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「ゆたかさ」をあきらめたくない

ゆたかさは必要なのか?

いつからだったのだろう。「こころの豊かさ」という、なんとも扱いづらい単語が登場して、物質的な豊かさと対立して語られるようになったのは。

「こころの豊かさ」を問い、暫定的な答えを出すことは、目標の喪失と再設定なのだろう。初めから「どうしたらこころの豊かさが得られるのか?」と問う人は、おそらくいない。それまで自分なりに豊かな人生を追い求めて、何らかの理由で挫折して、それまでの目標を喪失してはじめて直面する問いである。

時は第一次世界大戦。

人類は、目を疑った。桁違いの死者数。荒廃した都市。毒ガス、飛行機、戦車、機関銃、潜水艦。これが、科学の力か。これが、理性の力か。私たち霊長類が自分の頭でより正しいものを追求した先が、これか。どこかで道を誤ったのだろうか。もう、なにが正しいのかわからない。果てしない絶望―

もう、理性を、意識を諦めてみようか。人間には、たかだか認知革命以来の短期間に急激に発達した意識なんかより、はるかに長い期間研ぎ澄ましてきた無意識がある。無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を!

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フランスの作家アンドレ・ブルトンは『第一宣言』のなかで、「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考」を表現しようと提案した。ぼくは、箱根の美術館で開催されていたシュールレアリスム展で『溶ける魚』の実物を見た時、エーミールよろしく(そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな)と思う一方で、彼の思いに痛々しい同情を禁じえなかった。欧州大戦の惨禍。もう、なにが正しいのかわからない。過渡期の絶望。

過渡期の絶望は、人の価値観を不可逆的に揺さぶる。聞いた話によると、こういう時期にはモノづくりが盛んになるらしい。なぜなら、人はウソをつくけれど、モノはウソをつかないから。日本でいえば、明治維新、第二次大戦。強烈な過渡期のなかで立ち現れた偉大な思想家、為政者、企業家たちが、その後の世界を導いた。こうした価値観の転換期を生きた先人はたくましい。たくましいけれど、ぼくはどうしても悲しい時代だと思ってしまう。ぼくは、根底のところではいつもポジティブでいたいし、人を信じたい質なのだ。

ここ数十年はまさに、長い長い過渡期なのであろう。物質的な豊かさを求めてきた人類が、経済低成長、バブル経済崩壊、公害などの科学発展の弊害に直面して、目標を喪失したからこそ、「こころの豊かさ」を問うている。もう何年やっているんだ。人は言う、失われた30年と。ぼくらは生まれてこの方、自分たちの生きているこの世界を「失われた時代」と言われ続けてきた。「ロストジェネレーション」の方々と同じ怒りを持っている。端的に言って、ぼくはこうした言葉が嫌いである。失われたn年、ロスジェネといった言葉は、抽象化の仕方が甘いために、要は何も言っていないに等しいのに、人のアイデンティティを一方的に傷つけるからだ。

ある人によれば、ぼくらの世界は、確実に豊かになってきている。ぼくも約21年ほどこの世界を見る限り、少なくとも日本は、ちょっと信じがたいほど豊かである。上下水道が行き届いて伝染病を駆逐してきた。車道を改良して交通事故死を削減してきた。発送電施設を整備して停電を解消してきた。人口集中箇所の貯水を進めて水不足を解消してきた。生まれの良しあし、財産のあるなしにかかわらず、圧倒的な技術力による連綿とした社会基盤整備の系譜が、だれにとってもより生きやすい(死ににくい)世界を実現してきた。

一方で、ぼくらの内面の豊かさは一概に向上したとはいえない。人はよく、幸福度ランキングを証拠に挙げる。不安感、孤独感、お金、さまざまな原因が指摘されている。ぼくが好きなのは以下のような主張だ。twitter、Instagram、TikTokなどなど、世界で一番事務処理能力の早い人たちが丹精込めてこしらえた中毒性の高いツールのおかげで、自分と向き合う時間は減る一方だ。共感・反応・拡散の輪の中で、限りなく社会との接続を加速させられ、自分と深く向き合う時間が削られている。かろうじて自分だけの時間の大切さを説くマインドフルネスとは、「生産性や集中力を高めるため」、つまりもっと生き急いで必死に働くための手段としての瞑想である。仏教本流からすればもはや意味不明である。社会との接続を断ち、自分だけの豊かな時間を確保するのはかくも難しい時代になってしまった。

ウイルスを特定して薬を処方すれば豊かになるのか?

ルネ=デカルトは、「困難は分割せよ」と説いた。近代の西洋では、世界を部分の集まりとしてとらえ、その相互作用を捨象してきた。古典力学、古典経済学などなど、古典と名の付く学問はおよそ同じようなパラダイムで動いている。

ニュートンの古典力学パラダイムは以下のようである。
①あまりに複雑な世界をモデル化する。数式で表す。時間変化するものを描写するため、微分方程式になる。
②微分方程式を解く。特殊関数や非線形の方程式に対しては単純化の仮定をおく。
③解と実験結果を比較して、モデルの有効性を確かめる。

コッホの細菌学パラダイムは以下のようである。
①病巣部の細胞を、顕微鏡で観察し、微生物を発見する。
②純粋培養で菌株を確立する。
③菌株を生命体へ接種し、病気の発生を確認する。
④発見した菌に効く薬を人間に投与し、病気を治す。

野口英世はコッホの細菌学パラダイムに基づいて、顕微鏡で黄熱病の研究をしていた。しかし、黄熱病のウイルスは小さすぎて当時の顕微鏡には映らない。だから、黄熱病を解明できずじまいだったのである。この例から明らかなように、パラダイムには限界があり、自分たちが依拠するパラダイムの持つ特質と限界を自覚し続けることが極めて重要である。

いま、ゆたかさを実現する何かしらの好循環が、うまく回っていないと仮定しよう。何か悪さをしている「部分」があって、この部分が悪循環を引き起こしているのかもしれない。では、この悪い部分を正しくして、悪循環の根元を断てば、ゆたかさは自然に実現するのだろうか?

なにか「これが悪の根源だ」と主張してエビデンスを引っ付けて人の共感を得るのは容易だ。しかし、捨象される相互作用いかんによって、つまりは依拠する学問領域やパラダイムによって結論は大きく変わるであろう。部分の総和は全体に一致しない。抽象化のアプローチが違えば、全体の結論が変わってきて、耐え難いトレードオフを生む。都市計画を学ぶと日常茶飯事のように直面する問題である。特にアーバニストとビジネスマンとの話の合わなさは、さすがに笑うしかない。一方は住みよい都市を追求し、他方は国際競争力のある都市を追求する。本来、都市美も経済も、どちらも重要なのだ。

全体をみて議論し、次世代の模範となる目標を打ちたてる人が、この世界には不足しすぎている、と言われる。いまの教育では、専門分化の荒波に揉まれて社会化されて、自分の業界の常識を内在化してしまうのだ。専門外のことに口を出すべきではない、まずは己の専門性を磨けと言われてある境地に辿り着いて、さあほかの分野にこれを応用しようとするときには、自分がこの世界の何を捨象したか忘れている。あるいは、これまで小→中→高→大→会社と、レールの上を通ってきたので、守られた旅路のなかで自分の得になることだけに心が向かうから、他人や全体を把握しようという視点が脱落するのかもしれない。

ぼくは早稲田大学では、工学技術者になるための教育と、起業するための教育を受けている。全く違うパラダイムが、寄せては返す波のように僕の視界を占領し、僕の葛藤を育てた。鎧のような単一の学問的アイデンティティに包まれたままでいるよりは良かったのかもしれない。

「ゆたかさ」をあきらめないために

しかるに、豊かさとはなんぞや。

いま、ぼくが(あなたが)感じる豊かさこそが、すべてである。

そもそも理屈を持ち出して云々する世界ではない。まして、「豊か」「豊かでない」と二元論で語れるものでもない。たとえるなら、食べ物の味のようなものだ。ちくわがおいしいかどうかを議論するために、味覚を甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つに分類し、それぞれの強さを定量化するようなものだ。豊かさもそうしてみたらいい。すべての豊かさを分類して、それぞれの強さを測ってExcelでレーダーチャートにして比較検討すればいい。

果たして本当にそうだろうか?

ちくわのおいしさは、「いま」「ぼくが」ちくわを食べて感じるこの味がすべてである。本来そこに厳密な言葉はいらない。

あとは、一人一人がそれを自覚するだけだ。普段からちくわの味を、世界の豊かさを、いかなる抽象化も経ずに受け取る。「おいしい」という言葉すらいらない。

ではどうやって人にちくわのおいしさをつたえるか?

どうしても伝えたいときは、ちくわのおいしさに名前を付けよう。
おいしさの尺度から離れて、ボキャブラリーを増やそう。
「ゆたかさ」を、あきらめないために。

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