「ハクチョウの知る、雪」に代えて。『絆光記』の感想

書いてるうちによく分からなくなりました。あとでいろいろと書き直すと思います。


月は太陽の光を反射することで、自らが発光していないにも関わらず、太陽の光が届かない夜においても光の一部を届けることができる。太陽の出ている時間にはみることのむずかしい、星の光と共存することも可能だ。太陽は月の手を借りて夜に光の一部を届けている。
『絆光記』の中で、光を嫌う日陰ものと自身を評するライターは鏡を見ることで、あらためて自分を知ることになる。それは表面の認識であり、光をみていた自分も誰かに光を届ける存在であったということの自覚だ。「役立たずの光」、気持ちを伝達するにはひどく曖昧で、周りを見通すには暗すぎて役に立たない光なのかもしれない。進む歩みを止めてしまう頼りないものなのかもしれない。しかし同時に、5000年もの昔の光をもみることができるかもしれない。ひとり立ちどまり考える余白を確保してくれるかもしれない。
役立たずの光と自重気味に語られるそれらは、暗闇に優しく寄り添ってくれる夜の太陽に近しい形をしていていることを祈りたい。

『絆光記』が伝えたかったものは何だろう。現れる文字文字の断片を読み解した時に、各々の内に浮かび上がってくるいくつかの言葉はあるだろう。拾い集めればおおよその輪郭を捉えることもできるかもしれない。
一方で、物語中に込められたテーマや意図が言葉によって要約できる記号然とした答えのようなものがあるとして、それをそのまま説明したいだけであれば目の前に正解の言葉を持ち出せば済むようにも思う。シャニマスがシャニマスとして、コミュという表現形態を採用した以上、受け取るべきなのはコミュという表現自体であって、テーマや意図を言葉で捉えたところから溢れでた、言葉にならないものを感じ取ろうとする、その態度こそが大切なのかもしれない。個々人の言葉として捉えようと手をのばしてもがくことも、無理に固めようとせず曖昧なままに残しておくことも、等しく尊い行為だろう。
「言葉は、言葉」、多少のいろはついているもののそれ自体は記号として存在するものを、人は毎日のように駆使する。自分と他者、あるいは自分と自分との気持ちの伝達の1手段であり、やり取りを行う個々人の立場状況時々で孕む実態が様変わりしてしまう厄介な代物だ。
だからこそ、それでもと、その言葉たちを選び用いる人人が向き合いひたむきに考えつづけていくことを、想いたい。これまで考え探しつづけてきただろう、彼ら彼女らを見習って。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。 かんじんなことは、目に見えないんだよ」という広く知られている言葉がある。フランスの作家、サン=テグジュペリ『星の王子さま(岩波少年文庫 訳:内藤櫂)』(今年の4月で星の王子様生誕81周年!)の中で使われた言葉であり、地球を訪れた王子が出会ったキツネから教えられ、物語の主人公である砂漠に不時着したパイロットと王子との別れの場面で、王子からパイロットへ届けられる言葉だ。
『星の王子さま』はまた、小説としては最も多くの国と地域の言葉に翻訳されていることでも知られる。その中には絶滅したとされている言語であったり、人工言語(エスペラント語)やクレーオル言語での出版も含まれるらしい。
言葉という目にみえるもの以上の存在があると伝える言葉たちが、空に輝く星星から聞こえてくる笑い声が、小さな王子さまを通して広く多言語に訳され共有されているという事実を、嬉しく思う。言語という現れる記号の違いはあっても、そこに確かにある気持ちの幾ばくかをこころでみる色として共有することを可能にする「物語」という存在に、それらを広く届けようと行動してくださった方々に、あらためて感謝の気持ちを伝えたい。

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