強いのか、鈍いのか、何なのかよく分からないが、私だった耐えられないだろう。


67

 麻子と仲直りしてから2週間後、高山先輩から食事に誘われた。伊勢佐木町商店街にある先輩お薦めのラーメン屋に寄りサンマーメンを食べると、近くのカフェに寄った。話題は最初から先日の大喧嘩についてと、私の起業に関してだった。

「雄輔、もう麻子ちゃんとは大丈夫なのか?」
「はい。何度も謝りました。ホント強引に進めようとしたのが間違いでした」
「麻子ちゃんも随分怒ってたぞ」
「いや~、塾の人達に相談して、その通りにやっちゃったんですよね。それが大失敗で……」
「ふ~ん。失敗って感覚か?」
「はい?」
「いや、何でも無い。で、今後はどうするんだ?」
「はい。今後はちゃんと話し合いの場を持ちながら進めて行く予定です。もう、すっかり麻子も前向きになってくれたので、家族の為にも早く起業して成功したいですね」
 高山先輩が「なるほどな……」と言いながら、鋭い目をしている。
 私は恐る恐る「先輩にも、相談に乗ってもらいたいんですけど……」とお願いしてみた。先輩は「おー、おー、構わんよ」と明るく答えてくれた。
「ありがとうございます。え~と、麻子からも、『高山先輩に相談した方がいいよ』って言われたんで、是非お願いしたかったんですよ」

 早速、高山先輩から質問が飛ぶ。
「雄輔、どんなビジネスやるつもりなの?」
「はいコンサル系で行くつもりです」
「接骨院はやらないの?」
「はい。接骨院は儲からないんですよ。だから、やる予定はないですね」
「儲からないはずの院のコンサルをやって、どうやって儲かるようにするの?」
「ええと、まあ儲からないって言っても、自分の目標の数字に比べてって話です。え~、けど場合によっては整体院だったらやるかもしれないです。一応、戸田の成功例とかもあるので、ノウハウ抽出先はあるんですよ」

 高山先輩が「うん?」と言って首を傾げた。こういう時の先輩はちょっと怖い。鋭い追究をされると嫌なので、すぐに「でも、そこが自分分からないから、先輩に相談したかったんですよ」と先手を打った。

「なるほど。そういうことか」
 少しホッとした。ここで返答を間違えると、延々追究され兼ねない。しかし、具体的なビジネスの話となると、結構勉強しているのだが上手く答えられない。これは麻子と喧嘩した時もそうだった。

 板東塾の先輩達は、「動きながら覚えるモノだから、とりあえず一歩踏み出した方が良い」と口を揃えてアドバイスするし、板東先生も「そんなもんです」と言ってたけれど、改めて考えてみると、ちょっと不安にもなる。

 その後は、板東塾とどう付き合っていくか、大井町接骨院はどういうタイミングで辞めるのか、起業に向けてどんな準備をするのか、高山先輩の質問に答える形で色々答えたが、その反応や表情から察するに、どうやら賛同はしてない様子。

 一通り質問に答えると、高山先輩から「起業診断を受けてみないか?」と提案された。渋る私に「お前は調子に乗ると現実が見えなくなる。本当に自分が起業家向きかどうか診断してもらわないか」と推してくる。どう考えても前向きな提案のようには思えない。

 私は何とか断ろうと思い即座に拒否した。

「いや、それは必要無いと思いますけどね」
「なんで?」
「いや、あの~、そうっすね、え~と、っていうか必要あります?」
「でも、麻子ちゃん安心させたいんだろ。だったら、診断してもらったらどうだ?」
「いや~、必要無いっすよね」
「何だ自信がないのか? 起業診断したらヤバイ結果が出そうだから怖いのか?」
「いえ、そんな事は無いですよ。自信はありますよ」
 高山先輩が前傾になる。
「自信あるんだろ。だったら、診断受けてOKもらった方が、より安心して応援出来るだろ」
「まあ、でもそういう診断って当てになります?」
「ああ、俺が紹介する予定の人はな財前先生っていう会計士さんでな、長年一緒に仕事しているけど当てになるぞ。それに、診断って言っても点数つけるわけじゃない。明らかに向いてない奴とか、本気度が足りない奴とか、準備不足の奴にだけ、警告するだけだから」
「あ~」
「警告受けたからって、別に止める必要無いしな」
「ん~。でも、もう決めてるんで」
「何だ反対されるのが嫌なのか? 反対されるとモチベーションが下がるのか? それとも、ちょっと反対されるだけで、気持ちが折れる程度の本気度なのか?」
「いやいや、そうじゃないですけど。もう揺らぐことは無いですけど……」
「だったら、受けてもいいだろ。揺らがないくらいに自信があるならば、別に良いだろ。で、財前先生にもOKサインもらって、麻子ちゃん安心させてやればいいんじゃないか」

 嫌な流れになった。どうやら先輩は端から私に起業診断を受けさせるつもりだったみたいだ。

「麻子ちゃんにも聞いたけどな、あんな、暴言吐いて強引に押し通そうとした奴を、謝ったくらいで信用出来るか?」
「あ~~、なる、ほど。そうか。そうですね。まあ、あれは塾の人に唆されただけで、俺の意志ではないですけど」
「だとしても麻子ちゃんはそうは取ってないだろ。 よし、じゃあ受けるな」
「あ~~、ん~~」
「ホラ受けてみろ。なっ」

 こうなったら仕方ない。

「は・い。ん~、分かりました」
「OKだな?」
「分かりました。いいですよ。今度は本気なんで」

 すると高山先輩がヒヒヒと奇妙な声を上げる。
「雄輔。財前先生の起業診断、超ハードでお願いしますって伝えておくな」
 嫌な予感しかしない。
「あっそうだ今連絡しよう」
「えっ、今っすか? 今っすか?」

 私の問いを無視して電話を掛け始めた。
「もしもし、財前先生ですか? あ~どうもどうも先日はありがとうございました――」
 先輩が、起業診断の依頼に続き、私の基本情報、先日の大喧嘩の件についても説明する。

 そして嫌な予感が的中する。
「あっ、雄輔、先生がね、奥さんも一緒に来て下さいだって」
「えっ!」
「何でだよ。その方が良いだろ。目の前でOKしてもらった方が、より安心するだろ」
「あ~」
 と狼狽えている内に、先輩が「奥さんも一緒に伺います」と約束してしまった。

 結局、上手く丸め込まれる形で、麻子と2人で財前先生の起業診断を受けることになってしまった。


68。麻子と雄輔と財前(X2年8月)

 起業診断当日。

 起業診断は15時開始を予定している。自宅の梅ヶ丘から、ランドーマークタワー内にある財前先生の事務所までは、徒歩、電車、最寄り駅のみなとみらい駅で降りてから移動する時間、さらに若干の余裕も含めて計算すると、大体14時迄には出る必要がある。

 13時過ぎに麻子の母親がやってきた。雄大を預けると、麻子が出掛ける準備を始めた。昨日中に今日着る服は選んでおいたのだが、いざ着てみると、全身が黒っぽくて「まるで礼服みたい」な印象だった為、明るい色の服装に選び直している。
 選び直すと今度は私立の幼稚園や小学校の面接にでも行くかのような格好になってしまったが、スカートをパンツに履き替えたところ、保護者感が消えたので、それで良しとした。

 一方、雄輔は、既に夏用のワイシャツにスーツのズボン姿に着替えを済ませていた。麻子がジャケットを羽織るか、ネクタイをした方が良いんじゃない、と勧めたが、「8月だし、こっちはお客なんだからいいよ」と断った。

 恐らく強がっているのだとは思うが、一方で【想定問答集】と書かれたノートを先ほどから何度も見直しては緊張の面持ちでウロついている。起業診断を受ける事が決まってから今日まで約2週間、B5サイズ50枚のノートが2/3くらい書き込まれているくらいだから、相当気合いを入れて準備をしたのだろう。出発時間になる直前まで、自身の部屋~廊下~リビングと行き来しながら、時々何かしら呟いていた。

 14時になり、麻子と雄輔は家を出た。

 雄輔はずっと緊張していた。
 みなとみらい駅へ向かう電車内で、麻子が何を話しかけても硬い表情のまま視線を向けもせずに「うん」「そう」と返すだけ。駅に到着しても「ねえ、降りるよ」と麻子が2度声を掛けるまで、目的駅に到着した事すら気付かない程だった。
 駅のホームから改札へと移動する間もずっと緊張していた。眉間にしわを寄せ俯き加減で歩くものだから、すれ違う人にぶつかり不愉快な視線と舌打ちを浴びせられるし、普段だったらキチッと右側を空けて乗るエスカレーターも、ど真ん中に突っ立ったままで、右側を急ぎ昇る、髪の毛をガチガチに固めたサラリーマンから、クラクション代わりの咳払いを喰らうし……。
 麻子が、「ホラ、端に寄りなよ」と袖を引っ張るがスグには気付かない。「ねえ」と言って強めに袖を引っ張ると驚いたような顔をして「何?」と聞き返して、やっと端へ寄った。その間3度も咳払いを喰らっている。いつもだったら喧嘩腰になってもおかしくないくらいに不愉快な咳払いだったが、今日はそんな事も気にならないみたいだ。

 駅を出てからも緊張していた。
 騒がしいクイーンズタワーの群衆の中でもハッキリ聞こえるくらいゴクリと音を立てては生唾を何度も飲み込んでいたし、ランドマークタワーのエレベーターの目的階のボタンを押す指も微妙に震えているし、目的階に到着してエントランスホールに降りるときも、段差も何も無い地面に躓きふらついていた。
 ランドマークタワー特有の回廊上の通路を移動する時も、柔道部と仕事で鍛えた屈強なはずの下半身が安定してない。足がフロア面に設置する度にどこかふわふわとしている。千鳥足とまでは言わないが、足の運びが真っ直ぐではない。まるでウォーターベッドか何かの上を歩いているよう。

 そんな滑稽な後ろ姿に刺激され、麻子が笑みを浮かべている。

 回廊状の通路をしばらく歩くと、今日の目的地である財前会計事務所の入口に到着した。
 磨りガラスの外扉を開けて入室する。エントランスは広さにして3畳~4畳程だろうか。右側に【オフィス】のプレートが貼られた扉があり、左側に【会議室・面談室】のプレートが貼られた扉がある。エントランス正面には、腰から臍くらいの高さの台の上に内線電話が置かれている。

 雄輔は内線電話の前に突っ立ったままで、ゴクリと音を立てている。躊躇する雄輔に代わり麻子が内線電話の受話器を取る。
「呼ぶね」
「う、うん」
 雄輔は相変わらず緊張している。表情は硬く、寝不足のせいもあってか目が血走っている。

 麻子が内線電話を操作する。{ご用がある方は内線番号1番を押して下さい}という案内通りに内線番号番号1を押した。
 プルルルル。プルルルル。カチャッ。
「ハイ。財前会計事務所の吉川です。何かご用でしょうか」
「こんにちは。あの、本日14時から面談で伺わせて頂きました。川尻と申します」
「川尻さんですね」
「高山さんの紹介で……」
「ハイ。伺っております。少々お待ちください」

 間もなく、右側の【オフィス】のプレートが貼られた扉から、背の高い女性が出てきた。

「こんにちは吉川と申します」
 白のワイシャツにネイビーのジャケット。ネイビーのパンツに光沢のある黒のパンプス姿で、背筋がスっと伸び、シャツの弛みもなく、ソシアルダンサーのステップのように足の運びが滑らかで、且つ、パンプスが床に接地する時の音からさえ上品さが伝わってくる。

「川尻さん。どうぞ」
 2人は吉川の美しい歩み姿の後ろからついていく。

 【会議室・面談室】というプレートが貼られた扉の向こうへ移動すると、4つの扉が現れた。吉川は、その一つ、【面談室①】というプレートが貼られた扉を開き、中へ2人を案内する。面談室の扉を開ける際の仕草から奥の席へと案内する際のピシと伸びた細く長い指先がとても美しい。

「どうぞ、奥の席でお待ちください」
 吉川の案内通りに2人は席へと移動する。
「只今お茶をお持ちします」と言い一礼をすると、美しい背面の印象を残し面談室から出て行った。

 彼女の礼も美しい。
 上半身を折りたたむ途中、各関節、各筋肉、頭の先から足先まで一切粗雑さが無く、意識の奥の習慣によって所作が見事に統御されている。
 麻子は感心したように彼女の後ろ姿に見惚れていた。
「ねえねえ、あの人、凄いキレイだね」
「うん? あ~、見てなかった」
 雄輔は相変わらず緊張している。


69。麻子と雄輔と財前

 面談室は実に豪華だ。いかにもお高そうな木製の机に、黒の革張りの椅子。2人が着座した際の座面のクッションの沈み込みからして間違いなく椅子も高価なものだろう。

 雄輔と麻子が座る真正面には、壁面を覆うように本棚が配置されている。上部はオープン棚、下部はガラス扉付きの棚になっており、上部と下部との間に、金色の取っ手が特徴的な引き出しが付いている。

 本棚には会計の専門書だけでなく法律、歴史、美術、建築など、様々な種類の本がキレイに並べられ、ある種の威圧感を演出している。黒文字、白文字、金文字、他色文字の背表紙に刻まれた本の厳かな題名さえも、威圧感を演出するのに貢献しており、背表紙から背表紙へと視線を移すに連れて背筋が自然と伸びてくる。

 麻子は威圧感から逃げるように周囲に視線を向けた。

 雄輔と麻子が座る背面には絵画が2点、夕焼け色に染まる雲海の富士山の写真が1点、黒の額縁に納められている。窓側の角には観葉植物、入り口側の角には衣紋掛けが配置。入り口側の壁に配置されているチェストの上には日本各地の民芸品が置かれており、垂れ目の可愛い顔をしたフクロウの彫物が麻子を見ている。

 麻子はその民芸品の並びの中に、1本だけ置かれている古びた時計を気にしていた。3本用の黒のコレクションケースの上に1本だけ、他の民芸品からはぐれたように、それも場所だけではなく時空からはぐれたように佇んでいるのだ。その、はぐれ時計の針は動いておらず、ベルト部分には熊らしきキャラクターの姿が伺えるシールの痕がある。

 麻子は、そのはぐれ時計をじっと見つめていた。

 ノックの音に続き「失礼します」という声が聞こえると、吉川が角盆にお茶とお手拭きを載せて入室してきた。慣れた手付きでお茶出しをすると「少々待ち下さい」と言い、再び美しい背面の印象を残し退出していった。

 麻子はバッグから鏡を取り出すと、手櫛でもって絡まり捩れた髪の毛を梳いて直す。

 雄輔はしばらくお茶を啜りながら椅子に座っていたが、足をバタバタ動かしたり、体を前後に動かしたりして落ち着かない様子。やがて、長めの呼気で胸に淀む空気を吐き出すと、急に椅子から立ち上がり黒革の鞄を漁り始めた。鞄の中から想定問答集と題されたノートを取り出し、バサバサっという雑にページを捲る音を立てると、胸を反らすようにして深呼吸を挟み唇を動かし始めた。

 ここまで緊張している雄輔は本当に珍しい。麻子の実家に婚約の挨拶に行った時も、結婚式の当日も、堂々としていた雄輔がここまで緊張しているのだから、余程の事なのだろう。

 途中、雄輔が「ちょっとトイレに行ってくる」と言って面談室を出て行った。机の上に想定問答集と書かれたノートが無造作に投げ出されている。麻子はそのノートを手に取り、ページをパラパラと捲りながら雄輔の手書きの字を目で追う。

 ボールペン文字に加え、至る所に蛍光ペンが走っている。赤、青、黄色の3色の蛍光ペンが使われているのだが、色別にルールがあるようには感じられない。ノートの左側のページの大体真ん中に縦線が引かれており、左側には想定される質問が書いてあり、右側には回答が書かれている。ノートの右側のページはメモ帳のように使われているのだが、「ハキハキとしゃべれ!」「堂々としなきゃダメだぞ!」「俺は結果を出してきたんだ、自信を持て!」「麻子の前では2番目の回答の方がGOOD!」「レベルが低い人には理解できない内容」といった言葉が走り書きされている。

 雄輔は麻子の目の前でズタボロにされる事を怖れているのだ。時々、ノートに現れる偉ぶった文言から察するに、あの内容的には完敗と言っても良い口論の後でも、まだ変なプライドを捨てることが出来ていない。でも、この必死な文面から分かる事。それは芯から傲慢・自信過剰なのではなく自己暗示。

 負けず嫌いは自己暗示的な評価が崩れる事への恐怖から来ているのかもしれない。それまで自分を支えていた虚像、前進させてきた虚像が崩れるのを極度に怖れているような文章にさえ感じられる。

「そっか、本当は自信が無いんだ……」と麻子が呟く。

 あの独断も単なる独り善がりというだけではなく、こうありたいという自己イメージを守るが為の防御反応なのかもしれない。麻子は、やたら右跳ねの強い力の籠った濃い筆跡と、自己説得的な文面を見ながら、もう一言呟いた。

「だから途中から子供の喧嘩みたいな態度を取り出したのか……」

 エントランスと面談室をつなぐ扉の開く音が聞こえると麻子はノートを元の位置、元の姿に戻した。

 トイレから戻って来た雄輔だが、頬の当たりに水滴。ワイシャツの襟先が少し濡れている。昨日から緊張して眠れなかったのだろう。目の周りが落ち窪みねずみ色の隈が目立つ。ドサっと音を立て椅子に座るとノートを手に取り、再び唇を動かし始めた。

 麻子は、本棚を見つめたまま、じっとしている。


70 麻子と雄輔と財前(X2年8月)

 入り口の向こうから、「所長、面談室①でお待ちです」という女性の声が聞こえてきた。

 間もなく、ゆったりとしたリズムで扉をノックする音に続き男性が入室してくる。背が高くスリムで、先ほどお茶を運んできた吉川同様、体軸が天まで貫くような美しい姿勢に、髪型は短くもなく長くもなく、ウェリントンタイプの細めの黒いフレームの眼鏡を掛けており、その眼鏡の奥の目は、人生の酸いも甘いも知り尽くしているであろうヴィンテージ加工を施した宝石のような渋い輝きを放っている。

 一つ一つの動作に粗雑さやブレがなく、まるで能楽師のような身体操法で、歩くという行為にさえ、男性の性質が反映されおり、各部の動作が一つの原理でもって統御されている。男性が一歩足を踏み入れた瞬間、面談室内の空気が変わった。

 その変化を察知したであろう雄輔と麻子が同時に背筋を伸ばす。

 男性は一礼すると、椅子を引き、静かに座る。座る際も、座面に臀部が接地する瞬間まで惰性が無い。1ミリ1ミリの動作全てに神経が行き届き、筋肉が最後の瞬間まで能動的に動いているかのようだ。それも、神経、筋肉の主人である男性の意志は既に無意識の領域にあり、胃が本人が意識しなくても食事を消化するように、極めて自然に動いている。

 恐らく、鍛錬と習慣の賜だろう。

 男性は椅子に座ると、無言で書類を整え、胸ポケットからボールペンを取り出し持ってきたノートを拡げた。

 正面に座った瞬間から、男性の強いオーラが雄輔と麻子に浸透し始めた。ただし、押し出すようなオーラでは無い。粗い粒子がぶつかるのとは違い、透明透徹な粒子が体表を透過し、一部が体表を這うように包み込んでゆく。やがて薄い膜が3人を覆うようにして、独特な空間が現れる。

 世間からは隔絶された、男性の威と法(のり)による異世界のような空間だ。

 男性は準備を終えると、2人に向けて自己紹介を始めた。
「初めまして、財前と申します。高山さんから色々伺っております」
 表情はそのまま、口元だけが動いている。 
 続いて、麻子に促され雄輔が挨拶をする。そして麻子が続く。
「奥様の麻子さんですね。今日は宜しくお願いします」と顔を向け、一瞬だが笑み浮かべた。

 一方、雄輔には鋭い視線を向けた。
「川尻さん。今日は川尻さんの起業に対する認識・覚悟について伺うと共に、厳しく診断させて頂きます」
 雄輔の喉仏が上下に動く。ゴクリという音が聞こえてきた。
「高山さんより『厳しくやってあげて下さい』とお願いされましたので、今日はいつもよりも厳しめに診断したいと思います」
「ハイ」
「ところで診断に際して、起業家としての適性以外に考慮して欲しい点などはございますか」

 雄輔が再度喉仏を上下に動かし、質問に答えた。
「ハイ。家族に迷惑を掛けずに、え~と、安心してもらえるかどうかを、ハイ、お願いします」
「分かりました。川尻さんが、ご家族に迷惑を掛けずに取り組めそうな人かどうかを診断すれば宜しいですね?」
 雄輔は「ハイ、お願いします」と、力の籠もった口調で返した。

 主旨は簡単だ。
 財前の質問に対して雄輔が回答する。その回答を聞き、財前の個人的な判断ではあるが、今の段階で起業しても大丈夫そうかどうかを診断する。ただ、それだけだ。

 財前によると、起業家としての適性、本気度、覚悟を確かめる意味があるのだと言う。何でも、最近は軽薄な起業ブームの影響もあり、適性も無い、本気でも無い、覚悟も無いような人間が、世間や周囲の無責任な煽りに乗って、勢いで会社を辞めて起業し痛い目に遭い、再起不能な状態にまで陥ってしまうようなケースが増えているそうだ。

 これが、独り身の若者であれば自己責任、自業自得で済む話だが。家族が居て、子供が居て、そろそろ介護が必要な親が居てといった、いい歳した大人までもが、無謀な決断から取り返しのつかない失敗をし、手遅れになってから「助けて下さい」と泣きついてくる。

 昨今の、そういう軽薄な起業ブームに対する抗議の意味も込めて、このような審査を始めたのだという。審査を始めて分かったが、驚くほど起業家向きでは無い人が多く、雄輔に関しても、高山から得た情報から判断するに、恐らく経営者向きでは無いと財前は考えている。
 さらには、高山から「あいつの性根を叩き直してやって下さい」という要望にも「分かりました」と答えている。

「それでは診断を始めます」という財前の低い声で、起業診断がスタートした。

 雄輔の「ハイ」という擦れた声と共に、何かに怯えた時のように肩が上がり、太腿の上で両手の拳がギュっと握られた。

「川尻さん。独立起業に対する『覚悟』を聞かせて下さい」 
 雄輔は口を開けるが、ひと言目、声が擦れて出てこない。「んん」と咳払いをし、発声練習でもするように「あ、あ」と発してから「ハイ」と気合いを入れ、緊張で絞まった喉を拡げる。

 引きつった口元で「え~と、目標ですね?」と聞き返すが、すかさず「いえ違います。覚悟です」という財前の否定に雄輔は動揺する。「あっ、覚悟ですか」と返してから、口を開けたまま「あ~、え~」を繰り返している。

 雄輔の口から次の言葉が出てこない。
「あ~、え~と、覚悟ですか?」
「ええ、そうです」
 どうやら「覚悟」というキーワードでの回答を用意してなかったようだ。

 動揺が焦りと共に全身へと拡がりはじめる。頬から首の辺りが赤くなり、頭を掻いたり、鼻を触ったり、次第に額から汗の玉が滲みだしてくる。その間、財前は鋭い視線で雄輔を射貫いたまま、じっとしている。

 雄輔は、「え~と。え~と」を何度も繰り返しながら、何とか回答を絞り出した。が、もはや、何が言いたいのか分からない、当人の意志も決意も、何のまとまりもない回答だった。
 財前の右手、紙面数センチの所に位置するボールペンの先がピクリとも動かない。途中で雄輔が説明に詰まると、唇だけが動いて「どうぞ続けて下さい」とだけ言う。

 何とか説明し終えた時には、額から染み出た汗の玉が零れ落ち、ワイシャツの脇からは汗染みが浮かび上がっていた。その間、財前のボールペンの先端が紙面に触れることは一度も無かった。


71 麻子と雄輔と財前

「川尻さん。私が聞きたいのは『覚悟』です。川尻さんの妄想を聞きたいわけではありません。もう一度お願いします。覚悟です。覚悟について聞かせて下さい」
 雄輔は、「覚悟ですか、ハイ、覚悟ですね」と応じるが、目をキョロキョロさせ、頭を掻き、足をバタバタさせている。

「あの~、起業するからには、絶対成功する覚悟があります」
「成功する覚悟?」
 財前のボールペンは動かない。
「あっ、いや、失敗する訳にはいかないので、背水の陣を敷いて挑戦するつもりです……。あ、する覚悟があります」
 雄輔は、決断と行動の重要性を強調し、自分をその状態に追い込む為にも背水の陣に意義があると説明を加える。

 財前のボールペンは動かない。

「その~、あっそうそう。成功者は成功するまで諦めなかったからこそ、成功者になれたわけなので、僕も成功するまでは諦めないつもりです」
 失敗という概念を拒否する事、全てはテストであり、チャレンジであると説明を付け加える。

 財前のボールペンは動かない。

「とにかく寝る間を惜しんででも頑張ると言いますか、とにかく諦めない心が大事だと……だから、成功するまでは脇目も振らずに突き進む覚悟はあります。はい、あります」
 成功者が成功者に成れたのは、成功するまで続けたからだ、という説明を加える。

 財前のボールペンは動かない。

 沈黙の間を作りたくないのか「あ~、え~」で隙間を埋める。「あとは……、そうですね……、え~と……、覚悟を決める為に会社を辞めるつもりです」
 と言った後で、一瞬まずそうな顔を浮かべ、「覚悟を決めたから、会社を辞める……、かもしれません」と言い直した。麻子には事実上のクビだから、と伝えたことを思い出したのか、急に「実際は事実上のクビ宣告を受けたんですけどね」と足して、ハハハと引きつった顔で笑って見せた。

 どうやら大喧嘩後に、麻子に相談無しで勝手に会社辞めない、と約束したことは忘れてしまったようだ。勝手に会社を辞めないと約束した時点で、クビ宣告とは矛盾するのだが……。

 麻子が小さく首を傾げる。
 財前の視線が紙面から雄輔にゆっくりと移る。

「それだけ?」
「あっ、え~、いや、あの~、一応、3年で年収2000万くらいは達成するつもりです」
「2000万?」
「はい、何だかんだお金は大事なので、人よりも多く稼げるようになりたいというのは、あっいや、モチベーションと言いますか、何ごとも目標があった方が、物事上手く捗りますのでね……」

 というと、雄輔は動揺する姿を誤魔化すように、再び引きつった顔でハハハと声を上げて笑って見せた。

 財前のボールペンは動かない。それどころか首を捻る。

「あっ、そうだ。あとは折角独立するので自分のやりたい事といいますか、収入よりもやりがいを重視したいと思っています」
「あの、覚悟は?」
「えっ? あ~ハイ。寝る間を惜しんででも努力しようと……、あっ、あとは、家族を幸せにするためにも頑張る覚悟があります。え~、はい、あります」
 雄輔は口を半開きにしたまま財前の反応を伺っている。表情に怯えが見える。
「頑張る覚悟?」と言って財前は大きく首を捻る。
 その後も、財前の短い質問に対して脈絡の無い、ぶつ切れな、矛盾だらけの言葉群が飛び出してくる。

 その間、財前のボールペンは一度も動かない。

 今、雄輔は目の前の人から高評価を得るという目的の為に、相手が気にいるであろう答えを言い当てようとしているのである。だから、出てくる言葉が行き当たりばったりのものであり、よく吟味されてない。たった数分で、幾つもの矛盾が露呈しているのだが、本人は自らの言葉に矛盾がある事すら気付いていない。本でも講演でも何でもそうなのだが、その時々に感動した、または自分を納得させた(誤魔化した)であろう言葉や標語の数々が、ただ自分にとって効果があったというだけで、頭の中の同じ小部屋に乱雑に積み上げられているのである。

 図書館みたいにジャンル訳され整理され検索できるようになっているわけでもなく、セレクトショップのように目的軸に沿ってTPO別に陳列されているわけでもない。当然、一つ一つ自分なりの解釈なども加えられているわけでなく、受験勉強の時に使う暗記カードに書いた答えのように、その場に情報が固定してしまい、それこそ一問一答型のクイズ問題にしか使えないような単なる暗記物になってしまう。加えて暗記でさえも物になってない。もちろん、応用も利かない。

 一見(一聴)すると良い事を言うのだが、深く突っ込まれるとボロが出る。長く聞けばその内容が矛盾に満ちている。また、その時々で、根拠も前提もなく言うことがコロコロ変わる。要するに、全ての言葉や標語が自分の物になっていない。それを統合する軸が無い。だからこそ、影響を受ける人によって中身までが変わってしまうように見える。

 今回もそうだった。

 麻子や高山は「調子に乗りやすい」、「影響を受けやすい」という表現までに敢えて留めているが、2人とも雄輔の本質に気付いているからこそ、彼が起業すると言い出した時反対したのだろう。

 どうやら、財前も既に、そんな雄輔の問題に気付いたようだ。

<続く>

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全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

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