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●自己愛について「改心の理 2」

自己愛を正す為には、自己愛が如何に醜く愚かであるかを徹底的に思い知る事が大切になります。
そして、自らが醜い自愛の精神から決別する決心をする事なのです。
また、自己愛の精神の者は、自らが自覚が無い為に知らぬうちに自愛の精神に囚われ浸っているものであります。
その為に、多くの方々に自愛の精神について理解して気が付いて頂く為に詳細にお伝え致します。

※自愛と自己愛が異なるという人も居ますが、一般的に自愛とは、他者から 思いやる言葉として使われ「自分を大切にする事」の意味に思われておりますが、自愛とは、身体を維持する為の体欲からの自分に向いている愛の事であり、自己を愛する自己愛と同じ事なのです。

このように「自分を大切にする事」の意味で「ご自愛ください」 などは使われない方が良く、「お体にお気を付けください」や「お大事にしてください」 などが適切な言葉なのです。

■自己愛の人の行為の例

  • 自らの知識や、私は知っているという事を他者に自慢げに知らしめる行為をする者。

  • 人より優れていると自負している事を他者に知らしめ、ひけらかす者。

  • 人に虚勢を張る、威張る者。

  • 人を見下し馬鹿にする者。

  • 人の気持ちを顧みず、我がままを押し通す者。

  • 人からの恩を、当たり前の如く思う者。

  • 自分の益になる事を思い考える者。

  • 「学力、地位、容姿、姿格好、財力など」を人に自慢したり格好付けようとする者。

  • 他者から自らの事を指摘されると、腹を立てる、言い訳する、言い逃れようとごまかす、人のせいにする者。

  • 人から自らを指摘されると、強く傷付き落ち込み、逃避や反発する者。

  • 人の気を引く為に、見た目に拘り、見た目を着飾り取繕い表す者。

  • 人の気を引く為に意識して、色気や甘えるしぐさ等の態度を表して愛嬌を振る舞う者。

  • 人目が気になり、人から良く見られたい、良く思われたいなどの見返りを期待しての下心ある親切などの行為をする者。

  • 偽りの愛想、優しさ思いやりなど心を着飾る者。

  • 「私がしてやった、助けた」などと自負して恩着せがましい事を言う者。

  • 自らに対する愛護する思いが強い者「自己愛護」

  • 自らの思いをとても大切に大事にして、自らの思いで心を満たす者。

  • 自らに対しての自己評価を高く持つ者。

  • 人の事を考えず、自らの我がままを人に出す自己本位(自己中心的)の人

  • 人の事や状況を考えず、自らの思いや考えに自信や自負を持ち、自らの考えを人に主張する。

  • 人の事を真心から思わない人、思えない人、考えない人、考えられない人

  • 自己本位(自己中心的)で、人の事はどうでもよい人

  • 自分の事だけでいっぱいで、人の事を考えられない人、考えたくない人

  • 自らの発言に対し、人の反応がとても気になる。           ※自らの考えや思いに自信や自負があるが、その考えを対外的に人に伝えると途端に自信を失い自らに対する人の視線や反応がとても気になる。

  • 自らが発言や意見する時に、人の顔色や反応を伺いながら自らの意見と人の意見が反するようであれば正しくとも直ぐに意見を変える事をする者。

※ これは、自らの思いを意見するも、自らの心に真の自信が無い為に、間違える事や、人から批判や非難される事を恐れる為に自己防衛をする為であります。

※ 見返りには、金品等の報酬の「物理的」な見返りと、人から良く見られたい、良く思われたいなどの人の関心を引いたり徳を期待した「心証的(心の益)」見返りがあります。

※ これらは他者に対して、自らに「関心や好意を抱いて欲しい、認めて欲しい、誇示したい」などを目的とした自愛の現れの行為の者であり、身だしなみを清潔に整える事とは異なります。



■人に対して良かれと思う善良な行為であっても、自らを「認められたい、褒められたい、感謝されたい」などの思いは少なからず潜在的に有しているものです。

これは軽度の自愛であり、この程度では問題は無いのですが、人から感謝され褒められ認めて欲しい事が目的の行為は、「我」から生ずる自らに対する愛、つまり「自愛から生ずる自らに益をもたらす偽の行為」なのです。

人から感謝される事を自らが求める必要は無く、恩を受けた人が感謝を抱き応えるものなのです。



■「我」に囚われた自愛の者は、これらのように自らを誇示し人に認められたい、または人と比較し優劣を付けるという行為は動物的な本能であり、このような人を動物身魂とも言います。

これらの人は、自愛に囚われる醜さや愚かさを理解し、真の神を知り、理を知り理解して真の信仰に目覚める事で、次第に自らの思想は自我を超えるようになります。

その我を超えた先にこそ真の愛があるのです。

それは何の益も見返りも存在せずに、心から育み生かし導き救う事が出来る真の力なのです。

これが大愛であり、愛善であり惟神の精神なのです。



■自分の事を他者に誇示したい、または認めて欲しい等の強い思いの根底にあるのは、心が弱く真の自信も信念も無く自分を擁護する為であります。

自分に囚われ、自らにすがり、自らを擁護する為に、虚勢を張り、自慢したりひけらかすなど、真の自分に対して必死に抵抗している行為であり、他者から見るとその行為はとても惨めで情けなく愚かな行為であると早く気が付く事なのです。

また、自愛の我の思いに囚われている間は、真の学びや進歩は得られないのです。

現状のありのままの自分が至らなくとも、素直に謙虚に認め受け入れる事で、そこから本当の学びと進歩が始まるのです。



■素直に正直にという意味を履き違えている方が居られますが、
素直に正直にとは、自分の思いに対して「我の思うまま」つまり「我がまま」にする事ではありません。

これは、例えば「自愛や悪しき心の者が、素直に正直に行動すると悪行」となるのです。

なので、先ずは心を善に正す事が必要となります。

その為に、他者からの自分に対する厳しい指摘や指導に対して「 素直に正直に謙虚 」に受け入れる事なのです。

そして、自らの行動や現れのみを修正するのではなく、その前の根本の心の思想(考えや思い)そのものを修正し高め磨く事が必要となるのです。

この他者から自らに指摘された事を認め受け入れる「素直さ正直さ謙虚さ」がとても重要となるのです。

そして、真の愛善の心を有する者は、心のままに「 素直に正直に謙虚 」に行動に表すことで「善行」となるのです。

※「善なる心の者が、素直に正直に行動すると善行」となるのです。

また、天界において善であっても、さらに上の天界では必ずしも善ではなくなるのです。

それは、今現在「正、善、愛」と思える事にも段階があるものであり、各自の御霊相応に変わるものと理解する事が大切です。



■真心や善が分からないという方が居られますが、
それは、今までその思想や思考が無かった為に、理解も想定も出来ずに分からないのです。

このような方は「真心や善」を求め続ける事で、次第におぼろげながら少しずつ理解が出来るようになってくるものです。

厳瑞


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