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表現者への判官びいきは、純粋な作品鑑賞の邪魔にならないか?という話

私の中だけのルールの1つに「判官びいきをしない」がある。

これは、自分が放っておくと判官びいきをしてしまう性格だから。(ここ重要)
ルールで縛っておかないと必要以上に「この人は善・向こうは悪」にしがちだからだ。
始めから「こいつが虐げられるのは理由があるからだ、向こうは悪くない」と逆方向に極端になりがちな人には、逆のルールを設けることを勧める。というか、してほしい。

知人の1人がやはり判官びいきな傾向があるようで、最近その傾向が強く出ていることにうざったさを感じてしまっている。

判官びいきの源は、正義感。

「判官びいき」という言葉そのものが、兄の為に働く義経が何故か兄に追われて死ぬエピソードからきている。実情を抜きにして義経を支持する前提は「兄・頼朝=絶対悪」。

ゆえに、私の価値判断の尺度として「正義」は入れないようにしている。といっても、先述の通り判官びいきしがち…つまり正義感は強めなので、例えば「巡り巡って自分のためとなるかどうか」のような別の尺度を重ねることでコントロールしようと心がけている。

例えば、似非医療から患者を守るために啓蒙を始めたお医者さん方や、荒廃する一方の学校教員の勤務実態を変えようとする方々には賛同する。これらも、いつかどこかで自分に返ってくるものだと思うものだ。

判官びいきは、判断の順序を誤らせる。

かの人はきっと、「正義」感が強いのだろう。

信じる正義を持つことが悪いわけではないし、ひとつの信念を曲げずに持ち続けることで生まれる推進力はハンパではない。

でもその分、判官びいきを戦略として用いる人間に簡単に踊らされるように思う。そして実際、当人はそういう踊らされ方をしているようにも見える。

実のところ、マイノリティ(本人)の戦略として、力を集める為に大衆の判官びいきを煽るのは正しい。だからこの手法を使う者全てが悪者というわけではない。この手法を悪用する者が悪いだけだ。

だから、彼らに乗る側は、正義感の他に何らかの尺度を持っていたほうがいい、と私は思う。

私は、良い仕事をする俳優さんのとある仕事に期待し、それを他の人にも観てもらいたいと思っている。
その方への興味を持つきっかけが「その方の活動が苦境にあること」であっても、それでお客さんが増えるなら、手段としてはありなんだよなぁ。

けれど、「苦境だから応援する」という一点だけで作品にあたられても、正直嬉しくない自分がいる。関係者ではない作品の一ファンのわがままであることはわかっているけれど、あまり作品そのものに興味がないニュアンスを感じれば、ムッとするのも人情じゃないですかね。

作品への参加者の個人の情報、個人のスキル(演技力、演奏技術など)、作品そのものの出来、等のパラメーターはそれぞれ並列であって、受け手は各自でパラメーターの強弱をつけた状態で作品に触れる。

だけど正直、個人の情報(スキルではない)は一番低くていいと思うんだ。

判官びいきに凝り固まることは、ここが突出して高くなってしまっているわけだから、優先順位がおかしくなっている状態だと思う。
せっかくこれまで触れたことのない作品に出会うのだから、より作品に近いパラメーターを上げてあたって欲しいものだ。全く前情報がなくたって、ないなりの期待の持ち方というものがあるだろうに。

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