偏見と差別
今日の取材で思ったこと・学んだことを少しだけ
いわゆる偏見されたり、差別されてしまうこともあるような方からお話を聞く機会が今日あった。
これが正解なのか、自分でもわからないのだが、
人から取材ということで話を聞くとき、自分を出したり、
別の一般論的自分を出したりと大体頭の中で、その二人が取材を受けてくれている人から話を聞いているような感じになる。
ただ今日、取材が終わり、ホテルに帰り、我に帰ると
これでいいのかな、と思うような感覚になった。
というのも、ある事情で、前述のような方からお話を聞いているのだが、
今回自分が話を聞いているときに作り上げていた2つの”役”がある。
①知らないことを知りたい、という純粋な自分
②テレビ番組だから、一般的にどうこの人は見られているか、そういうことを意識しすぎたぐらいの人を想像して、その人に成り代わって聞いてみる
この2つを話しながらも、いい塩梅で出し引きさせ聞いていってるような感じなのだが、果たしてこれがいいものかどうなのか。
なぜそうなったかというと、
相手から聞いた言葉が、その2つの役では収められない明るさに満ち溢れていた。毎日を生きること、そして楽しむことに溢れている”だけ”。
それこそが人生なのだよ、私の。
そんなようなことを直接言われずとも、どこか言われた気がする。
こういうことって、頭でそう生きたいと考えていても、実行できていなかったりして、その片鱗が必ずどこかに影を落としている。
しかしどこまでもそこ抜けて明るかったり、眩しかったりする人は何故かこの世にいる。そういう人が、本当の思いですよ、ということをふと語ったりすると、悲しさからくる棘よりも、もっとパワフルなあたたかさのある棘が超音速で飛んできたりする。(実際に今日それがあった。)
おそらく聞き返して、今日の動画素材はものすごくいいものだったのかもしれない。でもこういうことが起こると、どうも自分の人生を少しだけ考えたりする。年齢が違うから、とかではない、明るく楽しく生きるということが出来る瞬間が来るのかな?という怖さが出てくる。
折角なら一度の人生、楽しく行きたいものじゃない。
ドキュメンタリーだけじゃないけど、取材でどんな人からでも
何かしら学べるから面白い。
人見知りな自分としては、この仕事のおかげでどれだけ勉強させてもらってるんだろうな。人と話して、自分の意見聞いてもらって、笑って、怒って、驚いて…そんな普通の人間の会話ひとつひとつが実は好きだし、どんな映画より、どんな本より、どんなテレビより勉強になるのかもね。
しあわせなこったぁ〜。
しかし、人と話してる時に、自分がどういう人間として話そうと考えて話してる人はいるのだろうか??
ヘンナクセ。
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