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06妨害者の存在【公開】

26(X2年2月)

 休憩時間中、私は隣の席の男性と話していた。

 彼は興奮した口調で「もう入塾を決めた」話している。話を聞くと、セミナーに参加すると決めた段階で入塾を決意し入塾後に会社も辞める予定だそうだ。彼も会社で理不尽な目に遭い続け、ずっと我慢してきた。上司がクソ碌でも無い奴で、何かあると見せしめにと彼を怒鳴りつけては、彼を駄目キャラに仕立て上げ、延々虐げ続けてきた。

 30歳になり、そんな理不尽に耐えられなくなり、次の道を探すべくインターネットで色々調べていたところ、板東先生のブログに辿り着く。ブログを読む内に「これは運命の出会いだ」と感じ、スグに板東先生の本を取り寄せたそうだ。

 その出会いも、ほんの2週間前の出来事。行動が早い。

 私も興奮していた。気付くと、「私も圧倒的結果を出してきたのに、上に反抗的で目障りな奴だからって、左遷されたんですよ」などと、ちょっと盛って語っていた。本当は、上に反抗的な目障りな奴だから、掃き溜めに飛ばされた訳では無いのだが、でも実質そんな感じだから、まあいい。

 彼との会話は楽しかった。積極的に自分の人生を変えようとしている人達との会話は本当に楽しい。

 2時間目が始まった。板東先生が壇上に立った瞬間、会場は静かになった。壇上に立つ先生が会場全体に隈無く視線を送る。前列の左から右へ、後ろの列を右から左へ、さらに後ろの列を左から右へ、と言った具合に……。

 最後列まで視線を送り終えると、会場の空気が引き締まるのが分かる。受講生全員の緊張感ある視線が、壇上の初老の男性一点に注がれる。充分に視線を引きつけた上で板東先生が静かに語り始めた。

「私には夢があります。もう60代後半にもなったじじいが何を言うんだなんて思った人も居るかも知れませんが、夢とは言っても子供が文集に書くような、野球選手になりたいとかお金持ちになりたいといった、そういう夢ではありません。そうですね。夢と言うよりかは厳密には社会への恩返しと言った方が良いかもしれません」

「それは、皆さんみたいに大いなる可能性を秘めながらも、社畜量産のための古い教育制度や家族や組織に雁字搦めにされ才能を発揮するが出来ずに苦しんでいる人達を解放する事。常識が云々、大人が云々などと偉そうな事を言いながら、皆さんのように優れた人間達の可能性を潰す碌でもない人々を社会から駆逐する事。自らの人生を自ら創造する強い意志を持った起業家を増やすこと、そして成功させること、これが私の夢であり、恩返しなのです」

「皆さんに、皆さんの先輩を何人か紹介しましょう」

 スクリーンに名前、顔写真、事業規模、事業内容、年収、経歴などが書かれたスライドが映された。板東先生がペットボトルの水を口にしながら、1人1人紹介し始めた。

 凄い人達ばかりだった。

年商100億の会社を運営する50代前半の男性。
ドバイのタワーマンションで暮らしながらコンサルタントをやっている30代の男性。
美容系の商社をやり成功した20代の女性。
年商500億超え、昨年東証マザーズに会社を上場させた40代の男性経営者。
テレビに出たこともある有名ダイエットトレーナーの女性。
などなど。 

 全員年収億超え、それも売り上げではなく、サラリーマンで言うところ給与相当額で億超え。全員、世間の無理解や妨害に立ち向かいながら、今の成功を、地位を手にした。

 美容系の商社で成功した20代の女性は、家族から勘当されながらも我が道を突き進んだ。年収500億超えの男性は、学生時代の同級生達から妨害されながらも、挫けず大成功者になった。皆、苦難の道の果てに成功を勝ち取っている。
 背中が熱くなった。


27


 板東先生が講演台を離れ、壇上を移動し始めた。

「皆さん、実は彼等には共通点があります。何だか分かりますか?」 というと最前列の席の受講生に回答を求めた。「エンジェル投資家の支援を受けた」「自分を持ってる人」といった回答が出るが、「違います」と板東先生。 

 そして一通り会場を見渡した後で講演台に戻り、笑顔で答えた。

「正解は、彼等は全員、元社畜でした」

 というと次のスライドを映す。

 スライドには、社畜時代の彼等の写真や、簡単なプロフィールが書かれている。プロフィールを見る限り、皆、会社でメインストリートを歩んでいた訳では無く、社内で浮いた存在だったようだ。

 板東先生が説明を続ける。

「それだけではありません。彼等は元々資産どころか貯金すらも殆ど無いような状態でした。当時、私のコンサルフィーは月100万円です。まあ私の実力からすれば決して高くないのですが、社畜だった彼等にとっては法外な額です。でも、彼等は借金してでもお金は集めるから教えて欲しいと言って飛び込んできた人達なのです。……。私はこういう積極的な人が大好きです。私の師である高島会長もそうでしたが、一期一会、そのチャンスを必死で掴みに来る人を見捨てる事が出来ない性分なのです」

 というと、少し早めに壇上正面に移動し、再び会場を見渡し、続いて右手の平を前方に差し伸べると真剣な表情を作り、数十秒の間を置いてから静かに語り出した。

「一期一会。……。そう彼等は貴重な出会いを大事にしたからこそ、大成功者への道を歩むことが出来たのです。……。何が何でも私との出会いを活かそうとした。でも、多くの人が小さな一歩を踏み出せない。踏み出せずまま、負け組として、社畜として支配され搾取され続ける人生を送る」

「こういう下らない生涯を送るような人達は言い訳だけは達人です。ひたすら言い訳に終始し、皆さんみたいに一歩踏み出そうとしている挑戦者の邪魔をする」

 板東先生が急に叱咤するような口調になった。

「皆さんはそんな下らない生涯を送りたいですか? 何のために生きているのですか? 言い訳の達人達が作り上げた常識やら何やらに縛られる人生を送るためですか? そんな人よりも、あなたの方が優秀ではありませんか。そんな人よりも、あなたの方が人生真面目に考えていませんか。そんな人よりも、あなたの方が挑戦していませんか。どうして、あなたよりも低レベルな人達に支配されなければいけないのですか? おかしくないですか? たまたま早く生まれただけの人に何であなたの人生左右されなければいけないのですか?」

「さあ、今」というと、左の列、真ん中の列、右の列の順で手を差し伸べ、最後に左から右へ会場全体をすくうように手を移動させる。
「皆さんの前には2つの選択肢があります」
 今度は右手の人差し指と中指で2本を作る。そして中指を折り曲げて1本にする。

「1つは、起業家として自らの手で自らの人生の創造者となるか。1つは、今のまま支配され搾取され続ける人生を続けるか……」

 ゆっくり会場を見渡しながら、突然笑顔になった。

「まだ、決断しなくて結構です」

 板東先生は笑顔のまま、「あと30分だけお付き合い下さい。皆さんにとっておきのプレゼントがあります。でも強制ではないですよ。一期一会などどうでも良いという方は、この後の休憩時間で帰って頂いて結構です。ただ、休憩前に一言だけ」 というと、再び真剣な表情を作り随分と長い間を取った。

「私は一期一会という言葉が大好きです。皆さんは幸運にも板東という天才に出会ってしまった。もう、それ自体が一つの運命なのです。皆さんは板東がセミナーをやるという情報を人から教わったのか、自分から見つけたのかは別にして、手に入れて、そして今日、私と出会ってしまったのです。さあ、皆さんこの出会いをどう理解しますか?」

 そして、一際強い口調になる。

「あなたは今人生の岐路に立っています。その事だけは頭に入れた上で、今会場を後にするか、それともあと30分だけ私の話を聞くか決めて下さい。小さな小さな決断です」

 というと、再び急に笑顔になり、「是非、休憩時間中に考えてみて下さい」と締めた。が、すぐに「あっ、そうそう、既に次の30分もお付き合いして頂ける方、今手を挙げてくれますか」と会場に聞く。

 すると、会場の3/4くらいの人達の手が上がる。

「分かりました。ありがとうございます。すごく嬉しいです。手を挙げるというほんの小さな小さな決断ですが、こういう小さな決断の積み重ねの先に成功が待っているのです。今手を挙げた貴方は既に人よりも一歩進んだのです。素晴らしいことです。今日は良い気分です。いつもよりも少しだけサービスしたいと思います。今手を挙げられなかった方、もし気が変わったら是非残って下さい」

「あっ、一応申し上げておきますが、来年は同じような形でセミナーを開催するかどうかは分かりませんよ。既に成功している生徒の支援で結構忙しくなっておりまして、こういう一般の方向けのセミナーは最後にしようかどうか検討しているくらいなのです。ですから、来年にしようかなと思っている方、絶対に残った方が良いですよ」 と言うと時計を見て、「では、小休憩に入りましょう」と残して、笑顔で前方の扉から外へ出て行った。1時間目の終わりよりも大きい拍手に包まれて……。


28

 15分の小休憩を終えると、司会の安西さんが仕切る形でセミナーが再開した。

 最初に、「板東塾のご案内」と書かれた資料が配られた。資料を配り終えると、司会の安西さんにより、塾概要について説明が始まった。説明はあっさり終わり、続いて質疑応答に移る。ちなみに私は入塾を決めている。塾費の150万円の調達目処も立っている状態だ。

 普通、こういうセミナーで、質問に手を挙げる人は多くない。だが、ざっと見回しただけでも15名~20名は手を挙げている。一番手を挙げるのが早かったという理由で、前の席の男性にマイクが渡され質問を始めた。分割払が可能かどうかという質問だった。資料に分割払は可と書いてあるし、リボ払い可と書いてあるのだから、よく読めという話だ。

 でも、板東先生は丁寧に答えた。

 次に、塾に入れば必ず成功するかどうか、という質問だった。バカみたいな質問だ。世の中に必ずなんてあるはずが無い。努力次第だろ。でも、板東先生は丁寧に答えた。さらに指導した塾生の約50%が売り上げではなく年収で1000万円を超えたと説明を付け足した。にも関わらず、次の質問者が、起業すれば会社の給与以上は稼げると考えて良いですか、と質問した。

 他にも、先生に気に入られるにはどうしたら良いですか、だの、今日初めて会うのに、私は成功出来そうですか、と聞く奴、さらには会社を中々辞められないのですがどうすれば良いですか、といった「知らねえよ」と吐き捨てたくなるような質問をする奴……。

 正直、この程度の奴らがライバルなら、私だったら余裕で成功者の仲間入りが出来そうだなと思った。

 下らない質問時間が過ぎると、再び板東先生がマイクを持ち壇上中央に立った。

「今日は、本当に素晴らしい日でした。一体、今世界中で、こんなに密度の濃い時間を過ごしている人達は何人居るでしょうか。よくチャンスの女神という言い方がありますね。女神というと他人のような気がしますけど、実は女神はあなた自身の心の中に居るのです」

 マイクを持たない右手で会場全体を撫でる。

「恐らく、今この会場に居る人達の半分くらいでしょうか、セミナーの途中で『起業したい』もしくは『起業する』という心の声が聞こえてきかと思います。それがチャンスの女神の声です。私がその女神を皆さんの前に召喚しました」

「でも、その女神は、一瞬しか姿を現しません。普段の社畜生活に戻れば、その女神は姿を消してしまう。常識という檻の中に閉じ込められてしまう。そして、数々の妨害勢力、妨害者により、心の奥底に封じ込められてしまうのです」

「もう一度言います。あなたは今人生の岐路に立っています。チャンスの女神の声に素直に耳を傾けるか、それとも聞き流してしまうか、これであなたの人生は決まってしまうのです」

「さあ、どうしますか? 決断の瞬間です」 というと笑顔を作る。「それでは、これで今日のセミナーは終了にしたいと思います。ご静聴ありがとうございました」

 会場が大きな拍手に包まれる。指笛を鳴らしてる受講生までいた。


29

 拍手が鳴り止むと、司会の安西さんが壇上にやってきて仮申込書について説明をする。と同時に、スタッフ数人が各列に仮申込書を配り始めた。仮申込書の注意書きを読むと記入してから2週間以内に本申し込みをする決まりとなっている。キャンセルの場合は、仮申し込み費用は返却されないと注意書きがある。仮申し込み費用は1万円とある。

 すぐに記入し始めた。もう入塾は決めている。記入を終え、後方にある受付を見ると、既に申し込みの列が出来ていた。私も荷物をまとめ、仮申し込みの列に並んだ。

 段々、自分の番が近づいてくる。こんなに興奮したことがあっただろうか。体が熱くなっている。申し込み書を持つ右手が震えている。でも緊張とは違う、いや緊張なのかもしれないが、ネガティブな緊張ではない。学生時代に始めて恋人宅に泊まる日、インターフォンを押す時に、そういえばこんな風に人差し指が震えていたことを思い出す。

 今日の震えもそんな感じかもしれない。自分の中で何かが大きく動き始めている、女神が姿を現し、自ら今まで拠って立っていた場所に地殻変動が起きている、その変動を右手の指先が震えとして感知しているのだろう。この震えをポジティブに捉える事が出来る自分に感謝した。

 こんなにも希望に満ちた日が、今まであっただろうか。

 あと3人で自分の番が来る。

 私は仮申し込み書に不備がないか確認する。仮申し込み書の注意書きに、{紹介状をお持ちの方は一緒にご提出下さい}と書かれているのを見つけた。「そうだ戸田の紹介状だ」と思い、鞄の中に手を突っ込み、戸田の紹介状を取り出す。3つ折りになっていた戸田の紹介状を広げて仮申し込み書の上に重ねた。が、もう一度3つ折りに戻し、仮申し込み書の上に重ね直した。

 続けて「どうぞ次の方」というスタッフさんの声で、3つある受付の一番右側の席へ座った。仮申し込み書を提出し、続いて戸田の紹介状をやっぱり広げて提出した。

「紹介状をお持ちの方ですね」
「はい」

 板東先生が小走りで近づいてきた。スタッフが紹介状を見せると、板東先生が「あ~戸田君の紹介ですか」と発する。私が「はい」と答えると、戸田との関係性を聞かれたので説明した。専門学校時代からの友人であること、さらに戸田の出版キャンペーンに協力した事などなど。

 受付の向こうに居るスタッフがもスピードでパソコンのキーボードを打ち始め、パソコンの画面を板東先生に見せる。

「これはこれは、戸部君のキャンペーンに協力して頂いたのですね。いや~、もう戸部君はね本当に努力屋さんでね……」

 パソコンを持ったスタッフが「先生、戸部ではなくて戸田です」と指摘する。「あ~、そうだったそうだった、戸田君でしたね」と修正すると再び戸田を誉め始めた。
 そして突然手を叩き、「あっそうだ」と私の顔を見ると、「戸部君の紹介じゃ、もっと割引しないと申し訳ないですね」と言って、受付の後ろに移動して電卓を叩き始めた。

「川尻さん。それじゃあ、今日は大負けしましょう。板東割りも追加して、200万円の所を120万円にしましょう」

 受付に並ぶ受講生達の歓声が上がる。誰かが「先生僕たちも板東割り欲しいです」と言うと、板東先生が笑いながら腕を組む。
 しばらく考える素振りを見せた後で手を叩いた。

「じゃあ、皆さん、今日は凄く良い気分なので、全員に板東割を追加します」
 オーという歓声が上がる。
「ただし、条件があります。今日、本申し込みを約束して頂けるならば、200万円の所を150万円に割り引きいたしましょう。無条件です。これは全員です」
 先生への感謝の声があちこちから発せられ、その中に「川尻さんのお陰です」という声が混じっていた。


30

 幸せな1日だった。受講生の喝采を浴びセミナー会場を後にすると新宿駅構内を通り過ぎ明治通りを南下していった。なぜか歩きたかった。恐らくこの幸せな気分をもう少し味わいたかったのだと思う。

 もう私の腹は決まった。もちろん、独立は決まっていたのだが、何だかんだ言っても会社や麻子に多少の遠慮はあった。忖度と言っても良いかもしれない。特に麻子は親が起業に失敗している事もあって、起業に対してネガティブな印象を持っている。

 この前、差し出がましい口を利いてきたのも、そういう理由だろう。ポイントはどう説得するかだ。下手をすると断固反対してくる危険性がある。歩く途中で色々と策を考えるのだが、折角の幸せな気分が損なわれるのが嫌になり、後で考える事にした。

 私は、そのまま渋谷駅まで歩いた。

 渋谷駅から電車に乗る。電車内も幸せだった。スグ後ろのカップルが電車内にも拘わらずイチャイチャしている。いつもだったら、何かしらの圧をかけて公共の場にふさわしい振る舞いへ促さずには居られないのだが、今日は何だか微笑ましい。むしろ、カップルに舌打ちを飛ばしたり、電車の揺れを利用してわざと鞄を当てようとしている背広を着たじじいを睨み付け牽制していた。

 自宅に着き、玄関の扉を開けたが、麻子も雄大も家には居るが出てくる様子がない。廊下とリビングを仕切るガラス扉から中を覗くと、麻子が電話を耳に当てながら、慌ただしそうにしている。雄大が麻子の上着の裾を掴みながら、心配そうに顔を覗き込んでいる。

 それまで、弾むような幸せな気分だったが、一気に引いてしまった。玄関脇の自分の部屋に入り、椅子の上にバッグを置き、冬用のアウターをクローゼットのハンガーに掛け、上下家着に変えて洗面所へ移動する。

 まだ、麻子も雄大も私の帰宅に気付いていない。

 洗面所で顔を洗い、手を洗い、足を洗い、靴下、タオルを洗濯かごにぶち込む。部屋に戻るが、まだ麻子も雄大も私の帰宅に気付かない。仕方なく、自分からリビングへ移動し、「ただいま」と声を掛ける。麻子が、電話をしたまま、チラっとだけ私の方を向き、「あ~お帰り」と、事務的な一言だけを発したが、また電話の向こうの人との会話に戻った。雄大は麻子の横顔を見つめたっきり、私には目もくれない。仕方なく、玄関脇の自分の部屋に戻った。

 しばらくすると、麻子が部屋に来た。

 扉を開けるなり、「ねえ、雄輔……」と心配そうな声での会話の入り。話を聞くと、義父(麻子の父)が膝の調子が悪いらしく、明日様子を見に行ってくると話している。どうやら1週間前くらいの仕事中に痛めたらしいのだが、大したこと無いだろうと放っておいたら、今日になって立っているのも辛いくらいの痛みになってしまったそうだ。

 さりげなく起業に触れるが、「えっ今!」という驚きのリアクションに続き、「よく考えてね。あなた1人で済む話じゃないんだからね」と強い口調で言われた。私は「もちろん、ちゃんと相談するよ」と答えたが、よりによって義父の話題の最中に話したのはまずかった。

 何しろ義父は独立して痛い目に遭った人で折角独立して自由になったのに社畜返り。その際、背負った借金が未だに残っており、その返済の為に定年退職後も古巣の仕事に警備員の仕事をしているような人なのだ。
 こういう事情もあるので、麻子が起業というワードにピリつくのも仕方が無い。腹は決まったが、時間を掛けて説得するとしよう。

 折角の幸せな気分も、すっかり冷めてしまった。本棚から板東先生の本を手に取る。既に3回は読んでいるのだが、また最初から読み直すことにした。

 読み直し始めてしばらくすると、
{今、私の本を読んでいる時点で、あなたは選ばれた人間なのです}
{一番手強い妨害者は身近に居り、あなたに散々依存している癖に、まるであなたと対等の人間かのような態度を取ります}
{妨害者と対等に接してはいけません。彼等と対等に接しようとするから問題が起こるのです}
{選ばれた人間がやるべき事は説得ではありません。指導です}
 という文章に目が止まった。

 机の引き出しから赤の蛍光ペンを取り出し、太い方のペン先で線を引いた。


31

 通称「掃き溜め」に配属後も、しばらくはリラクゼーション事業部のヘルプに駆り出される日々が続いた。
 正直、同期の中でも最速で出世し、トップの成績を上げてきたプライドもあり、無能なマネージャーの下で働くのは本当に嫌だった。だからこそ先月は意地でも断っていたのだが、板東先生のセミナーを受けて以後そんなプライドなどどうでも良くなり、そもそも会社の評価に依存していた自分が情けないと思うようになった事もあり、普通にヘルプに応じることにした。
 事態は深刻で、リラクゼーション事業部の乗っ取りを企むアホ専務が独断専行を繰り返したせいで極度の人手不足状態になってしまい、急ぎ派遣やパートを雇い入れては2週間程度の研修を施し店舗に補充しているものの全く追いつかない状態が続いている。酷い時は週6日ヘルプという、一体どの辺がヘルプなのか分からない、事業部本体のスタッフよりも働かされる日々が続いた。

 山田さんは私に原因があるような言い方をしたが、改めて考えてみたが私が間違ってるとは思えない。駄目なスタッフに合わせてビジネスモデルなど組んでいたら、いずれ競争に破れ淘汰される。素人が2週間の研修で身につけたスキルなど、お客さんに提供できるレベルでは無い。そんな事も分からない連中が経営を牛耳っているのだから、片岡メディカルが駄目になるのも時間の問題だろう。
 大体、その仕組みを考えるのが経営という事ではないのか? だとしたら、本当は私のような人間達を軸にして改革するべきじゃないのか? 親の愛情であのドチンピラのアホを専務に就けるような会社に未来があるとは思えない。加えて、外資系コンサル出身だか何だか知らないが、四角四面で血の通わない経営論を振り回している肩書きエリートの社長こそが混乱に拍車を掛けているのではないか。

 まあ、良い。

 もはや愛社精神など無い。片岡メディカルがこの先傾こうが潰れようが私の知った事では無い。もう起業する。間違いなく1年後には起業家になっているのだから、こんなクソ会社などどうでも良い。

 3月はさらに酷かった。
 大井町院に出勤したのは数日。他は全てアホ専務の横暴の尻拭いだ。14日連続でヘルプが続いた時は流石に驚いた。ブラック労働もブラック労働だ。
 3月下旬になり、やっと混乱が収まりヘルプの回数も減り、3月末にやっと本部から「これで一段落だ」というお達し。ただし、一段落といっても、数店舗が閉鎖に追い込まれたのだから、プラスの意味では無い。
 ヘルプの締めは立川店だった。立川店は常に売り上げトップ10に入るような店舗で、渋谷店のマネージャーだった時、個人的にライバル視していた店舗でもある。

 お手並み拝見のつもりで伺ったのだが酷いものだった。単に立地が良いだけ。店舗マネージャーもクソだし、やる気も無い。技術面も接客面も見習うような点は無し。何より、スタッフに覇気が無い。学習意欲が無い。
 私がマネージャーをしていた店舗では、時間があればスタッフ同士で技術トレーニングをやらせていたし、接客の練習させもさせていた。立川店のスタッフは暇になるとゲームを始める。スタッフ同士で私語。お客さんが入口で迷っているのにスグに案内に出る奴も居ない。 結局、皆こんなもの。本気で仕事などしていないのだ。

 ヘルプ帰りの電車内。途中の駅で少年サッカーチームの一団が乗ってきた。しばらくすると、1人の少年が別の少年を責め始めた。責める側の少年は胸の辺りに10とあるジャージを着ている。一方責められる側の少年は3のジャージを着ている。
 どうやら試合には圧勝したみたいだが、3番の少年に問題があったみたいだ。10番の少年が「もっと強い相手だったらやられてるぞ」と3番の少年を責めている。3番の選手が言い訳する。言い訳した3番の選手に対して10番の少年が詰める。

 すると周囲の少年達が「勝ったんだからいいだろ」と10番の少年を抑えに入った。そのまま、10番の少年は奥の方へと追いやられてしまい、責められていた3番の少年を他の少年達が囲み慰める。14番の少年が、10番の少年に「お前性格悪いんだよ」と攻撃する。プレイの質とは全く関係無い攻撃だ。

 仲間はずれにされた10番の少年は、コーチに意見し始めた。コーチは頷きながらも、「お前の気持ちは分かるけどな」と宥めている。10番の少年が「K君みたいなやる気の無い選手はレギュラーから外すべきだ」と主張すると、コーチが少しだけ強い口調になり「チームメイトに対して何てこと言うんだ」と注意し始めた。  
 だが、10番の少年が憮然とした顔を浮かべると、コーチが口調を改め「もっと練習しような」と慰め、その後は10番の少年とコーチとで何やら戦術の話をし始めた。K君とは恐らく3番の選手の事だろう。10番の少年の主張を聞いた14番の少年が「あいつマジうぜえ。調子乗ってんじゃねえよ」とわざと聞こえるように言う。

 恐らくここで決まってしまうのだろう。
 10番の少年と、それ以外の少年との意識の差は、サッカーに限らず人生においても大きな違いを生む。10番の少年はチームを変えた方が良い。こんな所に居たら、君までダメになってしまう。

 途中の駅でサッカー少年達が降車した。
 ホームを見ると、少年達の輪からポツンと1人だけ外れた10番の少年がボールネットに入ったサッカーボールをリフティングしながらホームを移動していた。体格を見る限り、恐らく小学生5年生~6年生くらいだろうか。

 人間ここで決まってしまうのだ。
 電車がホームを出て住宅街を抜けてゆく。急に胸の辺りがザワザワし出した。やっぱりこんな所に居たら駄目だ。片岡メディカルで上手くやるということは、妥協に妥協を重ねるという事。

 急ごう。急がないとヤバイ。

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全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

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