【古き良きバンコク】ペッブリー通りのイサーン料理屋台群
近年のバンコク在住日本人同士の外食は和食店で、というのが当たり前になっている。ボクが移住したばかりの2002年、あるいはタイ語学校に通っていた2000年当時は、バンコクの和食店は物価からしても高すぎて、日系企業駐在員が行くところだった。元からの金持ちを除いては、自由に暮らしている人や現地採用者が簡単に行ける場所ではなかった。そんなボクらが利用していたのはイサーン料理(タイ東北部料理)の屋台だった。
当時は日本人同士であっても飲み会だとか外で食事というと、普通に屋台に向かっていたものだ。贅沢をするときでせいぜいタイスキのMKか中華料理くらいか。中華といっても家庭料理系の安い店だ。和食に行くということがまず頭になかった。
和食が今ほどどこにでもある店ではなかったのもある。スクムビット通りのフジスーパー周辺なら当時からあったが、それ以外はタニヤくらいにしかなかった。チェーンのフジレストランは当時からあったが、そこは飲みに行く場所でもなかったし、今ほどおいしくもなかったというのもあって、タイ人が行く店という感じだった。
屋台の中ではイサーン料理が最も行くジャンルだ。まあ、狭義のタイ料理はすなわち中央部料理だが、そっちの屋台の方が少なかったというのもある。イサーン料理はビールにも合うし、メニューも案外に豊富だったし、今でも屋台に行くとすると自然、イサーン料理に向かうだろう。
ペッブリー通りのアパートに住んでいたこともあって、友人らと行くイサーン料理屋台はワールドトレードセンター(現セントラル・ワールド)とセンセーブ運河の橋の間にあった屋台群。もしくは、ペッブリー通りの屋台だった。
BTSラーチャテーウィー駅を降り、ペッブリー通りの交差点を左に行くと何軒もイサーン料理屋台があった。今はほとんどない。今も残り、当時も中心だったのがジェーゴイという店だ。今はここは屋内の食堂になってしまったが、あのころは中に席はなかったはず。歩道に並べられた表のテーブル席が基本だった。そして当時はほかにも何軒も似たような店が大小あって、ちょっとした屋台群を成していた。通り沿いにたくさんのテーブルを並べ、毎晩祭りのようだったなあ。
あのころはタイ政府の屋台に対する風当たりも強くなくて、辺りは本当に賑やかで楽しかった。店員とも顔見知りになって話をしたり、友人と行ったり、ボクはまだ入籍前の妻と一緒に行ったりもした。
店も夜遅くまでやっていた。たぶん、深夜0時くらいまではやっていたはず。さすがにこの辺りは朝までやっている店は少なかったけれど、それでも遅くまでやっていて、座席数も多かったから待たないで入れてよかった。
いつからだろうな、和食を食べるようになったのは。憶えているのは、2003年前後にちょこちょこと行くようになった。それもわざわざトンロー通りソイ13にある日本村まで行ったはず。魚むらだか魚まさという店に行って、みんなでうなぎの棒寿司に感動したりして。
その後2005年前後になって杉森さんって方がやっている「田舎っぺ」という安い店が出てきて、そこで安く日本酒が飲めるようになった。それから、スクムビット通りに「寅次郎」という日本のチェーン店風の居酒屋ができて。ここも大きかったな、食生活が変化する要因としては。このころから現地採用でも和食に行けるようになってきた。
そして、2010年ごろからの和食ブームで、タイ人の食生活も変わったし。携帯電話、そしてスマートフォンもそうだけど、なかったらなかったで普通に生活で来たんだけどな。知ってしまったらもう戻れないというか。あのころ、ボクらは飲み会をしてどんな話をしてたんだろうな。
今もそういう飲み方は嫌いではない。けれども、今は必ずしもみんながタイ料理を食べられるわけでもない。かつて現地採用で働くにはタイ語必須が当たり前だったくらいで、しかも和食店に行けるほどの給料でもなかったから、タイ料理で暮らすことが前提だった。だから、タイ料理が食べられないというのは致命的だったけれど、今はそんなことは関係ない。
シンハビールで始めて、ヌアヤーン、ソムタム、香草を口に突っ込み塩を全体につけて丸焼きした雷魚、たまにチムチュム。そういったものを注文して、ビールに飽きてきたらタイ・ウィスキーと呼ばれるセンソンをソーダとコーラで割って。話していると店員の女の子だとか、花売りの子どもたちが割って入ってくるんだ。屋台はトイレが難儀。店によっては2分くらい歩いた先にトイレという名の電柱があったり。当時は雨は決まった時間に降るから、雨期でも普通に食事できたけれど、ときどき予想が外れて帰れなくなったり。
屋台に行くってだけで、あのころはあんなにも楽しかった。ボクの中の古き良きバンコクだな。