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少女は瓦礫の道をゆく 1.瓦礫の丘

 冬の夜明けだ。
 少女は丘を登っている。
 ぐいぐい、ぐいぐい、登っている。
 チェックのダウンベスト。首にはマフラーをぐるぐる巻きにし、デニムのホットパンツから伸びた脚を交互に前に繰り出して、ひたすら丘を登っている。
 あたりは一面の瓦礫の山だ。崩れた家屋、折れ曲がった電柱、ひしゃげた自動車、変形したドラム缶。赤錆びて亀裂の入ったトタン板、泥がこびりついた水色のポリタンク、色あせたビニールシートの切れ端。おびただしい数の材木が、コンクリートの破片が、土砂に埋もれ、折り重なり、うず高く積み上げられ、どこまでもどこまでも連なっている。
 少女はそれらに足を取られないように気を配りながら、速度をゆるめることなく登っていく。年格好は十七、八歳くらい。伸びかけのおかっぱ頭。背中のリュックには必要最小限のものしか入っていない。重さを感じるたびにいらないものから捨ててきた。着替えも、サバイバル・グッズも、お世話になったお姉さんがくれたメイク道具も、みんな捨てた。体が動けばそれでいい。最小限の身の回りの品と食べものと水さえあれば、歩き続けることができる。
 朝の外気はひんやり冷たい。むき出しの太ももは寒さで赤くなっているけれど、少女はべつだん気にしていない。“あのこと”があって以来、暑さや寒さを感じなくなった。炎天下に汗だくになっても、雪の日に体が震えていても、暑いとも寒いとも思わない。皮膚が外気と関わるのをやめてしまったみたいに、ぱったりと何も感じなくなったのだ。歩いて旅をしている少女にとって、季節や天候に合わせて着替えなくてもよいのは好都合だ。その代わり、いつの間にか体が冷えて鼻水が垂れていたりするから気をつける必要はある。足首にはレッグウォーマー、両手には手首まで隠れる手袋、そして首にはマフラー。これだけでずいぶん違う。五つの首を冷やすなと言ったのはおばあちゃんだ。昔の人の知恵は役に立つ。でも、そのおばあちゃんはもういない。

 遠くから音が聞こえてきた。何かの楽器のような音。どこか南の気配がする、乾いた穏やかな音色ねいろだ。音はときどき休むように間を置きながら、同じ旋律を奏でている。少女はその不思議な“しらべ”に引き寄せられるように、音のする方角へ歩いて行った。
 もとは木造家屋があったと思われる一角からその音は聞こえてきた。崩れたブロック塀に腰かけて、色あせたコートを着た男が楽器を弾いている。三味線に似ているけれど少し違う、たぶん常夏の島で奏でられる楽器。冬の朝に場違いなはずのその音が、なぜか瓦礫の眺めに馴染んで感じられた。
「やあ」
 男は少女に気づいて手を止めた。
「それ、何ていうの?」
 少女は楽器を指してく。
「これか。三線さ」
「サンシン?」
「そう」
 男はテン、テンと心地よい音を鳴らし、再び演奏を始めた。風が乾いた楽器の音を遠くへと運んでゆく。少女が黙って聞いていると、男は楽器を弾きながら顔を上げずに言った。
「一人か?」
「そう、一人」
「寒くないのか?」
「うん、寒くない」
「それはよかった」
 しばらく楽器の音だけが鳴り続けた。さっきまでと少し違う、柔らかい音色ねいろだ。少女は古タイヤに腰を下ろしてその音に耳を傾けた。ゆったりとしたテンポの演奏が体の隅々まで沁み通ってゆく。少女は大きく息を吸って組んだ両手を前に伸ばした。
 男が奏でる旋律は初めて聞くのに昔から知っているような気がした。やさしく頬をなでる風のような、身をまかせればどこまでも受け止めてくれる羽根布団のような――。それはかって少女のそばにいつもあった“ある温かな感触”を思い出させた。
 少女は目を閉じて心地よい演奏に身をまかせた。こわばった手足から力が抜けていく。体の内側に小さな灯がともったように、長旅に疲れた心と体がほぐされていくのを感じる。
 少女はほっと息をついた。いつまでもこんな時間が続けばいい――そう思ったけれど、それは長くは続かなかった。懐かしい“温かさ”が思い出されるにつれ、心地よさよりも息苦しさのほうが強くなってきた。
 “あのこと”が起こる前、少女はとくに意識することもなくその“温かさ”に包まれていた。それは当然のことのようにいつもそこにあり、当然のことのようにいつまでも続くものと思われた。でもそれは突然消えてなくなった。思ってもみないところから大きな力が訪れて、あっという間にすべてを持ち去ってしまったのだ。少女は長い間暗闇の中にいて、その“温かさ”が失われたことに気づいたのはずっと後になってからのことだった。そして、気づいた時にはその“温かさ”がどんなものだったのかよくわからなくなっていた。
 少女は何かにかれたように旅に出た。その“温かさ”を思い出そうとして。どこかにあるはずのそれを確かめようとして。
 長いことあちこちを歩き回ってきたけれど、その“温かさ”はどこにも見当たらなかった。すぐ手が届きそうな場所にあるような気がしたのに、どこに行ってもそれは見つからなかった。似たような気配を感じることがあっても、近づくとそれは伸ばした手からすり抜けるように消えていった。そんなことを何度も繰り返しながら一人で旅を続けてきた。
 そんなどこにも見つからなかったはずの“温かさ”が、今突然、男が弾く楽器のしらべに誘われて心によみがえってきた。もう一度確かめたいと思っていたその“温かさ”に触れて、少女は嬉しいはずなのに落ち着かない気持ちになった。今その“温かさ”を思い出すことは、それを忘れることよりも苦しく感じられた。
「ここで何をしてるの?」
 少女は小さく息をついていた。
 男は目を細め、瓦礫の山を眺めて言った。
「聞かせてるのさ」
「聞かせる…誰に?」
 少女は首を傾げてまわりを見回した。
「そこにいる空きビンとか、古タイヤとか、壊れた冷蔵庫とかにさ」
「そこに…いる?」
 少女は瓦礫の山に目を凝らした。折れ曲がったこうもり傘や錆びた自転車、壊れた扇風機やスプリングの飛び出したソファが、材木と土砂の間から顔を出している。長い間あちこち歩いてきて、見飽きるほど眺めてきたものばかりだ。
 男は涼しい顔で楽器を弾き続けている。少女はいぶかしげにそれらの廃物の山を見つめ、じっと三線のしらべを聞き続けた。そうするうちに瓦礫の山のあちこちから、ミシッとかピシッという音が鳴り始めた。
「――?」
 少女は大きく目を見開いてあたりの気配を感じ取ろうとした。動くものは何もない。胸の鼓動が早くなる。体の奥から何か悪寒のようなものが立ち上がるのを感じる。
 ふいに目の前の光景が変わった。瓦礫の中に見え隠れするさまざまなものたちがいっせいに目に飛び込んできた。風に揺れる空き缶、地面に半分埋もれたビニールの切れ端、取っ手のはずれた電気ポット、もとは鮮やかな黄色と黒の二色だったに違いないダーツのまと――それらひとつひとつが、くっきりと浮かび上がって見え始めたのだ。
 少女はぶるっと肩をふるわせた。いつも目には入っていたけれど気にも止めていなかった廃物たちが、奇妙にありありとそこにあった。巨大な塊まりのように見えた瓦礫の山は、それら無数の、もの言わぬものたちの集まりでできていた。傘も自転車もソファも、もともとの役割から解き放たれたように、ただ静かにそこに横たわっていた。
「いるだろ。いっぱい」
「…うん」
「そいつらに聞かせてやってるのさ」
 少女はまじまじと男の顔を見た。ぼさぼさの長い髪が三線を弾く動きに合わせて微かに揺れている。
「そっちこそ、何やってるんだ。こんなところで」
 男は楽器を見たまま言った。少女は少し黙ってからぼそりと言った。
「花を探してるの」
「花?」
「そう、花」
 少女は遠くのほうに目を向けた。冬の陽がゆっくりと昇り始めていた。
「花が咲いてないの。どこへ行っても見当たらないのよ。もうずうっと前から」
「ハハッ」
 男が急に笑い出した。
「?」
「花ならそこら中に咲いてるじゃないか」
「えっ?」
 少女は驚いて、またまわりを見回した。
「どこにも見えないけど…」
 男は楽器を弾く手を止め、笑みを浮かべて言った。
「よく見てごらんよ。いたるところ花だらけじゃないか」
 手を伸ばした男の顔に朝の光が当たった。一瞬、まわりの瓦礫の中に花の姿が見えたような気がして、少女は立ち上がった。
 まばゆい光の中からそれは現れた。
 ――花が咲き始めた。レンゲソウやキンポウゲ、ホウセンカや桔梗が、季節も時期も関係なく、次々と茎を伸ばし、花を開かせた。柔らかな風がそよぎ、生まれたばかりの花弁を恥ずかしげに揺らす。ふさふさした毛で丸いおなかを覆われたコマルハナバチが脚いっぱいに花粉をつけて飛んでいる――。
 遠い記憶の中の光景が手を伸ばせば届く目の前にあった。三線のしらべがどこかで鳴っている。少女は何かに呼ばれたように歩み出していた。
 あたりは一面の花畑だった。知っている花、見たこともない花、ありとあらゆる花々がここを盛りとばかりに咲き乱れていた。コマルハナバチたちが楽し気に飛び回っている。少女はわけもわからぬまま、折り重なった花たちが作り出す極彩色の連なりの中に身を投げ出すように駈け出した。
 コマルハナバチが少女が来るのを待つように空中に止まっている。少女が近づくと逃げるように飛び、少し先でまた止まる。少女はむきになってそれを追いかける。生い茂る草花の横をすり抜けるたびに、花と葉が嬉しそうに揺れる。
 あんなに探していた花がここにあった。こんなにいっぱい――。
 少女は両手を広げて花の中を駈け回った。“わーん”という音がコンサートホールで聴く弦楽曲のようにまわりに広がった。冬の早朝に現れた春の陽光が揺れる花たちを照らし出す。甘やかな香りまで伝わってくるような気がして少女は鼻をひくつかせた。その途端、花たちの姿は消えた。少女は驚いて立ち止まり、まわりを見回した。
 あとには灰褐色の瓦礫の山が累々るいるいと横たわっていた。つい今しがた咲き乱れていた花の姿は影も形もなくなっていた。コマルハナバチもどこかへ消えてしまった。朝の陽が明るく射しているのに、あたりはさっきよりもいっそう“しん”となった。
「やっぱり花はないよ。だから、探しに行かなくちゃ」
 少女は男の伸ばした手の先の、ずっと向こうに手を伸ばした。

(つづく)

Photo by Krista Joy Montgomery on Unsplash

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