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リアシートまで

引き続き「1966 Ford Galaxie 500」とウィリアム・エグルストンから話を始めて、その周辺をブラブラしてみる。

僕はリビングモデラーで、忙しい時期はプラモデルに触ることができない。年末年始はまさにそんな時期で、その「年始」がまだ続いている。だから、買ってあったキットの箱を開けてパーツを眺めたり、説明書をパラパラめくって脳内で遊んでいる(もちろん新しく買って積んでもいる)。
これはこれで楽しい。
先の「Ford Galaxie」についても、眺めながら作業工程のシミュレーションみたいなことをしている。そこで気付いたことがあった。
インテリアの組み立ての段で、各シートを接着する指定が書かれている。でも、インテリアのパーツには位置を決めるモールドがない。バケットシートは、リアシートとフロントパネルの間のちょうどいい感じのところに据え付けろ、ということらしい。
アバウトだけど、シートの位置なんてそういうものなのだろう、と思うことにした。では、そのちょうどいい感じの位置をどうやって決めたらいいのか。

インテリアの指示

エグルストンの写真に、フロントシートからリアシートに座る人を写した作品が何枚かある(反対にリアシートから写したものもある)。個人的にはちょっと気になる作品でもある。
手元にある『Portraits』に収録されている女の子は、無表情でこちらを向いていて、メガネ越しの眼差しや口元は緩んでいない。その面持ちから、肩を怒らせているようにも見えるけど、緊張感はあまりないようにも見える。車内の雰囲気は静かだ。
シートの位置が、そのまま被写体との距離になっている。だからその少女と写真家との距離は物理的に近い。でも、それとは別にあるお互いの距離感は少しあるように思える。その表情が、写真家との距離感を物語っている。

リアシートの女の子(『Portraits』より)

この、車内のポートレートのシリーズが気になる理由は、かつて家族揃って車に乗ったときの感じを思い出すからだと思う。リラックスしたドライブだったり、大荷物を抱えためんどくさそうな買い物だったり。そんな記憶が脳裏を掠めるからかもしれない。
写真に限らず、何か自分の中にあるものを惹起させる作品は、しばらく頭の中に止まってヒリヒリさせる。

もう少し話を逸らす。
そんな写真家と被写体との距離感を勝手に読み取って鑑賞することがある。
たとえば、荒木経惟の『センチメンタルな旅』は、彼の妻を被写体としたシリーズで、人と人とのかかわり方のとても濃密な一面を浮かび上がらせている。観たとき、人はこんなに接近できるものなのだな、と思い知らされた。
石川竜一による『okinawan portraits 2012-2016』に映し出されている沖縄の人々は、ちょっと距離がある。近寄りがたい感じがありつつ、でもしっかりとこちらを鋭く見つめ返してくれているその態度に、真摯な雰囲気も感じ取れる。写真家と被写体とは打ち解けているが、そのほかについてはまだ心を許していない。そんな緊張感がある。
青木裕一の『少女礼賛』は、素性が明かされていない少女を被写体にしている。そこには写真家と少女という関係ぐらいしか手掛かりが見い出せないが、そんな謎めいた関係性の中でさまざまな表情を見せてくる。そこに不可侵の領域の中に入り込んでいるような背徳感が生じる。むしろ写真家と鑑賞者の視点が近くなり、妙に生々しくエロい。

さて、件の「Ford Galaxie」のシートの位置はどうしたものか。
ムッツリしたあの女の子が、もう少しリラックスできるような位置にセッティングできれば、と思う。
もちろん、フィギュアを載せるわけではないし、パーツの大きさからして選択の余地はそんなにない。でもたとえば、彼女の表情が柔らかくなるようなストーリーを考えながら作ったら、少しは納得できる位置にセッティングできるだろうか。
けっこう不安だ。
僕が助手席から振り向いたら(何せペーパードライバーだからね!)、泣きそうな顔をしないだろうか。
そうならないためには車内の雰囲気をよくする工夫が必要だ。車内はいわば密室だから、お互いに折り合いをつけて乗るものだ。知った顔ならいいが、知らない人間であれば同乗するには少し勇気が必要になる。緊張も承知の上で付き合わざるを得ない。乗る瞬間は、その緊張が諦念に変わり、車内はその諦念が空気を固まらせることもある。どうしたらいい距離感を掴めるのだ……というのは考え過ぎなのだろうけど。
ともかく、そんな妄想をしながら手を動かすことができる時期を切望している

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