見出し画像

04仕事なんて最低限で構わない【公開】

21「麻子と智美」(X2年1月)

 麻子と智美は梅ヶ丘駅から数分の場所にあるカフェレストランに来ていた。

 麻子と智美は小学1年生のクラスの席替えで席が前後になり仲良くなってから中学卒業まで、行きの通学路、休み時間、帰りの通学路、帰宅後のお出掛けまで、いつも一緒に居た仲だ。
 高校生になると、麻子が公立高校、智美が私立の有名女子校に進学した為、別々になってしまったのだが、自宅が近くだった事もあり、時間を作っては毎週のように遊んでいたくらい2人は仲が良い。今もほぼ毎週のように2人で会っているのだから、もう25年もの付き合いになる。

 智美は2年前に会社の先輩の市田誠一と結婚。現在は目白にある市田誠一の実家で夫婦と義母の3人で暮らしている。仕事も出来る上に、上司からの覚えも目出度く、さらに部下からも慕われる智美だが、夫である誠一と義母の願いもあり寿退社した。
 現在はフリーランスとして事業を営んでおり、中小企業や立ち上げ間もない会社の営業支援体制の構築や営業マン向けの研修講師をしている。

 麻子が妊娠し、当時勤めていた会社を退職する迄は、仕事帰りに待ち合わせをし、都内のレストランで毎週のように会っていたが、今は麻子の自宅のある梅ヶ丘まで智美が訪ねてくる。
 駅から数分の場所にあるカフェレストランでおしゃべりをし、時間が来たら、そこから数分の幼稚園に息子の雄大を迎えに行き、そのまま自宅で夕方までおしゃべりの続きをしてから帰宅する、というのがここ最近の流れになっている。

 注文を終えると、早速雄輔(夫、川尻雄輔)の話題になった。

「智美、雄輔がね、また会社と揉めたみたいなのよね」
「えっ!また!」
 智美が大袈裟に反応する。

「雄輔は事実上の首だって言ってるの――」
 麻子は雄輔が掃き溜めと呼ばれる部署に異動させられた事、アホ専務一味と揉めてその報復人事で飛ばされたと主張している事、転職先を探し始めたことなどを話す。

 智美は時々目ん玉を見開いたり、頻りに頷きながら聞いてる。

「そんな部署ってあるのかな。年柄年中揉めてるし、年柄年中『俺クビかも』って言ってるから、またいつものかなって思うんだけどね」
「でも、今回は異動させられたんでしょ? そういうやり方する会社あるよ」
「でもね、一昨年にも同じ事があったの」

 智美が右手の人差し指を天に向け前後に振る。

「ハイハイハイハイ。中小企業診断士のだよね」
「そうそう。その時もね――」

 一昨年にも雄輔は会社と揉めて辞めるだの何だのと騒いでいた事があった。(それどころか昨年も揉めている)その時は、中小起業診断士の資格を取得した上で独立すると宣言し、実際に20万円くらいする通信講座を受講。(雄輔の60万円という記憶は誤り)

 俺は売り上げを上げるの得意だからコンサルが向いている、などと主張していたのだが、揉め事が解決したら何事も無かったように元に戻ったのだ。麻子は、どうせ前回と同じような結末になるのではと考えている。

 だが智美は少し違う考えのようだ。

「でも、今回は異動させられた上に、年末のヘルプを拒否したって言ってたよね」
「うん。そこなのよね。拗ねてるだけだとは思うんだけど、今回は起業に関する本を随分と買い込んでいるのよね。それも結構読み込んでいるのよね」

 一昨年に会社と揉めた時も起業に関する本を買ってはいる。だが、購入したのは1冊だけで特に読み込んだ形跡も無く、気付くと本棚から消えていた。

「雄輔さん今度は本気なんじゃない?」
「ん~、また誰かに影響されただけで、すぐ冷めると思うんだけどね」

 雄輔は人の影響を受けやすい。当人は、さも自分が考えついたかのように、あれこれ得意気になって話すのだが実際はそうではない。後日、雄輔の部屋を掃除すると、ネタ元となる本が大抵見つかる。そして、ネタ元となる本を一読すると、得意気に話していた内容そのままの事が書かれていたりする。

「今回も注意はしたのよ。まあ、いつも通りイライラしてさ『いちいち口出しするな』って言われて終わったんだけどさ……」
「雄輔さんってそういうオラオラな所あるよね」
「ある。それも自覚が無いのよね。でもね。何だかんだ言いながらもちゃんと改めてくれるの。人から指図されるのが嫌なだけなのよ」
「そうなんだ。だったら大丈夫じゃない」

 麻子がカップに口をつける。釣られて智美も水滴だらけのグラスを手にする。

「でも、あれだね、本人も多少はストレス溜まってるだろうから、あんまり言い過ぎない方がいいよ。雄輔さんすぐ敵作るからさ、麻子くらい味方してあげないと可愛そうだよ」
「うん。私もつい言い過ぎちゃうのよね。雄輔の性格は分かっているんだけど、ついついね」

 智美が水滴だらけのグラスをペーパーナプキンで拭きながらアドバイスを続ける。

「雄輔さん、仕事に対するプライドは絶対高いはずだから注意するにも気をつけた方いいよ。あんまり言い過ぎちゃうと、麻子の言うことに耳傾けてくれなくなっちゃうからね」
「そうね。そもそも独立開業がキャリアプランの延長にある仕事だから、別に反対ではないのよね。ただ内はお父さんが失敗して家族が大変な目にあったでしょ。だから、ちゃんと相談して欲しい。あいつ危なっかしい所があるからね」

 智美が腕を組み頷く。

 しばらく2人で、麻子家が大変だった時期の事を思い出していた。

 麻子の父は印刷会社を辞めて独立後、しばらくは羽振りが良く、独立2年目には中古のビルを購入し、一部を自宅に改築して、随分と広い家に住んでいた。しかし、バブル崩壊して数年後、自宅兼仕事場だったビルを手放す羽目になり、築年数がもはや不明なアパートへと引越を余儀なくされた。

 生活費に限って言えば、7歳上の兄の収入も足してどうにかなっていたが、母に対する父親の当たりがキツくなったり、加えて年柄年中父親がイライラしている為、家庭の居心地が最悪だったのだ。

 父親がイライラし始めてからは、休日は「お客さんが来るから夕方5時までは外で遊んでいて」という理由で大抵家から追い出されていた。兄は掛け持ちの仕事に出掛けている為、麻子はいつも智美と一緒に遊んでいた。
 時々、夕方5時に帰っても、母から「ごめんね。もう少し智美ちゃんと遊んでてもらえる」と言われる事もあった。そういう時の自宅は、複数の男性の気配が感じられるのだが、妙に無音で怖かったのを、麻子は覚えている。

「でも雄輔さんは仕事が出来るからね。私が新橋のマッサージ店に通ってた時も、雄輔さんだけ別格で上手だったもんね。あれだけ優秀だったら、それはね、会社に不満を持つのも仕方ないよね。それに引き換え内の旦那はさ~」

 というと、智美の旦那やらかし漫談が始まった。

「内の旦那はさ~、盆暗な癖にさ自己評価は高いしさ。それも人の言うこと絶対聞かない。っていうか聞く能力がないのよ。目も曇ってるし、感覚も鈍いし。こういう人ってさ役職とかで全部判断するのよね。判断能力無いから。 ああいう盆暗な奴って他人が優秀かどうか判断できないのよ。内の旦那よりも10倍くらい出来る後輩なのにさ、『Y君ももう少し上の人のアドバイスを素直に聞けるといいのにね』って説教したんだって。まったく、お前が偉そうに言うなよ」

 麻子が笑う。


 智美の旦那、市田誠一のプロフィールを簡単に紹介しておこう。

  • 年齢は智美より5歳上で会社では先輩に当たる。

  • 智美は退職前に主任に出世したが、誠一は未だに平社員のまま。

  • 一見すると、堂々としており仕事が出来そうなのだが、あらゆる作業がとにかく遅く、驚くようなミスを頻発する。

  • ただ、鈍感な故なのか、客観的に自分を見る事が出来ないのかは分からないが、そこまで気にしない。

  • 他の仕事の出来る同僚達と同じような態度を後輩に取るものだから、後輩達には陰口を叩かれている。

  • ただ、これも鈍感さと、小太りで丸い見た目のせいなのか、特に嫌われているという訳では無い。

  • 社内の駄目キャラとして、男性社員からは面白がられているし、女性社員も陰口を叩きはするが、見下されているだけで、嫌われてはいない。

  • 後輩に対しても偉そうな口を利いたり、的外れの説教をするのだが、これも後で「市田さんにこんな事言われた」という酒の席のネタとして重宝されており、市田さんの説教ネタとして面白がっている後輩も居るそうだから、決して居場所が無いとか肩身が狭いという訳でもない。

 その後も、智美は旦那である誠一のやらかしエピソードを披露した。取引先に送る手書きの感謝状に切手ではなく収入印紙を間違って貼った。(昔から何度もやらかしているそう)後輩と2人で取引先訪問時、鞄を営業車の屋根の上に置いたまま助手席に乗り込む。信号で停車中の車に見送りに出た取引先の社員の人が数百メートル走って知らせに来てくれたそうだ。会議室でプレゼン中。上司に暖房の温度下げてと言われたのに、テンパって電気のスイッチを消す。

 などなど。

 登場するエピソードも殆どここ1ヶ月くらいの出来事だ。会社の後輩達から情報が流れてくるらしいのだが、今まで1ヶ月と空いたことが無いそうだから、ある意味感心する。

 麻子は声を挙げて笑っている。

 智美の場合、旦那の愚痴とは言っても、話そのものが面白いので漫談を聞いているかのような気分になる。聞いてるだけでストレス解消になるのだから、お金を取っても良いくらいだ。

 麻子が「でも、結婚前は良い感じだったのにね」というと智美が「ね~」と言いながら頬杖をつく。

 頬杖で歪んだ口から、愚痴が漏れてくる。

「恋って勘違いなのよ。勘違い。私って恋すると美化しちゃうのよね。私にしか分からない彼の良さがある、なんて勘違いしてたのよ。景子の言う通りだったわ」

 景子とは会社の同期で社内で一番仲が良い同僚の事。

「プロポーズの時もさ、景子は反対してたのよ。もっと冷静になってから判断した方がいいよ!ってさ。サプライズされてもスグに返事しちゃ駄目よって」

 誠一が智美にプロポーズしたのは、付き合い始めて丁度1年後の事だった。

「気が利かない旦那(当時は彼)が突然高級ホテルで食事しよう、綺麗な格好してきなって言ったのよ。そりゃプロポーズだなって思うよね。もうそれで嬉しくなっちゃってさ。アラサーっていう年齢のせいもあったのかな。私自身焦ってるつもりはなかったのよ」

 食事の最後にプレゼントがあるからと言われ、指輪を渡されると同時にプロポーズされ、智美は即座にOKと答えた。

「その時は、彼の何が分かるの!って怒ったんだけどね、あっもちろんマイルドによ、怒鳴ったりはしてないわよ。でも、景子の言うとおりだったの。結婚後すぐに謝ったんだから。ごめんね景子って、景子の言うとおりだったって……。全部幻想だったのよね」
「うんうん。でもそんなもんだよ」
「ね。そうなのよね。でももう少し長持ちして欲しかったな。結婚して1ヶ月目で醒めるのは無しよね。せめて3年くらいは続いてもらわないと、いや1年でいいわ」

 智美は、当時主任に昇格したばかりで、直属の上司から会社の花形部署でもある経営企画部に推薦するという話もあったそう。上手く行けば、翌年か翌々年には異動する予定で、30代にして出世コースに乗る予定だったのだ。

 だから、退職する際、直属の上司だけでなく経営企画部の人間からも、辞めないで欲しいと懇願された。半ば冗談だとは思うが、部長からは「市田誠一が家庭に入ったらどうだ」などと言われたそう。

 ただ、旦那と義母、というより主に義母の強い要望もあり、後ろ髪を引かれる思いながらも退職を決断したのだった。

「もっと、じっくり考えれば良かったな。麻子も言ってたよね。1年くらい様子を見たらってね」
「うん。だって、智美は本当に仕事が出来るからね。勿体ないなって思ったの」

 智美が頬杖で歪んだ口から後悔を漏らす。

「内の母かな。凄い急かされてたからね。あ~あ、独り暮らしすれば良かったな。お父さんがね~、寂しいって言うからさ、就職後も家に居たんだけどね。母の小言を年柄年中聞いてる内に焦ったのかもしれない」

 小中学校が一緒だった事もあり、麻子も智美の母の強烈さを知っている。今で言えばクレーマーとか、モンスター何何に入る類いの人かもしれない。麻子が智美宅で遊んでいる時、智美の母がテレビのニュースに腹を立て、局に電話でクレームを入れる姿を見たことがあるが、そのヒステリックな口調に驚いた事があった。
 ペットボトルのジュースの底に少々滓があっただけで、メーカーの担当者を自宅まで呼びつけ、当時小学生だった麻子と智美が居る前で殆ど土下座に近いくらいにまで頭を下げさせていた事もあった。

 一方、智美の父親は穏やかで優しい。仕事も出来る人で、団塊の世代に属する人間ながら、家事も育児も得意な人。

「2人真逆なんだよね。お父さんは優しい人なんだけどね。母が強いのよ。とにかく強いから。よくお父さん耐えてるなって思うもん。私は母みたいには絶対なりたくない」
「反面教師って言ってたよね」
「そうよ。麻子と景子には愚痴るけど、目白の家では猫被ってるからね。そう反面教師よね。やっぱり気性は母に似てるもん。気をつけないと、私もああなっちゃう」

 麻子が「目白では貴婦人みたいなしゃべり方なんでしょ」と戯けた口調で言う。すると智美も麻子の戯けに乗る。

「そうだよ~。目白の家では私ペルシャ猫みたいに大人しいからね。……。時々トラ猫になるけど!」

 というと、智美が頬杖を外し両手でトラ猫ポーズを作り「ニャー」とふざけた。

 麻子が手を叩いて笑う。

 その後も、トラ猫ポーズのまま語尾に「ニャー」をつけて旦那漫談を続ける。麻子がバッグからハンカチを取り出し目元に当てると、智美が「麻子何泣いてんのよ~」と言った後で突然溜息をつき再び頬杖をついた。

「ねえ麻子。2年でトラ猫よ。持つかしら」


22(X2年1月)

 1月に入ったものの会社からは何の連絡も無かった。

 本部の指示では、一度大井町接骨院の小堀院長との顔合わせをした上で、いつから出勤するか決めるとの話だったが、1月中旬に差し掛かっても何の連絡もなかった。仕方ないので私の方から本部に連絡し、その後院長の小堀と電話で話したのだが、小堀からは「いつでもいいですよ」という、何ともいい加減な返答。いい加減な返答に少し苛ついたので、「じゃあ25日からとかでもいいですか?」と、少し嫌味を込めて、社内の常識ではあり得ない日程を伝えたにも関わらず、「はい分かりました。25日ですね」と、何の検討も無く返されて電話を切られてしまった。

 唐突だが、ここで私が一応は所属している片岡メディカル株式会社の歴史について改めて説明しておこう。

 現社長の父親に当たる片岡会長が接骨院を開業したのが80年代。創業の地である巣鴨で成功を収め、80年代後半に分院展開へと乗り出す。業界では革命児などと呼ばれていたらしい。(本当かどうかは知らないが) 

 ある政治家のパーティーで、名のある経営者から「おい按摩屋」「骨弄り」などと呼ばれバカにされたのをキッカケに上場を夢見るようになり、その夢を叶える為に着手した新規事業こそが、先月まで私も配属されていたリラクゼーション事業部である。

 有名なコンサル会社の支援を受け、猛スピードで店舗拡大していき、リラクゼーション・クイックマッサージ業界でシェア率でも上位を占める存在になった。

 しかし、その裏で接骨院事業は縮小。一時期、本院と分院で計9院を構えていたが、現在は創業の地である巣鴨院と、私が飛ばされる事になった大井町院の2院を残すのみ。それも2院とも会社の影の部分を引き受けた特殊な存在なのだ。 大井町院の存在については、以前に少し触れたが、巣鴨院と共に再度説明しておこう。

 大井町院は問題を起こした社員、駄目な社員、私のように目障りな社員を飛ばす場と化している。社内では「掃き溜め」「辞めさせ部署」などと呼ばれており、正社員なのにココに飛ばされたら、それは会社からのクビ宣告だという暗黙の了解がある。 巣鴨院は片岡メディカル創業の地であり、こちらは原点的な存在なはずなのだが、現在は、お世話になった恩人のどら息子やバカ息子の面倒を見るだけの場所と化している。

 恩返し⇒ウン返し⇒ウンが跳ね返る⇒ケツに跳ね返りウンがつく⇒ウンがついたケツを拭く⇒ケツ拭き、と変換され、社内ではケツ拭き院、青年院(少年院連想)などと呼ばれている。
 ただし、巣鴨接骨院はメインで施術を行うスタッフには優秀な人物を揃えている。何しろ、年柄年中どら息子どものケツ拭きをするので、優秀な人物じゃないと務まらないのである。
 さらに巣鴨院の裏には無駄に大きいプレハブの事務所があり、そこにはお客さんに接することなく出来る仕事が多数用意されている。社用車の運転、クリーニング、清掃、ポスティング、リラクゼーション事業部で使うタオルなどの備品を店舗ごとに仕分けする仕事、それらを運搬する仕事、競合店などの外観を写真に撮るだけの仕事などなど。

 両院とも間違いなく大赤字なのだが、会長の義理と人情により維持されているお荷物院なのだ。
 昭和の義理人情を色濃く背負った会社であり、本来上場を目指すべきような会社ではない。にも関わらず上場を目指し無理して改革などするから、アホ専務のような反乱分子が生まれ、尚更グチャグチャになってしまうのである。


23

 1月25日から予定通り大井町院に出勤し始めた。

 もう外観を見た瞬間にやる気の無さが伝わってきた。入口付近のコンクリートの隙間から飛び出している雑草が、一番長い所では膝丈くらいになっている。入口の扉の持ち手部分が随分と赤く錆びているのに放置されている。扉のガラスもあちこちに、随分前にこびり付いたであろう汚れがそのままになっている。

 どうしてこうなったかは分からないが、ガラスに張り付いた小さな虫の死骸が周囲に体液の跡を残したまま放置されている。その体液の跡に付着した塵の感じから、これも随分と放置されているに違い無い。

 その隣に目を移すと待合室の窓ガラスに外に向けて貼られたポスターが長年太陽を浴びたせいか黄色くなっており、一部文字が消えかかっている。その下に{隣の敷地に自転車を止めないで下さい}と書かれたA3サイズのコピー用紙はテープの粘着力が衰え角が剥がれていた。

 キーッと変な音のする扉を開き中に入る。

 受付前で掃除をしていた女性スタッフが挨拶する。

「おはようございます。すいません、まだ営業まで時間があるので、こちらで……」
「ええと、いえ今日から配属になった川尻と申しますが」

 と答えるが、彼女は、私が今日から配属になった事も知らないようで、すぐに院長の小堀に連絡を入れる。随分と長い呼び出し音の後で小堀の「は~い」というやる気の無い声が受話器から漏れてきた。

「川尻さんという方がいらっしゃってますが」

「は~い」という覇気の無い声の後で、ゴニョゴニョと何か言ってる。

「あ~、そうなんですね。分かりました。そしたら、ハイ、やっておきます」

 電話を切ると、顎を落としフーッと呆れ混じりの溜息をつくが、すぐに顎を上げ笑顔を作ると、「川尻さんどうぞ」と受付向こうの扉奥にある事務所スペース兼控え室に案内してくれた。

「あ、川尻さん、私は赤羽と申します」
「はい赤羽さんですね。小堀さんから説明が無かったみたいですね」
「はい。今聞きました。あ、あと院長は用事があるので午後から出勤するそうです」
「えっ」

 予定では、院を開く20分前から面談をし、何かしらの書類に目を通しサインするはずだったのだが……。

 赤羽さんはテキパキ作業をしている。動きを見る限り、掃き溜めにはふさわしくない優秀そうな人物だ。気になって話を聞くと、彼女は現地採用。大井町接骨院が勤務歴としては3院目で、それも昨年の9月に採用されたそうなので、まだ5ヶ月目である。

 彼女によると1月下旬の寒い時期はお客が殆ど来ないらしく、今日のシフトは4人だとの事。(小堀が来ないので午前中は2人)ただし、昨日の来客記録を見る限り、通常の接骨院であれば正直1人で足りるくらいのお客さんしか来ていない。

 着替えを終えると、先ほど気になった入口扉の掃除、草むしり、掲示物の貼り直しをする。赤羽さんに営業時間前の作業内容を確認し、小走りで準備を進める。

 営業時間になっても誰も来なかった。通常、営業直後はお年寄り中心にお客さんが来る時間帯なのだが……。

 暇な時間、受付で赤羽さんと話していた。赤羽さんは体育大学出身で、女子サッカー部に所属していたそうだ。学生時代に日本代表候補になった事があるらしく、将来を有望視されていた時期もあったそう。だが、試合で悪質なタックルを受け膝の靱帯を断裂。手術にリハビリと努力したそうだが、大学卒業までに復帰は叶わず、そのまま引退。卒業後、リハビリ時代にお世話になったトレーナーさんに憧れ、接骨院で働きながら3年間夜学に通い資格を取得したのだそうだ。

「川尻さんは?ええと。何て言うか、今まで社員で配属されてきた方とちょっと違うというか……」
「あ~、僕はね、本部の連中と色々揉めてね、それでココに飛ばされたのよ」

 赤羽さんの質問に答える形で、元々は渋谷の店舗マネージャーを務めていた事、会社との揉め事、掃き溜めに飛ばされる迄の経緯について話した。    

 赤羽さんによると、赤羽さんが勤務し始めてから5ヶ月の間に、3人の正社員が飛ばされてきてはあっという間に辞めたそうだ。

 しかし、9時に営業をスタートしてから、もう10時10分になるというのに、まだ1人も客が来ない。

「凄いね。10時過ぎてもこんな感じなの?」 
 赤羽さんが困ったような顔を作る。
「お客さんも分かってるんですよね。今日は午前中は小堀さんメインなんで皆避けるんですよ」
「何それ。クソしょうもない院長って話しは聞いてたけど、そんななの」
「ハイ。ビックリするくらいやる気が無いです」

 午後営業(15時~18時)は、上尾君という現地採用の腕利きのスタッフがいるらしく、今日は午後にお客さんが集中するだろうというのが赤羽さんの予測。全くその通りで、午後に一気にお客さんがやってきた。(とは言っても混んでいるという訳では無いのだが)

 午後からやってきた上尾君は腕も良いし接客も上手い。一方、午後から出勤してきた小堀は事務所に籠もったまま殆ど表に出てこない。時々出てきて、いい加減な指示だけ飛ばし、また事務所に籠もる。

 上尾君は派遣会社の紹介で大井町院に勤務する事になり、来月で2年目(13ヶ月目)になるそうだ。正直、なぜこんなやる気の無い院長の下で働くのか理解出来なかったのだが、営業時間終了後に話を聞くと、給与が比較的良いこと、院長がやる気が無いお陰で自分の裁量で全部出来るメリットがあるとの事。上尾君は将来独立を目指しているそうなので、「それでも構わない」との事だった。

 初日の勤務を終え自宅に戻ると夕食を済ませ自分の部屋に戻る。

 机の中からレポート用紙、机の上のペン入れからサインペンとボールペンを取り出し、レポート用紙の一番上に【大井町接骨院の対策】と大きな文字で題名を書く。レポート用紙の真ん中に縦線を引き、上の方に横線を引く。左の線の上に問題点と書き、右の線の上に改善策と書く。

 1つずつ問題点を挙げてゆく。次に各問題点に対する改善策を考える。が、途中で「あっ、どうせ辞めるんだ。俺独立するんだった」と独り言。

 【仕事は最低限!!】と題名よりも大きな文字で書き殴ると、レポート用紙をクチャクチャに丸めて屑入れに投げ捨てた。

 もう、こういう努力は必要無い。 全ては無駄だった。いや逆効果だった。

「仕事は最低限でOK。もう頑張るな。どうせ無駄なんだから。最低限、最低限……」と自分に言い聞かせるよう呟いた。

<続く>

ここから先は

0字

全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?