あなたもゾンビかもしれない。 #対話と発展のための世界文化多様性デー に、とある映画監督の言葉を添えて。
朝起きたら妻からLINEが来ていた。
夜中、まるで起きている人かのように流暢に喋る支離滅裂でファンタジックな僕の寝言を、妻はメモしておいて翌朝読めるようにLINEで送ってくる。そして翌朝ケラケラ笑いながら説明してくれる。
今日の寝言は何だ?と思ってLINEを開くと、
5/21
対話と発展のための世界文化多様性デー
国際デーの一つ。2002年の国連総会で採択。
ほう、なるほど。
なかなか流暢な日本語?とも思わず、すぐにわかる。
送られてきたメモは僕の寝言じゃなかった。
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昨日5/21は #対話と発展のための世界文化多様性デー なんだそうです。2002年の国連総会で採択されて以来、この日は 多様な文明・文化を超えて対話を持ち共に発展を目指す日と位置づけられています。僕は「対話」や「多様性」を大事に生きているので、それをメモに残しておいてくれたのでした。
せっかくなので、この多様性と対話の日に寄せて、ひとつお話を紹介させてください。
実は前に書いたnoteでも、文末あたりでこれと同じ話に少しだけ触れていたんですが、このテーマを中心に書きたかったので今回のnoteに切り出すことにしました。構成を再編集して内容も書き直しているので、以前読んだ方もぜひ読み進めて下さい。
教室に、不思議な暗い少年
あるクラスで、思春期のクラスで、不思議な暗い少年がいます。その少年みんなから疎んじられているんですけどね。友達ができるんです。
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で、その友達が彼の肌に触れるとその肌がポロっと落ちたり、最後に握手しようとすると手がポロっとおちるんです。
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ここまでの演出力、演技力、映像の表現、見事でした。ここで終わっていれば私は断然グランプリにしました。
ところが残念なのは、この作品、ゾンビは他人で、ゾンビが人間社会に入って幸せになっていきますよ。だから人間はいいなっていうゾンビコントになってしまったんですね。
ここに日本の作家に考えてもらわなきゃならない自分のアイデンティティ(がある)。自分はゾンビなのか? ゾンビを映画の素材として面白く描くのが映画か? それでは単なる映画です。
自分がゾンビだと自覚するところから映画は庶民のジャーナリズムになります。そう、ジャーナリズムとはまさに庶民1人1人が語るもの。民主主義の多数決なんかじゃありません。少数者の意見が尊ばれることこそが、健全な正気の社会です。
とある映画監督とは
これはとある映画監督が、国際映画祭の審査員スピーチで語った内容から、僕が特に気に入った一節を抜き出したものです。
このスピーチの語り手の映画監督とは、先月2020年4月10日にお亡くなりになられた大林宣彦監督のことです。大林さんは地元尾道を舞台に撮影された尾道三部作、特に多くの人が知っているところだと「時をかける少女」を初めて映画化するなど、数々の功績を残された日本を代表する映画監督です。この場を借りて再度ご冥福をお祈りいたします。
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もし、大林監督についてもっと深く知りたい方は、PLANETS 宇野常寛 さんの『遅いインターネット』による 樋口尚文 監督へのインタビュー記事「 映画にとって大林宣彦とは何だったのか 」が濃密で読み応えがあり面白いので、ぜひそちらを読んでみて下さい。(けっこう長いかもですが、じっくりSlow Internetできるときにおすすめですよ!)
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...そう、この大林監督の往年のスピーチがとても素晴らしいのです。さきほどの一節は、2017年に開催された映画祭 SSFF & ASIA 2017のアワードセレモニーでのことです。スピーチの内容のほとんどは黒澤明監督とのエピソードを中心とした約28分間で、その内容は全て聴くべきな価値ある内容だと思います。でもその中でも、特に僕の心に刺さったフレーズが冒頭にご紹介した一節(映像 25分22秒〜)です。
【映像 25分22秒〜】あるクラスで、思春期のクラスで、不思議な暗い少年がいます。その少年みんなから疎んじられているんですけどね。友達ができるんです。でその友達が彼の肌に触れるとその肌がポロっと落ちたり、最後に握手しようとすると手がポロっとおちるんです。ここまでの演出力、演技力、映像の表現、見事でした。ここで終わっていれば私は断然グランプリにしました。ところが残念なのは、この作品、ゾンビは他人で、ゾンビが人間社会に入って幸せになっていきますよ。だから人間はいいなっていうゾンビコントになってしまったんですね。ここに日本の作家に考えてもらわなきゃならない自分のアイデンティティ、自分はゾンビなのか。ゾンビを映画の素材として面白く描くのが映画か。それでは単なる映画です。自分がゾンビだと自覚するところから映画は庶民のジャーナリズムになります。そう、ジャーナリズムとはまさに庶民1人1人が語るもの。民主主義の多数決なんかじゃありません。少数者の意見が尊ばれることこそが、健全な正気の社会です。 ( 出典 : 【スピーチ】大林宣彦監督が伝えた巨匠・黒澤明の“遺言”〜未来の映画人に世界の平和を託す〜 )
人は誰しも誰かにとっての「ゾンビ」
この映像の中の大林監督の「自分がゾンビだと自覚するところから映画は庶民のジャーナリズムになります。」という言葉。ハッとさせられる、とても考えさせられる、素晴らしい表現で感銘を受けました。
はたして、あなたはゾンビでしょうか?
僕は思います。
誤解を恐れずに言えば、人は誰しも誰かにとっての「ゾンビ」なのだろう。
ここでは仮に「ゾンビ」を「自分とは異なる者」と捉えたとき、もはやこの世界はゾンビに満ちていて、と同時に自分自身もきっと誰かにとってのゾンビなのだろうと。
でも、誰もが「自分自身が誰かにとってのゾンビ」である可能性を自覚できない。ゾンビは自分側なのかもしれない??という発想に至るのはすごく難しいことなんですね。自分ではない他の誰かのことを「ゾンビ」と位置づけて、世界の窓を覗いてしまいます。人間はそういう生き物なのかな。大林監督の言葉を借りつつも、僕自身に対しても強く自戒を込めて。
対話とは、自分自身のゾンビ性に気付くこと
対話によって多様性を認めるという行為は、大林監督の言葉を借りるなら、「自分自身のゾンビ性に気付く」ということなのかもしれません。
自分とは違う誰かの意見を通して、自分の当たり前が当たり前ではないことを自覚する。でも現代社会でそれを生活の中で実践することはかなり難しいと思います。
TwitterをはじめとしてSNSは、自分がフォローしたりフレンドになった人、つまり自分が選んできた人の情報や意見でタイムラインが形成されてしまいますよね。そもそもオフラインの日常生活で出会える人の数には制限がありますし、オンラインでは自分を中心とした情報網に取り囲まれているので、知らず識らずのうちに自分の価値観は固定化されていきます。
一方でTwitterでは、たまに流れてくる自分とはまるで価値観の異なる意見に驚かされることがあります。しかしパッと読むだけではその真意がつかめなかったり、納得感が持てなかったりする。なんせ140文字ですから。でもそのリプライ欄で読めるものは溝を縮めるための「対話」ではありません。 残念ながらそこにあるのは、一方的な強気な主張と論破や論点ずらし、悪い場合には人格否定や誹謗中傷も。ああ、対話ができる場所じゃない。そう思いながらそっとスレッドを閉じるとき、あなたは自分自身ではなく、そこで見た誰か他人をゾンビのように思ったことでしょう。
Talkstandは価値観の万華鏡
そういった課題感を解決したくてサービスをつくっています。
先日、価値観の異なる相手と興味のある話題で対話できるトークアプリ「Talkstand(トークスタンド)」をβ公開して、プレスリリースを出しました。BRIDGEさんからの記事も出ています。
プレスの中でも紹介しているのですが、僕はtalkstandを「価値観の万華鏡」のようなサービスだと思っています。
1つの話題に関する、色んな意見を、色んな角度から、色んな人との対話を通して見つめ直す。
そっと覗き込んでみてください。覗き込んで、くるくると廻してみてください。はじめに見えていた形とは違う、きっと色んな形が見えてくると思います。覗き込めば色んな価値観を知れる万華鏡のような、そんなサービスに育てていきたいと思います。
Talkstandを使ってみたい方は、iPhoneアプリはこちら、Androidアプリはこちら からぜひダウンロードください。
#対話と発展のための世界文化多様性デー に、とある映画監督の言葉を添えて。自分自身のゾンビ性に気付く機会をぜひ。
最後まで読んで頂きありがとうございました!
Twitter: @takac_radcliffe
Facebook: @Radcliffe Takashi Onishi
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