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【小説】ありさの部屋

 そこは、ありさの部屋と呼ばれていました。
 裏庭と向かい合わせになった大きな棚に亜梨沙がいるからです。栗色の髪、青い目、白い肌と桃色の頬。亜梨沙は両親が結婚するときにお父さんからお母さんへプレゼントされたビスクドールです。たくさんのフリルがあしらわれた服に身を包み、いつも棚の上からわたしのことを見下ろしています。
「アリサ、お行儀よくしてね」
 亜梨沙とそっくり同じ布地のたっぷりしたワンピースを着せられたわたしはアリサといいます。亜梨沙と同じ名前なの。でも、いつもお母さんから優しい声をかけてもらえる亜梨沙と違って、わたしは叱られてばかり。
「スカートの裾を踏みつけないで」
 仕方がないのよ。わたしはお人形じゃないのだから部屋のなかを歩き回るのだし、ベットにも横になる。いつかは窓から見える裏庭にも出ていって遊びたい。
「だめよ」
 お母さんは優しく頭の上に手をおいてたしなめる。まただ。
「あなたは身体が弱いの。外へ出て遊んだりしてはいけないのよ」
 外へ出てはいけないわたしの友達は亜梨沙だけ。「ふたりともいい子にしててね」お母さんが部屋を出ていってしまうと、わたしと亜梨沙はいつものようにふたりきり。
 ――ね、お母さんのいうとおり、お部屋で遊びましょう。
 うん、分かってるよ亜梨沙。わたし、お母さんのことも亜梨沙のことも大好き。亜梨沙とお話ししたり、おままごとするのはとても楽しいけれど、たまには外へ出てみたいじゃない。
 ――そう? わたしはそうは思わないけれど。
 それはあなたがお人形だからよ。ああ、外へ出て遊んでみたいな。
 わたしは裏庭に面した大きな窓に近づきます。裏庭一面に敷き詰められた芝生は青々として柔らかそうです。隣家との境には、屋根より高く立派なキンモクセイの木が植わっていて、向かいのおうちとは低い金網のフェンスで仕切られています。あの芝生の上に寝転がって空を見上げることができたら、どんなにか気分のいいことでしょう。でも、この部屋の窓には格子がはまっていて、わたしは外へ出ることができないのです。
 ――ほらアリサ、こっちへきて本を読んでちょうだい。
 わたしは仕方なく窓から離れて、これまで何度も読んできた童話の絵本を亜梨沙に読んで聞かせます。亜梨沙はわたしが絵本を読んであげるととても喜ぶのでした。
 ――ああ、おかしい。あなたの読んでくれる絵本は最高ね。
 上手に絵本が読めているか自分ではよく分からないけれど、亜梨沙に喜んでもらえるとわたしもうれしい。亜梨沙とわたしはとても仲良しです。
 ある日のこと、その日もわたしは窓のそばに座って亜梨沙に絵本を読んであげていました。裏庭を挟んで向かい側の家に、作業服をきた何人もの人が出入りする様子が見られました。だれなんだろう。どうしたんだろう。
 ――引っ越しだわ。わたし知ってるの。
 引っ越し? 引っ越しってなんだろう。
 ――お向かいの家に、新しく住む人がやってくるのよ。どんな人たちなのかしら。素敵な男の子はいるかしら。可愛い女の子はいるかしら。
 亜梨沙がそういったものだから、わたしは窓の外の出来事に釘づけになりました。たくさんの荷物が家の中に運び込まれてゆきます。テーブル、椅子、洗濯機や冷蔵庫。作業服を着た男の人が運びます。本棚、ピアノ……。
 ――ピアノだわ。ピアノを弾く子どもがいるのよ。きっと素敵で可愛い女の子だわ。
 亜梨沙がそういうので、わたしは夢中になって女の子の姿を探しました。日が暮れるまで、ずっと窓から裏庭ごしに向かいの家を眺めていたのです。でも、ピアノの持ち主らしい女の子を見つけることはできませんでした。
 その日の夕方、玄関のチャイムが鳴りました。お向かいの家の人たちが引越しのごあいさつに来たのだと亜梨沙が教えてくれました。玄関先で話すお母さんの声が聞こえてきます。越してきた女の子の声がしないか耳を澄ませましたが、聞こえてくるのは柱時計が時を刻む音だけでした。
 次の日、お絵描きをしようとわたしが窓際で画用紙を広げたときのこと。キンモクセイの立ち木のそば、低いフェンスの向こうに彼女は姿を現しました。ピンクのリボンで結ばれた栗色の髪。秋の空のような青い瞳。陶器のように白い肌とさくらんぼ色をした唇。引っ越してきたのは、ビスクトールそっくりの可愛い女の子だったのです。もっていたクレヨンを取り落とし、窓に両手をついてわたしは彼女を見つめました。
 それから毎日、女の子は裏庭へやってきて、この窓を見て手を振ってくれるのです。わたしはそれを窓の内側から見ているだけです、こちらから手を振ってみても彼女からは、はっきりと見えないようなのです。ひとしきり手を振ると彼女は寂しそうに家の中へ戻っていきます。
 なんてきれいな女の子だろう。お話してみたい、一緒に遊びたい。友だちになりたい。その日も女の子がフェンスからこちらへ手を振るので、わたしは言いました。
 ――だめよ。
 どうして。あの子がほら、手を振ってるわ。きっとあの子だってわたしと友達になりたいのよ。
 窓の外では、女の子がフェンスから身を乗り出して、そのちいさな手を振っています。窓に映るわたしの姿が見えるのに違いありません。
 ――お母さんから外へ出てはいけないと言われているじゃないの。それにこの家は、窓にも扉にもすべて鍵が掛けられているわ。あなたは外へ出られないのよ。
 亜梨沙の言うとおりです。家じゅうのドアというドア、窓という窓には格子がはめられていて、わたしは外に出ることができません。でも、わたしは知っているのです。いつもお母さんが洗濯物を干すときに通っているドアがあることを。洋服ダンスのいちばん上の引き出しにその鍵が隠されていることを。
 でも、わたしはまだ小さいので洋服ダンスの引き出しに手が届きません。背伸びして手を伸ばしても、引き出しはそのずっと先です。わたしは絶望的な気分なりました。
 ――ほらね。無理なのよ。だからね、いつものように絵本を読んでちょうだい。
 わたしをなだめるような、からかうような亜梨沙の声にさあっと血の気が引いていくのを感じました。嫌です。わたしはそんなの嫌なのです。お母さんや亜梨沙の思い通りにはなりたくないの。
 かっとしたわたしは足でスカートの裾を踏みつけると、襞ひだのたくさんついた洋服を思い切り引き裂きました。びりびりと布地が裂けてゆき、ロングスカートがミニスカートに早変わりです。いつも脚にまとわりついてきたスカートから解放されてすごくいい気分です。
 ――やめて!
 勢いをつけてベッドに飛び乗りました。そのまま何度か飛び上がって弾みを付けます。そしてビスクドール――亜梨沙の置かれている棚の上へジャンプ。すごい音がして、棚の上に飾ってあった花瓶や写真立てが床に落ち、並べてあった絵本が飛び散ります。ビスクドールも横倒しになって転がるとゆっくり落ちていきました。床とぶつかる鈍い音がして人形は動かなくなりました。
 ――あぶ……な……い……わ……。
 それから洋服ダンスの上に飛び移るとあとは簡単でした。いちばん上の引き出しからドアの鍵を取り出すと、わたしは床に飛び降りて部屋を出ます。そして廊下を走っていって、裏庭へと続く大きなドアの鍵穴に鍵を差し込みました。ガチャリ。鍵を回すと重々しく錠の外れる音がして、ゆっくりとドアは開いてゆきました。

 最初に感じたのは風でした。
 外の冷たい空気は揺れて風になるのです。風に乗って流れてくる爽やかな香り。青い芝生。思ったとおり柔らかくて、少しちくちくします。なんて気持ちがいいんでしょう。
 向かいの家の方を見ると、はじめてこの家のドアが開いたことに驚いて、女の子が目をまるくしています。「出てきたあ」とかわいい声が聞こえてきました。栗色の髪の毛が日の光に輝いて、お姫様のようにきれいです。わたしは、にこにこしながら手を振っている彼女のもとへ駆けてゆきました。
 ところが、近づいていくにしたがって女の子から笑顔がなくなり、逆に表情が引きつっていくことに気づきました。
 変です。
 おかしい、彼女になにかあったのでしょうか。
 お腹のなかからなにか塊のようなものがこみ上げてきて、わたしは胸が苦しくなってきました。急いで向かいの家とわが家を区切るフェンスに駆けよると、女の子はわたしを見て激しく泣きはじめました。
「サルが……、サルよ!」
 あまりにも激しく泣き叫ぶので、わけがわからなくなったわたしは、彼女を慰めようと手を伸ばします。すると彼女はそれを避けようと地面に転んでさらに声を上げて泣き叫ぶのでした。呆気に取られるわたし。そこへ女の子の声を聞きつけて、家の中から大人の女性が現れました。女性は庭に倒れている娘を見つけると真っ青になりました。
 ちょっと待って。これはこの子が……。
 わたしは一所懸命説明しようとしましたが、のどから出てくる声は「ギャッギャ」とか「キイキイ」といった唸り声ばかりです。
 バシッ。
 肩になにか固いものがぶつかって身体がふらつきました。石です。女の子の母親が、わたしめがけて投げつけた石のひとつが、わたしの肩に当たったのです。
「しっ! しっ! あっちへ行け!」
 ガツン。
 その石のひとつが額に当たり、わたしは目がくらんで膝をつきました。びっくりして頭を抱えた手のひらがじっとりと濡れてきます。おそるおそる額に当てた手を開いてみると――その手は黒くてしわだらけで長い毛に覆われていました。
 黒い毛むくじゃらの手は、人間のものではありません。それでも真っ赤な血がにじんでいました。
 わたしはだれ? アリサ? 亜梨沙? それとも――。 
 わたしはフェンスから飛び退ると、血で汚れた洋服を脱ぎ捨てました。なんどもなんども踏みつけました。そしてフェンスのそばに立つ大きなキンモクセイの木につかまったのです。なにも身に着けないわたしは身軽で、木の枝をするすると伝ってゆけます。いっぱいに咲いているだいだい色した小さな花が零れ落ちて、濃い香りがわたしの身体を包み込みました。すると手や足に木を登るための力がみなぎってくるのでした。
 キンモクセイの梢にまで上ると、眼下に世界を見渡すことができました。小さな家と小さな庭、ずっと続く家々の屋根、家と家のあいだを縫うように走る道、街を覆っている青い空、白い雲。そこには果てしなく続く世界が広がっていました。
 隣家の庭から、亜梨沙によく似た女の子とその母親が何が起こるのだろうとわたしを見上げています。
 あなたたちには感謝するわ。
 わたしは一度だけわが家とじぶんの部屋を振り返り、世界へ向かって最初のジャンプをすると、隣家の屋根に飛び降りました。そして走りだしました。
 二度とわたしがありさの部屋に戻ることはありませんでした。

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