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日本製蒸気機関車の運転台に座ることができるタイ国鉄の機関区

 タイと日本は修好条約が結ばれて100年以上が経過している。東南アジアの国々の中でもタイは日本と長い友好的な関係があり、両国において双方の文化が入り込んでいる。たとえば地鶏の「軍鶏」はシャモと読むが、これは元々タイの闘鶏が日本に入り、かつてのタイの国名「サイアム」が訛ったものだとされる。一方タイには昔の日本の工業製品がいまだに残っている。戦時中の軍艦や航空機もあるし、タイ国鉄が今も所有する蒸気機関車もそのひとつである。しかも、日本ならイベント時でも間近にすることがなかなか難しい日本製蒸気機関車が、タイならいつでもゼロ距離にまで近づくことができる。そんな機関車が置いてあるタイ国鉄の車両整備工場に行ってみた。

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 日本は鉄道が異様なまでに発達した国だ。都会は電車で通勤し、基本的には経済活動も電車の運航時間に合わせているようなものだ。しかし、これは外国からすると特殊な部類に入る。

 もちろん、タイにも鉄道がある。しかし、タイの鉄道網は現在もあまり発達していない。バンコクには電車も地下鉄も走り、延伸工事がどんどんと進んでいるものの、それでも線路の敷設距離はまだ路線バス網には敵わない。特にタイ国鉄の敷設距離で言えば、1897年の開通以来、大して延伸されていないほどだ。

 タイ国鉄が2018年にまとめた冊子「Rodfai Samphan Vol4 2018」によれば、2018年時点で総延長距離は4,044キロと公表されている。JRの総延長距離は約2.7万キロらしく、タイ国鉄の規模が大したものではないことがわかる。

 これほどまでタイ国鉄が発展していないのは、全土に線路が敷かれているわけではないので不便であり、また乗車賃が安く、かつ利用者が少ないために赤字が続くという悪循環がある。先の総距離のうち、現時点で複線化されているのがわずか6%程度だ。つまり、約250キロ程度のエリア以外は単線なので、列車同士が行き違うことができない。

 速く走ることすら困難、というか、走る必要もないような状態で、いまだに戦前の運行システムであるタブレット閉塞方式が採用されている部分が多い。これはタブレットと呼ばれる、輪っかに入った金属製の札を駅と駅の間で渡し合って正面衝突を避けるという、今では原始的な運行方法だ。日本だと同じような方式はどんどん廃止されていて、今は日本国内にわずか2ヶ所しかないという。

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 まず、そもそもタイの鉄道が重宝されたのは近隣諸国が次々と植民地化された近代のころ、そして第2次世界大戦の戦中戦後だけだ。そのため、鉄道が発達せず、自動車の方が普及してしまった。タイの鉄道はタイの植民地化を狙う英国やフランスとの交渉の際に譲歩案として使われた。そして、戦後は日本の食糧難を救済するために活躍したのだ。

 タイは第2次世界大戦、あるいは太平洋戦争の終戦日である8月15日まで日本と同盟国であった。しかし、外交力のあったタイは日本と組みつつ、裏では連合国側と繋がっていた。終戦当日、日本側から降伏をすることを聞くやいなやタイ政府は同盟は無効だったことを主張し、うまい具合に連合国側に入ったという経緯がある。

 このとき、英国などはタイの連合国側入りを猛反対したという。しかし、日本を独占的に占領したいアメリカが後押しした。なぜなら、アメリカは戦後に日本国内が食糧難で大混乱になることを見越していたためだ。今も世界的に見て大きな米の生産地でもあるタイが、日本の食糧難を乗り切るために必要だとアメリカは判断したのだ。

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 柿崎一郎著「王国の鉄路 タイ鉄道の歴史」によれば戦時中に日本軍がタイ国内に持ち込んだ111両の蒸気機関車をアメリカが接収し、その一部がタイ国鉄に引き渡された。同時に、タイ政府から1948年と1950年に50両ずつの蒸気機関車が日本に発注され、タイに納入された。

 しかし、戦後の厳しい状況下にあったのはタイも同じだ。タイ政府に100両を超える蒸気機関車と、それ以上の貨車を購入する金などどこにもない。そこでタイ政府は食糧難解決のために日本にタイ米を納入する代わりに、蒸気機関車と送るようにした。要するに、米と機関車の物々交換が行われたのだ。そうして日本人の手で造られた蒸気機関車が主にタイの東北地方の農村からバンコクまで米を運び、日本へと輸出された。

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 元々、タイの鉄道は英国の技術を参考にしたとされる。敷設エリアやシステムなどの導入は困難を極め、タイ国鉄の前身である鉄道局の初代局長はタイ人ではなく、同じく鉄道が強かったドイツ人になった。実際にドイツ製の機関車も多数導入され、今でも地方の国鉄駅に展示されている。

 鉄道関係者や愛好家たちは展示している機関車などの呼び方がある。完全に展示物として保存している場合は「静態保存」と呼び、可動状態で管理・保存する場合は「動態保存」という。

 時代と共に蒸気機関車からディーゼル機関車にタイも移り変わり、蒸気機関車は使われなくなった。そして、国鉄の多くの駅に蒸気機関車は静態保存で展示される。一方、動態保存もわずかながら存在する。その動態保存の車両はすべて日本製になる。

 とはいえ、残っているのはわずか5両しかない。アメリカ式の蒸気機関車が元になっている型式のパシフィック型が2両、ミカド型という車両1両、C56型が2両だ。

 そんな日本製の蒸気機関車が置いてあるのは、整備工場、すなわち機関区と呼ばれる場所で、チャオプラヤ河に近いトンブリー機関区にある。タイ最高峰の寺院であるエメラルド寺院(ワット・プラケオ)、涅槃像のワット・ポーの前を流れるチャオプラヤ河を渡ったシリラート病院そばにある。

 映画「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリ県に向かう列車が発着するトンブリ駅に隣接する機関区で、下記のマップではトンブリー駅とアルン・アマリン橋の間、ちょうど生鮮食品マーケットの上の辺りだ。

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 冒頭の画像2枚がC56型だ。また車内が黄色い運転台も同じ車両である。そして、上記がミカドになる。ミカド型は動態保存とは言うが、今はほとんど走っていないため、もしかしたらもう動かないかもしれない。

 このトンブリ機関区は本来は立ち入り禁止だ。しかし、管理が緩く、その辺りにいる国鉄職員に「入っていい?」と聞くと、大体OKが出る。ただ、油もすごいし、現役の車両が進入してくるので、事故に遭っても誰も責任は取ってくれないので要注意だ。

 このあたりの管理は旧態依然としたタイ国鉄らしいと言えばそうだし、そろそろ厳しくなりそうなので、行けるとしたら今しかないだろう。実際、ほかの機関区はほとんど立ち入りができない状態になっているらしいので。

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 この画像はパシフィック型である。これも日本製だ。車両のプレートを見ると、1948年に発注され1949年に完成した車両のようである。

 現在、動態保存の車両のうち、このパシフィック型が実際にタイ国内を走っている。タイ国鉄がタイの特別な日には蒸気機関車を走らせるイベントを開催するからだ。今は年6回ほど走っていて、タイ国鉄の日(3/26)、王妃誕生日(6/3)、国王誕生日(7/28)、母の日(8/12)、チュラロンコン大王記念日(10/23)、父の日(12/5)に走る(2020年はこういった状況なので例外)。行き先はイベントによって違うが、タイ国鉄の中央駅であるバンコク駅、通称ホアランポーン駅から古都のアユタヤやナコンパトム、チャチェンサオ方面へと走る。

 イベントの1ヶ月くらい前からタイ国鉄の公式サイトでチケットが販売される。切符代もかなり高い。とはいえ、それはあくまでも通常時の運賃と比較すると、だ。

 たとえば、2019年7月28日のアユタヤ行き記念特別列車は1500バーツ(約5200円)だった。通常の運行ではアユタヤまで片道で66バーツ(約230円)だから、食事付き、往復とはいえ実に10倍以上もする。それでも徐々に人気が高まっていて、連結する客車も増え、かつ満員御礼となっている。

 このイベントはパシフィック型が客車を引く。C56もときどきイベントに参加するが、最近は年に1回、カンチャナブリ県のイベントで現地を走行する。2019年は11月23日から12月2日に、クウェー川鉄橋のショーにおける、日本軍絡みのシーンで使われたようだ。

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 イベントがない間はトンブリー機関区に置かれ、職員の許可を得られればこのように運転台に上がって見ることができる。また、イベントのときも、駅にいる間に頼めば中に入らせてもらえる。そのときは機関も稼働しているので、運転台の熱気も体感できる。

 ちなみに、パシフィック型と呼ばれるのはアメリカ式車輪配置であるためだ。車輪配置とは蒸気の力を伝える動力車輪や補助輪の配置や数のことを指す。

 蒸気機関車で有名なのは「デゴイチ(あるいはデコイチ)」と呼ばれる機関車だ。これはD51型のことだ。Dは動輪が4つあることを表している。A、B、C、Dと数える。ということは、先のC56型はC型なので動輪が3つということになる。パシフィック型はその数え方がアメリカ式というわけだ。

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 パシフィック型がイベントに使われ、C56はあまり出てこないのは、パシフィック型は機関が改造され、重油で走るためだ。C56は昔ながらの木炭なので、パワーがない。

 いずれにしても、タイの蒸気機関車は今大きな問題に直面している。というのは、蒸気機関車は日本でさえも希少な存在であることはわかるだろう。生産国の日本でさえ部品が入手困難なのだ。タイではもっと部品が手に入りにくい。

 さらに、もう蒸気機関車が製造されなくなって久しい。日本国内にすでに部品を造る技術が消えつつある。戦前戦後にあった部品会社はもうなくなっているか、残っていたとしても製造していない。技術者だってすでに高齢か亡くなっている。もうほしくても手に入らないのだ。

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 パシフィック型は当初は石炭燃料だった機関を重油燃料タイプにタイ国鉄が変えた。そういった改造の技術はあるにはあるが、さすがに半世紀以上前の蒸気機関車主要部品を造るまでにはタイの製造業界は育っていない。

 そうなると、現状はすでにあるものでなんとか動かしている状態である。それを支え、守り続けているのはタイ国鉄の技術者たちだ。そして、タイの仏教徒が自然にそうするように、今、タイ国内に残る蒸気機関車を守りたいという大学生を中心にしたボランティアたちが集まってきて、彼らが蒸気機関車の維持をバックアップしている。

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 イベントの前には朝から晩まで蒸気機関車の部品を磨き、美しい状態に仕上げている。しかも、タイ国鉄側はイベントの日には彼らに特別に関係者席を用意しているそうだが、ボランティアたちは自分たちで切符を買って乗車しているという。日本製の蒸気機関車をタイ人たちが今、必死で守り抜いていこうと奮闘しているのだ。


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