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少女は瓦礫の道をゆく 3.同行者

 少女は茫々ぼうぼうとした荒れ野に立っていた。
 ここに自分が住んでいた家や町があったのだと何度も思おうとしたけれど、うまくいかなかった。
 ここへ戻ってくるまでの間に、少女は自分なりに心の準備をしてきたつもりだった。慣れ親しんだ町がどんな姿になっていようとしっかり目にとどめよう、そうすれば自分が“あのとき”何を失ったのか確かめることができるに違いない。そう決心して旅に出た。たとえこなごなに壊され、荒れはてた眺めであっても、自分が生まれ育った場所を思い出させてくれる“よすが”となるものが残っているなら、それをもう一度見てみたい――そう思って旅を続けてきた。
 けれど今、少女の目の前にあるのは、ブルドーザーで真っ平らに地ならしされた白茶けた大地だった。まばらに草が生えているほかは何もない、ただその上を風だけが吹き過ぎてゆく茫漠とした眺めだった。
 その光景は少女を混乱させた。大切だったはずのものが失われてしまったのではなく、まるで最初からなかったような気持ちにさせられた。荒れ野を横切るように走る舗装道路も、渡る人もいないのに青から赤へと点滅を繰り返す信号機も、取ってつけたようにそこにあるだけだった。微かに潮の香りを含んだ風に乗って飛んでくるのは見慣れたはずのカモメではなく、黒々と空を切るカラスだった。目に入るものはすべてがよそよそしく、わずかな断片から過去の記憶を紡ぎ出すことすらできなかった。そこはからっぽの場所だった。そこにいると自分自身もからっぽであるような気がして、少女はいたたまれなくなった。これ以上ここにいても何も見つけられない――それだけは確かだった。
 少女――アカネは、かってそこにあった “ホーム”を求めて瓦礫の原をさまよい始めた。

 瓦礫の野はいたるところにあった。アカネの町は海の近くにあったが、内陸部ではまだ整地されていない場所のほうがはるかに多かった。アカネは瓦礫が山積みのまま放置された荒れ野をどこまでもどこまでも歩いて行った。
 北へ、西へ――。海岸線から遠く離れた奥へ奥へとアカネは入って行った。うすうすわかっていたことではあるけれど、そこにアカネの“ホーム”はなかった。見渡す限りの瓦礫の中に、かって自分とその家族が暮らした“ある温かな感触”を思い出させてくれるよすがとなるものはなかった。
 長いこと歩き続けているうちに、アカネは自分が何のために旅をしているのかわからなくなり始めていた。もともと自分には“ホーム”なんてなかったのではないだろうか。あの海沿いの白茶けた大地と同じように、自分も最初からからっぽだったのかもしれない。ただ意味もなくこうしてさまよい続けているだけなのかもしれない――。そう思うと足が動かなくなり、もう一歩も踏み出せなくなった。体から力が抜け、地面に崩れ落ちそうになった。
〈ああああーーっ〉
 アカネは夕闇に沈む瓦礫の荒れ野に向かって叫んだ。遠くへ向かって声を投げかけたはずなのに、出てきたのは嗚咽に近い泣き声だった。自分のものとは思えないくぐもった低いうなり声が、おなかの底から湧き上がってきた。泣いているはずなのに涙は出なかった。ただ、別な生きものがうめいているような声の震えが、異様に身近に感じられるだけだった。

 もうどこへ行っても意味がない――そう思い始めた頃、アカネの耳に風の噂が入ってきた。この荒れ果てた瓦礫の原の向こうに花が咲く場所があると――。
 思い返すと、もうずっと花を見ていないことに気がついた。瓦礫の原だけではなく、無事だった町にも山にも花は咲いていなかった。季節はめぐり時は流れても、一輪の花さえ咲いているところを目にすることがなかったのだ。
 気がついたら出発していた。歩き出さずにはいられなかった。花を探しに行こう――なぜそう思ったのかはわからないけれど、そうすることしかできない、そうしなければならないような気がした。いったんそう思うと片時もじっとしていられなかった。わたしは行かなくちゃならない、それがどこであっても、どんなに遠いところでも――。
 アカネは無我夢中で歩き続けた。いつの間にかまわりには同行者たちがいた。どこでどう聞きつけたのか、アカネの花探しの道行きに同伴したいという人々が現れたのだった。
 それは不思議な気分だった。花を探しに行きますと宣言したわけでも、道連れを募集したわけでもないのに、いつの間にか大勢の人がアカネと一緒に歩いていたのだ。
「どこへ向かってるの?」アカネは隣を歩く若い男にいた。
「花の咲いているところさ」男は力強く言った。
「あなたも花を探してるの?」
「そう。君もなのかい?」
 アカネは大きく頷いた。
 そうして、男が、女が、若い人や少し年配の人が、続々とアカネのまわりに集まってきた。瓦礫横たわる荒れ野を、総勢五十名を超える一団が意気揚々と渡り始めた。

 なだらかな道では歩調を合わせ、足場のわるいところでは声をかけ合い、アカネたちは歩き続けた。まだ見ぬ目標に向かって。どこかに咲いているに違いない花を探して――。
 食べもの、水、衣類、燃料、双眼鏡、ラジオ……。めいめいが自分のできる範囲で様々な物を持ち寄った。
「それ、ずいぶん長いこと履いてたんじゃない? よかったらこれ使いなよ」
 背の高い男が言った。アカネはぼろぼろになったスニーカーを脱ぎ、男から譲ってもらったトレッキングシューズに履き替えた。
「彼女が使ってたんだ」男は遠くを向いて呟いた。「もういないんだけどね」
「…あのとき?」
 アカネがくと男は頷いた。靴のサイズは不思議とアカネの足にぴったりだった。
 夜がふけると一行は歩くのを中断し、持ち寄った食材を使って簡単な夕食を作った。レトルトの非常食からご当地の野菜まで、けっこうな品目が揃っていた。
「ほらほら、晩ご飯の支度ができたよ!」
 世話好きそうな中年のおばさんが皆に呼びかける。
 アカネは手渡されたアルマイトのお椀を不思議な気分で見つめた。そこには湯気の上がるみそ汁があった。道中で調理された汁ものを味わえるなんて思ってもみなかった。遠い記録の向こうに消えかけていた“ホーム”の手触りがほのかによみがえった。
「アッチッチ!」慌て者の一人が声を上げた。「熱いから気をつけな」おばさんがたしなめ、皆が笑う。
 まわりの皆はみそ汁をふーふー吹きながら飲んでいたけれど、アカネはそのままお椀に口をつけてすすった。もう長いこと熱いとか冷たいという感覚をなくしていたため、そうする必要がなかったのだ。温度が感じられないと食べる喜びも半減する。味覚はあったけれど、食べ物を美味しいと感じることはほとんどなくなった。それでも、こうして大勢の人たちが口をはふはふさせながら飲んだり食べたりしている姿を見ていると、自分が温かいものを食べているのだという気がしてくる。食事をしているうちに体の内側に何かほっこりとしたものが生まれ、腕や脚がじわじわとほぐれてくるのを感じる。温められた血が体を巡っている、感覚はなくしても体は応えているんだ――。自分から離れてしまった気がしていた肉体が、少しだけ戻ってきてくれたような気がして、アカネは嬉しかった。
 ツナの缶詰を使ってランプを作る男がいた。缶の底に小さな穴を開け、差し込んだ紐に火をつける。明るい、というほどではないけれど、ほのかに揺れる灯が皆の顔を照らした。
「ランタンがあるからいいのに」誰かが言うと、
「こういう使い方もあるってことさ。か細いけどなんだか励まされる明るさだろ。それに後で中身も食べられるんだよ」男がちょっぴり自慢気に言う。
「そりゃいいや!」
 人一倍よく食べる若い男が素っ頓狂な声を上げた。皆が笑い、アカネもつられて笑った。笑うのなんてひさしぶりだ――。
 簡素だけどにぎやかな夕食を済ませ、皆は寝床の用意をした。寝袋に入る者、小さなテントを張る者、シートを敷いて横になる者…それぞれが思い思いの寝床を作り、用意のない者には貸し合って、旅の一夜を共にする。皆で肩を寄せ合って眠ると、不思議なくらい安心だった。人がいると“温かい”んだな――そう思いながらアカネはいつの間にか眠りに就いた。
 夜明けが近づくと、ごそごそと肩を揺すり合って、皆一斉に起き上がる。朝食を摂り、また歩き出す。雨が降れば誰かが持っていたシートを数人でかぶり、ぬかるんだ地面に足を取られないよう呼びかけ合う。
 そんなふうにして、アカネたち一行は花を探す旅を続けた。

 ずいぶん長いこと皆で歩いているけれど、花はなかなか見つからなかった。瓦礫の丘を一つ越え、「やっぱりここにもなかったね」。また次の丘を越え、「今度はきっと見つかるよ」。その度にお互いを励まし合いながら、道行きは続いていった。
 アカネは夕食の後、トレッキングシューズを譲ってくれた“のっぽさん”がいないことに気づいた。夜の闇の中を探すと、一行が寝床を作る輪の外側の岩場にぼんやりと座り込んでいる男の姿が見えた。
「眠らないの? 今日は見張り当番だっけ?」
 アカネが隣に座ると、男は小さな声で呟いた。
「花は見つからないかもしれないなぁ」
 アカネは驚いて男の顔を見た。そしてすぐに打ち消すように、
「そんなことない、花は見つかるよ。みんなでこんなに一生懸命探してるんだもん。見つかるよきっと」
 男はアカネの声にも心を動かされない様子で、また小さく呟いた。
「だと、いいけどね…」
 次の日の朝、“のっぽさん”は一行から消えていた。忽然と、朝もやの中に吸い込まれたように。
「あら、意外に根性なかったんだねえ」
 そう言ったおばさんも二日後にはいなくなっていた。次の日には双眼鏡と地図が大好きだったおじさんも。
 そうして一人、また一人と同行者はいなくなっていった。いつの間にか人数が増えていたように、いつの間にか人数は減っていった。声の大きい人とか、冗談の得意な人がまずいなくなった。最初に一緒に歩き始めた若い男も、ご飯が大好きな食いしん坊の男も消えていた。アカネは何が起こったのかわからなかった。自分の知らないところで何かが確実に変わり始めていた。

 誰かが一人いなくなる度に、いろいろな物が置きみやげのように残された。軍手、方位磁石、電池の切れた携帯ラジオ……。持ち主のいなくなったそれらは、居心地わるそうにアカネのリュックの中に収まった。
 やがて我慢強そうに見えた人や、弱音を吐く人にお説教するのが得意だった人もいなくなった。最後までいたツナ缶ランプを作った男も「材料がなくなった」の一言を残して、トイレに行ったまま戻ってこなかった。後には空になったツナの缶が転がっていた。
 アカネは瓦礫の陰にまぎれてどこへともなく消えてゆく同行者たちの姿を追った。皆どこへ行っちゃうの? 花を探してるんじゃなかったの――?
 そうしてアカネは気がついた。みんな一生懸命歩いていたけれど、一緒にいて心強かったけれど、本当に花を探してるのは自分だけだったんだって。みんな気が向いたら、いつでも自分の帰る場所へ帰ることができるんだって――。
 アカネは泥で汚れた頬に涙が伝うのを感じた。あの日、夕闇に沈む瓦礫の原に向かって叫んだときには出なかった涙が。その涙は温かくも冷たくもなかった。
 アカネは夕暮れの薄明に溶けてゆく瓦礫の山を見ながら思った。知らなかった。“あのこと”があった後よりも、今のほうがずっとさみしいんだって。

(つづく)

Photo by Siora Photography on Unsplash

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