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13クソ下らない社畜生活ともオサラバだ!【公開】

59麻子と智美(X2年7月)

 ここ最近、いつものカフェレストランからすっかり足が遠のいている。

 というのも、そのカフェレストランが複数の雑誌やテレビの情報番組でも紹介され、やたら混むようになってしまった。その混雑への対処なのか、店内の席数を大幅に増やした事もあり、窮屈で騒々しい空間へと変貌。ゆっくり、おしゃべりを楽しむ空間では無くなってしまったのだ。

 こうなると2人の目的には適わない。以後、麻子の自宅でティータイムを過ごすようになった。

 今日も、智美が都内のデパートで購入した茶葉を、友人の結婚式の引き出物で頂いた(正確にはカタログで選んだ)ガラス製のティーポットでマグカップに入れ、同じく智美がデパートで購入してきた焼き菓子を摘まみながら、いつも通りおしゃべりを楽しんでいた。

 智美の旦那が最近、コーチングの勉強を始めたそうだが、智美は相変わらず厳しい。
「でもさ、内の旦那に指導して欲しいって思わないよね。コーチングって信頼関係が前提でしょ。よく名選手名監督ならず、なんて言われるけど、ド素人選手が名監督になる可能性はもっと無いでしょ。それも、運動の場合は運動神経が関係するからね。理屈としては分かってるけど出来ない、ってのはあるかもしれないけど、ビジネスは違うでしょ」
「でも、勉強するようになったんだね。成長の証じゃない?」
「まあね。内の後輩も、最近偉そうにしなくなりましたって言ってた」
「ええ~、良かったじゃない」
 智美が顔を顰めながら右手を横に振る。
「いやいやいや。その分、内で偉そうにするのよ」
「そうなの?」
「そうよ。だってね、この前なんてね。ビジネス誌の記事見せてきてよ、『智美はこの件についてどう考える?』なんて偉そうに試してきたのよ」
「あらま」
「智美はどう考える、じゃないでしょ。まずはあんたがどう考えてるのか言いなさいよ――」
 結局、その場では旦那さんを立てて、「よく分からないからあなたの考えを教えて」と返したそうだが、その答えが智美からしたら随分と的外れだったそうだ。
「あの感じで内の後輩に指導するのは無しよね。だから、後輩のため、おもりよおもり。仕方なく付き合ってるのよ。だから、もうストレスが溜まるの」

 というと「ねえ、今ストレスを吐き出していい?」と麻子に許可を取り、麻子が「いいよ」と言うと、智美は持参したハンドタオルを口に当てて、腹の底から何かを吐き出すように「アー!」と喚いた。
 麻子は笑っている。
 しばらく智美は旦那である市田誠一絡みのストレスを1つずつ挙げては、ハンドタオルに「アー!」と喚いていた。

 一頻り喚くと次は雄輔の話題になった。
「そうそう、雄輔さんは相変わらず?」
 麻子が困ったような顔をする。
「うん。……。今回は本気っぽいね。高山先輩も言ってたけど、また変な人の影響受けてるって」
「そうなんだ~」
「そうそう智美、ちょっと見て欲しいの」
 と言うと、麻子が雄輔の部屋に智美を連れて行った。
 麻子が本棚からやたら付箋が飛び出している本を1冊取り出し「ねえ見て」と言って、付箋のページを開く。智美はその本を受け取り、ページを捲っては、目に留まった下線部分を拾って読み上げた。

{そもそも、あなたの偉大な挑戦を理解出来るだけの能力が無いのです。だから相談するだけ無駄です。というより相談する方が不親切というものです。だって彼女にはあなたの優れた考えを理解するだけの能力が無いのですから。}
{すぐに一歩踏み出してください。とにかくあなたの考えで、あなたの判断で進めましょう。既成事実化した上で、それでも反対するようだったら、彼女はあなたにとってふさわしい人では無いのです。}
{もし、あなたについてこれないような人ならば、早めにあなたの元から旅立たせてあげるべきです。なぜなら、そうしてあげないと、彼女は二重の意味で罪を背負う事になってしまうからです。1つは『あなたの理想の邪魔をした』という罪。もう一つは、あなたの事業により救われるはずだった人達の可能性を奪ったという罪です。}

「あらら、これはヤバイわね~」
「でしょ。多分、強引に押し通すつもりなのよ。昔から、そういう所あるからね」
「そうだね。確か、ランクル事件の時もそうだったよね~」
「そうそう。そうだった――」
 ランクル事件とは、息子の雄大出産直後に起こった、雄輔の独断による自動車購入事件の事だ。元々は雄大が生まれたのをキッカケにファミリーカーを買うという話だったのだが、あれこれパンフレットを取り寄せ営業マンに煽てられる内に、雄輔が突然ランドクルーザーを買うと言い出したのだ。

 そもそも、現マンションは、数少ない地上の駐車場が既に満車で、立体駐車場しか空いてない上に、立体駐車場は高さ制限があるため、ランドクルーザーは駐められないのだ。雄輔は「そのうち空くから、それまで待てば良い」と言って麻子の意見に耳を傾けもしなかったのだが、何しろ自宅は分譲マンションで、人の出入りがそもそも少ない。
 実際、麻子が管理人さんに確認すると、もう5年以上、地上の駐車場は空きが出たことが無く、仮に空きが出ても応募者による抽選になるとの話で、下手すれば次の買い換えまで駐車場が空かない可能性だってある。
 だから、どう考えてもランドクルーザーはあり得ないのだが、麻子が散々反対したにも拘わらず、結局一切意見を聞かずに強引に購入。それも自宅マンションの周辺では空き駐車場が見つからず、何と自宅から500メートルも離れた場所に駐車場を借りる羽目になる。
 結局、購入したは良いが、殆ど乗る事もなく、2度バッテリーが上がってしまった時点で売却となり、今はコンパクトカーをマンションの立体駐車場に駐めている。

「そのくらいの事だったら良いんだけど、起業となるとね……」
 智美が別の本を取り出し、付箋の貼ったページに目を通してる。
「でも雄輔さんだった独立してもやってけそうじゃない?」
「ん~。まあね。私も独立そのものは反対じゃないの。あの姿勢とか態度が嫌なの……。あっ、でも高山先輩は、『あの感じで独立なんてしたら痛い目にあうぞ』、って言ってたよ」

 智美が物凄いスピードで頁を捲りながら何度も何度も首を左右に動かしている。一通り板東の本の内容を確認するとパタッと音を立てて本を閉じた。

「それはあるわね。これは学ぶ人を間違えているわね。ザッと見た限りだけど、具体的なビジネスの話が書かれてないわよね。何て言うか、虚栄心とか顕示欲の塊というか、こんなコンサルの指導を受けても、上手く行くものも上手く行かないし……、え~と、この、板東って人、本当に新規事業立ち上げとか、事業再生とか成功させた事あるのかしら? 何か具体的な中身が無いのよね」
「そうなのそうなの。先輩も『実践的な事は何も考えてないみたいだな』って言ってた」
「そうでしょ。でもさ~、なんで、あの~、あ~今聞いたばかりなのに忘れちゃった、あの~何先輩だっけ?」
「高山先輩?」
「そうそう。高山先輩だ。何で、その高山先輩に相談しないのかしら?」
「あっ、それね相談したけど賛同してもらえなかったの」
「なるほど。そういう事ね」
「だってね。先輩から連絡があったんだけどね。おとといくらいに『お前の通ってる塾は大丈夫か?』とメールを入れたんだけど、雄輔からは『先輩には関係無いんで口出ししないで貰えます』って返ってきたんだって」
「え~、ヤバいわね。自分の意見と違かったら――」
 智美が、黄色い蛍光ペンでマーキングされた文字を指差す。
「『妨害者』ってレッテル貼っちゃうのね」
「ホントそう。雄輔はね。信奉癖があるのよ」
「何か前もあったよね」
「あったね……。あの時なんて、講演会の会場で出待ちみたいな事したのよ」

 この事件は結婚直前の事だった。簡単に言えば、とある社長さんの本に影響を受け、その社長さんの講演会に何度か足を運んでいる内に信奉してしまい、ついには弟子にして下さいと言う為に講演会の会場の外で出待ちまでしたという事件だ。

「そういえば、あの時も会社と揉めてたのよね」
「そうだったね。でも、ある意味分かりやすいよね……。あれってその後どうなったの?」
「結局ね、その社長さんが直後に秘書に対する猥褻行為だか何かで逮捕されたの」
「それで目が覚めたんだ」
 麻子が首を横に振る。
「違うの。古狸共に嵌められたとか言ってた」
 智美が顔を顰める。
「麻子ヤバいわね。この板東とかいう胡散臭い人に、精神的に支配されてからだと、もう取り返しがつかなくなるわね」
「ねえ。ホントどうしよう」
 智美が胸を張った。
「何、簡単よ。譲歩しても悪くなるんでしょ。だったら闘った方がまだ良くなる可能性はあるじゃない」
「ん~。大丈夫かしら。私に意見されるの凄く嫌がるのよね」
「家族の為に闘うんだから大丈夫よ。それで足蹴にするような人だったら、それまでの人よ」
「ん~。そうか。そうよね」
「大丈夫よ。いざと言う時は私が間に入るから。多分、この胡散臭いじじいより私の方が口は立つから。ザッと読んだだけで突っ込みどころ満載よ。でも、なんでこんな穴だらけの話に引っかかっちゃうんだろうね?」

 というと智美が急に溜息をつき項垂れた。

「あ~、人の事だと冷静にアドバイス出来るのにな~。いざ自分となるとね~」
 麻子が「みんな、そんなもんだよ」と慰める。
「内の旦那なんてそういう意味ではアウトだけどね。情なのかな? 責任なのかな?」

 麻子が「母性じゃない?」と返すと、智美は猛スピードで右手を左右に振りながら、
「いやいやいや、母性は無い!無い!。結婚して1ヶ月で無くなったわ! 可愛げゼロだからね。憎たらしさでは群を抜いているけどねっ!」と吐き捨て、冷めた紅茶を一気に飲み干した。


60(X2年7月)

 秋葉原駅から7~8分の貸し会議室。

 今日は、板東塾で同じグループの池谷さんが主催する勉強会に来ていた。勉強会では、成功者マインドを手に入れるというテーマで、成功者となった未来について想像し、皆に披露し、お互いに誉め合い高め合うというワークショップを行う。(全部で7人が参加。マグワイヤー君も一緒に参加した)

 池谷さんによるとイメージトレーニングの一種だそうで、成功体質へと自分を変貌させる効果があるらしい。「人は想像出来る未来にしか到達できない」という板東先生の教えに従って塾のOBが開発したワークショップで、抽象的な目標を掲げるだけでなく、1週間のスケジュールを具体的にイメージし、住居、家具、自動車、洋服、などなど、実に細部にこだわって設定を詰めた上で、朝起きてから夜寝るまでの成功者の1週間をイメージするのだ。

 これが不思議なものでネガティブなイメージをする必要など無いのに、家族持ちの塾生の中には、奥さんと揉めに揉めたあげく離婚に至ってしまった未来をイメージしている人まで居た。話を聞くと「成功者になったのにコイツと一緒に居る未来は想像出来ない」と説明していたが、なるほど……、恐らく説得に苦労しているのだろう。

 勉強会の後半では、参加者がそれぞれ悩みを出し、その解決策を皆で考えるというワークショップを行った。やはり、多くの人が家族の説得に手子摺っていた。
 塾で同じグループのマグワイヤー君は独り身という事もあって、何の妨害もなく、副業ではあるがフリーのパーソナルトレーナーとして既にスタートしている。(先月、税務署に個人事業の開業届けを提出してきたそうだ) 
 彼の場合、悩みと言っても、「どうやって集客したら良いか」といった具体的な内容だ。一方、家族が居る塾生は、全員その説得に苦労しており、スタート以前の問題に苦しんでいた。特に勉強会参加者の1人宮村さんは袋小路状態だった。

 宮村さんは現在43歳。45歳の年上女房に、中学3年生と小学6年生の娘さん、さらに奥さんのお母さんが同居しているのだが、よく事情が分からない小学6年生の娘さん以外、全員が反対だそうだ。「誠意を持って説得すればきっと応援してくれるはず」という目論見から、家族会議を開き説得を試みたらしいのだが、これが大失敗だった。
 まず奥さんから強烈な反対を喰らい、「あなたがうだつが上がらないせいで、私が週5でパートやる羽目になってるのに、夢なんか見てる場合じゃ無いでしょ。あと6年もすれば2人の大学費用が必要になるんだから、まずは会社で結果を出してよ」と怒られたそう。
 奥さんのお母さんからも散々なダメだしを喰らったらしく、中学3年の娘さんにまで、「ママの言う通りにして!」と怒られたそうだ。それ以来、自宅で起業の話はNGで、説得すら不可能な状況になってしまったのだという。

 20代後半独身の和地君が「離婚したらどうですか」と平然とアドバイスするが、宮村さんは「半年くらい様子を見て、駄目そうだったら諦めようと思ってます」と萎れた声で答えた。

 私も「妻の説得に手子摺っている」と打ち明けた。あれこれ解決策を出し合うが、全て私自身一度は検討した事がある提案だった。

 結局、強引に推し進めるしか無いのだ。板東先生は「説得ではなく指導してあげてください」と言ってたが、結局は指導だって向こうの態度次第。どんなに素晴らしい教えでも、結局、それを学ぼう、吸収しようという気持ちがなかったら、どうにもならない。

 池谷さんの提案で、宮村さんを除く、家族持ち塾生3人で決意表明を行う事になった。ズバリ、「今日奥さんに起業を宣言をする!」という表明。それも、奥さんが反対しようがどうしようが、とにかく意志を貫き通す事を誓い合う。その結果を後日報告し合いましょうという締めで今日の勉強会は終わった。
 もちろん、不安感は拭えないものの、一応は勇気が湧いてくる。何しろ他の塾生の前で宣言した以上、何もしないという選択肢はあり得ない。それにしても人間の意志とは頼り無いものだ。誰かに背中を押してもらわなければ、その一歩が大きな成功につながる一歩にも拘わらず、家族や周囲の妨害に負けて踏み出せやしない。

 勉強会が終わり、マグワイヤー君とカフェに寄り時間を潰すと帰宅した。


61

 電車に揺られながら、どう麻子に言おうか、どう推し進めようか、あれこれ計画を練っていた。まず、決定権を渡すのはやめようと思った。「何何しても良い?」という形で相談などしようものなら、それは事実上相手に決定権を渡してしまうことになる。とはいえ、「必ず相談する」と言ってしまった手前もあるので、何か相談の態を取る必要はある。「あなたの意見も聞きますよ」という態度だけは見せた方が良い。麻子はとにかく何の相談も無く何かを進める事を異常なまでに嫌がる。まあ、一般的な常識から言えば、それは分からないでもないのだが、例えば五輪候補になるような柔道選手が、柔道について素人の奥さんに相談などしないだろう。

 本来、起業だって同じはずだが、外面的に一般的な【仕事】と同じカテゴリーに所属するかのように思われているから、素人の癖に平気で口を出して良いみたいな、おかしな状況になっている。この国は特にその傾向が強い。

 色々策を練った結果、8月退社の9月スタートか、12月退社の1月スタートかの2択で相談を持ちかける事にした。もちろん、間違いなく抵抗するだろう。でも、そんなのは想定内だ。とにかくイエスとさえ言わせてしまえば後はどうにでもなる。
 今までもそうだった。とにかく強引だろうが何だろうが、一度推し進めてしまえば、結局従うのが麻子。だから、今日の目標は、どんな形でも構わないので、イエスと言わせる事。例えそれが、「もう知らない、好きにすれば」でも構わない。

 これから私は板東塾のVTRに登場してきたような成功者になるのだから何も躊躇する必要など無い。大体説得したところで、そもそも理解出来るだけの頭脳を持ってないのだし、どうせ、結果が出始めればなびいてくる。自分が間違っていた、自分が愚かだったと気付く。麻子の頭では想像もつかないような素敵な未来をプレゼントするのだから、結局は喜ばれる。

 それまでの辛抱だ。さあ決断しよう。 
 クソ下らない社畜生活とも、さっさとおサラバしよう!

 電車が梅ヶ丘駅に到着した。

 私は緊張していた。こまめにペットボトルの水を補給している為、口の渇きは感じないのだが、喉頸がしまっているのが分かる。水を飲み込む度にいつも以上にゴクリと音をさせている。自宅に向かう途中。足がフワフワしている。懐かしい。今でもよく覚えている。柔道部時代、大きな大会になればなるほど、トーナメントで上へ昇れば昇る程、このフワフワに襲われていた。

 今日のフワフワは、地区大会の準決勝くらいだろうか……。

 「ヨシ!」と拳を作って自らを鼓舞する。何度も「ヨシ!」と繰り返す内に士気が高まってくる。自宅マンションのアプローチに差し掛かる頃には戦闘態勢になっていた。エレベーター内で「俺は勝ち上がる。絶対に俺は勝ち上がるんだ!」と繰り返し自分に言い聞かせ、自宅のあるフロアへ降り立った。


62麻子と雄輔。(X2年7月)

 夕方迄、智美が来ていた。

 いつも通り自宅でおしゃべりした後で、幼稚園に雄大を迎えに行き、その足で近くの公園に遊びに行ってきた。智美は運動神経も抜群で、公園内の設備から、建物から、自然までをも鬼ごっこのフィールドに変えて雄大と遊んでいた。

 7月にしては幾らか涼しい陽気だったものの、遊び終えた頃には、2人ともシャツの裾まで汗でびっしょりだった。帰宅後、「あたしお風呂入れるよ」という智美にお願いして、雄大をお風呂に入れてもらった。麻子はその間、洗濯に掃除をしていた。

 その後、智美は雄大の特殊なヒーロー世界(主人公が弱く、いつも説教されている)に付き合わされていたが、気付くと、公園で遊び疲れた雄大は、最近購入したソファーに天地逆さまの状態でもたれたままスヤスヤと寝息を立てていた。

 天地逆さまの雄大をフロアマットの上に寝かせると、智美は「そろそろ帰るね」と、爽やかそうに欠伸をし、乾燥機では乾ききらなかった服を袋に詰めバッグに入れると、麻子に借りた花柄のワンピースを着て帰って行った。

 智美が帰宅すると、麻子は夕食の支度を始めた。夕食の支度を始めて10分もしない内に、玄関から室内へと空気の振動が伝わってきた。
 どこか重い雰囲気だ。その雰囲気を察した麻子は冷蔵庫から野菜を取り出し、続けて棚からボールを取り出す。すぐに鍋に水を入れ火を付け、捏ね作業で急ぎ手を汚し、忙しく動き回り始めた。

 雄輔が荷物を手にしたままリビングにやってきた。フロアマットで寝ている雄大の寝顔を確認すると麻子に近づき、随分と低い声で話しかけた。
「麻子、大事な話があるから部屋に来てもらえる」
「ごめん、今忙しい」 
 雄輔が真剣な顔を作る。
「大事な話だから、来てもらえる」
「後じゃダメ?」
「いいから来て」 
 命令するような口調だった。
 少し間を置き、麻子は「分かった」と答え、手を洗い、火を止め、エプロンを外すと、玄関脇の部屋に向かう雄輔の後ろから付いていった。

 部屋に入ると雄輔はゆったりとした動作で荷物を置いた。麻子は椅子に掛かっているパーカーを手に取り、「あれ、雄輔こんなの持ってたっけ?」と、重い雰囲気に穴を空けようとするが、雄輔は黙ってる。
 その後も麻子は重い雰囲気を和らげようと軽い話題を振るが雄輔は一切反応しない。「麻子いいから」と言って麻子の真正面に立つと彼曰く「大事な話」をし始めた。

「麻子、相談なんだけどさ、起業時期をね9月にするか1月にするか迷ってる。麻子はどっちが良い?」
 口を真一文字に閉じたまま首を傾げる麻子に雄輔は選択を催促する。麻子の鼻から息が抜ける。首を傾げたまま手を腰に当てる。
「あのさ。相談してって言ったよね」
「だから、相談してるでしょ」
「いや、違うよね。わた……」
 雄輔が次を言わせまいと被せてきた。
「違わないよね。俺前言ったよね。起業するって言ったよね。で麻子も賛成だっただろ」
「言ってないよ。選択肢の1つって言ってたでしょ」
「起業は賛成してたよな」
「してないよ。接骨院の先生の資格だから将来的に独立するのは反対してないって言っただけ」
「いや、あ……」
 麻子も強い口調で被せる。
「私は勝手に決めないでって言ったはずよ」
「じゃあ、俺は何で起業塾に通ってるの?」
「それは選択肢の1つとして勉強したいから通うって言ってたよね」
「いや、そんな事言ってないよ。選択肢の1つでしかない塾に高い金払って通う奴がいるか?」
「それは知らないけど、選択肢の1つとしてって言ってった。で、必ず相談するって言ってたよ」
「いや、あ……」
 麻子は再び被せる。
「必ず相談するって言ってたよ。必ずって言ってた」
 雄輔が呆れるような顔をする。
「あのさ、だから今相談してるでしょ」
「違うよね。もう決めてるよね。私は決める前に相談してって言ったの。勝手に会社辞めたりしないでって言ったよ」
「いや、あのさ……」
 再び麻子が被せる。
「言ったよ。私は確かに言ったよ」

 雄輔は舌打ちをすると、再び呆れたように溜息をつく。

「あのさ~。バカか。俺はクビなんだよ。クビ宣告で掃き溜めに飛ばされたんだよ。勝手に辞めるも何も、もうクビなんだよ」
「違うでしょ。それも、あなたが勝手に言ってるだけでしょ。本当にクビだったら解雇宣告されるでしょ。会社ってそういうルールでしょ。だからクビじゃないよね。だって、接骨院に飛ばされてから、もう半年くらい経ってるよ。それも副院長でしょ。クビの人が半年間も副院長なんて務まりますか」
 雄輔が再び舌打ちをし呆れたように首を振る。
「いや~、ホント、分かってない。お前はぬるま湯で温々育ってきたから、内みたいなクソ会社の事なんて何も分かんないんだよ」
「なるほど。そうかもね。じゃあ今説明して」
「えっ」

 どうやらこの反応は想定外だったようだ。脈絡のつながらない話を幾つか展開した後で、ようやく理屈を見つけ、幾らか主旨に沿った説明に戻る。雄輔は、掃き溜めに飛ばされた正社員が次々に辞める事実、会社で掃き溜めがどういう位置づけか、掃き溜めに飛ばされるという事がいかに将来性を失ったかという点について説明した。

 しかし、麻子は冷静に返答した。
「うん。でもあなたは副院長だから、他の社員さんとは条件が違うわよね」
「それは、俺を黙らせる為に向こうが勝手に副院長にしただけでさ」
「給与はどうなの? あなたは店舗マネージャーだった頃と同じ給与のままでしょ。飛ばされてきた人達はどうなの」

 確かに雄輔の給与は減っていない。それどころかヘルプ地獄もあり、少し増えている。通常、掃き溜めに飛ばされてきた駄目烙印を押された社員は給与が激減している。雄輔は麻子がこんな細かい所まで突っ込んでくるとは思ってなかったようだ。説明に窮したのか、口元が引きつり、返す言葉が出てこなくなると、話を逸らし始めた。
「まあいいよ、そんな話は。だって俺は実際に『いつ辞めるんだ』って上から催促されてるんだから、給与がどうだろうが実質クビなんだよ。お前は内の会社の事なんて分からないだろ」

 明らかに嘘である。上から辞めるよう催促などされてないし、元上司の金子からは「お願いだから辞めるなんて言わないでな~」と引き留められた。雄輔としては、どんな状況になろうと、麻子に「イエス」と言わせてしまえばOKという考えなので、もはや嘘でも何でも構わないのだろう。
「いいから、もう進めちゃったんだから。ついてくればいいから」
「えっ何? 進めちゃったってどういう事」

 雄輔は、法人立ち上げの準備を進めている事、レンタルオフィスの契約を進めている事、資本金振り込み用の通帳の準備を終えたこと、退職届けを書いた事(まだ出してはいない)、を伝えた。

 今度は麻子が呆れ顔をする。
「ねえ何で勝手に進めるの。こんなやり方されて賛成する人いる? ねえ家族の生活もあれば子供の将来もあるんだよ」
「いやいや逆でしょ。家族の生活や子供の将来があるから独立するんでしょ」
「え、どういう事?」
「先も言っただろ。事実上のクビなんだって。今の会社にいても、もう将来性なんて無いんだって。だから独立するしかないわけ。お前分かってる? 今の会社で社畜として一生過ごせって言う方が、むしろ家族の生活、子供の将来に対して無責任なんだよ。家族の生活も子供の将来もどうでもいいから、会社辞めないでって言うならば、まだ筋は通っているよ」

「まず一生過ごせなんて言ってないし、そもそも転職は? 転職も選択肢の1つって言ってたでしょ」
「いや、あ……」
 雄輔の言葉を強く打ち消すように麻子は継ぐ言葉を被せた。
「でっ、でっ、家族の生活や子供の将来を考えるならば、ちゃんと家族に相談して決めるし、こんな騙し討ちみたいなやり方しないよね。私達の事なんて考えてないから、こういうやり方出来たんじゃないの? ねえ、違う? 違うかしら? 違うなら教えて? あなたの考える家族のためってのを」
「いや、あのさ、今の俺の状況分かってる?」
「分からない。先の説明じゃ、私理解できない。全然クビじゃないんだし、転職だって選択肢にあるんだし。大体、独立も絶対反対じゃないよ。ただ、こういう進め方は止めてって言いたいの。何が何でも反対って訳じゃないの。ただ勝手に会社を辞めたり、勝手に起業を進めたりしないで欲しいの」

 ここまで反対するとは想定してなかったのか、反論に窮した雄輔が屁理屈を捏ね並べ始めた。
「独立が反対じゃないのに、進め方は反対っておかしいよね」だの、「絶対反対じゃないのに、今は反対っておかしいよね」だの、「俺が何を言ってもさ否定するじゃん。否定が目的じゃん。これじゃあ幾ら説明しても意味ないよね。だって否定するのが目的なんだもん」だの、「そんなのおかしくない。お前困ったら逆質問するだろ。おかしいじゃん。俺が聞いてるのにさ、そうやって議論潰しするじゃん」だのと……。

 あまりの屁理屈に麻子が目をパチパチさせる。
「えっ? 何を言ってるの」
 あまりに話の本筋から外れてきたので麻子が戻そうとする。
「ねえ雄輔。子供じゃないんだからさ。ちゃんと話しあおうよ」
 すると雄輔の声が荒くなる。
「じゃあ、何だ、俺は一生掃き溜めみたいな職場で奴隷みたいに過ごせっていうのか!」

 あまりにも筋から外れた文言が飛び出してきたものだから、麻子は一瞬固まってしまった。が、すぐに立て直すと、宥めるような声で返す。

「そんな事言ってないでしょ。何言ってるの?」
 だが、雄輔はさらにヒートアップする。
「いや言った。お前等の生活費の為に、俺は社畜として奴隷として一生理不尽に耐えろって言いたいんだろ!」
 と言うと、右手の平で壁を叩いた。
「ねえ壁叩かないで!」
「ふざんけんなよ!」
「ねえ、そんな事言ってないよ。ちゃんと相談してって言ってるの。話し合って決めようって言ってるの」

 しかし、雄輔は興奮した様子で一方的に捲し立てるだけで、もはや麻子の問いに対応した文言になってない。これ以上の不毛な言い合いを止めようと麻子が提案する。

「ねえ、また今度にしよう。今度ゆっくり話そう。私も前向きに考えるから。それだったらいいでしょ」
「なあ、逃げるなよ。狡いだろ。自分に都合が悪くなったら、お前そうやって逃げるよな。で適当に誤魔化して無かった事にしようとするよな。ホント狡いぞ、そういうの」
「分かった。分かった。ひょっとしたら私が誤解を与えていたかもしれない。だから聞くから。ちゃんと話して、今の説明だと屁理屈にしか聞こえないから」
「お前のも屁理屈だけどな」
 麻子の口が一瞬開くが、すぐに閉じた。

<続く>


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全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

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