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屋久島旅行記

 耳の痛みで目を覚ます。僕はイヤホンを外して途切れ途切れの意識をつなぎ合わせる。昨日寝ずに取り組んだフランス語の課題は、結局終わらなかった。飛行機は着陸態勢に入ろうとしている。揺れる。雲の中を抜けると外は雨が降っていた。極めて無駄のないコンクリートの地面が近づいてくる。
 飛行機を降りた僕は友人と合流する。いつもとは違う場所での待ち合わせだが、いつもと同じように僕たちは挨拶を交わし、バスへと乗り換える。なぜか左の車窓から見えるイオンの看板が馴染み深く感じる。漁港で刺身と貝汁を堪能した後、レンタカーをフェリーに乗り入れる。
 モヤの向こうにあった桜島が近づいてくる。おぼろげな輪郭が徐々に鮮明になる。モヤは雲だろうか噴煙だろうか。雨が眺望を阻む。僕たちが向かった展望台のトイレの軒下に猫がいた。猫は可愛い生き物だ。この島には行く先々のスポットにたくさんの猫がいる。ひとしきり僕たちに撫でられた猫は後ろのカップルに擦り寄る。それを見て友人が呟く「観光地の猫はパパ活と同じだ」。確かに、と僕は納得しかけたが、どこかに違和感を覚えた。確かに猫たちは撫でられるために誰にだって擦り寄る、もしかしたら彼らは食べ物を求めているのかもしれない。他方、わたしたちはすり寄ってくる猫たちを撫でることを目的とし、撫でている。そこにあるのは、サービス−対価の交換関係ではなく、両者の行為と欲望が重なり合った地平である。猫とわたしたちが参加するのは欺瞞的なゲームではなく、純粋な戯れなのだ。

 薄暗い空がその暗さを濃くするにつれ、睡眠不足の僕の目はカラッカラに乾いてしまった。運転しようにも目が開かなくなってきたので目薬を買い求める。しかし、コンビニを3軒ほど周り、スーパーマーケットも覗いてみるが見当たらない。この島では目薬を買えないのだろうか、などと友人と軽口を叩きながら、僕は目薬を諦めた。空は本格的に闇を迎え入れようとしていた。
 足湯から鹿児島の市内が見える。幸い雨の切れ間に僕たちはいた。僕たちは漫然と何本かのフェリーが海上を行き来するのを眺めていた。機械的な往復の中にも、それぞれの物語があるのだろう。そうして、僕たちもフェリーの上の人となった。
 その日の夕食には黒豚のしゃぶしゃぶをいも焼酎とともに楽んだ。焼酎については無知であるため、僕は店員のお姉さんにおすすめから飲み方まで尋ねる。現在、鹿児島では炭酸割りが流行っているそうだ。メニューにあったコース料理の「西郷膳」の下のグレードが「大久保膳」であるのが、当地での両者の人気を如実に表していて可笑しかった。

 帰りしなにドンキホーテが見えたので、僕は目薬を買い求めようと中に入る。気持ちの良い浮遊感の中で目薬を買い、再び歩き始めた。僕は友人の問いかけに生返事を返しながら、心地よい酩酊の中に身を任せていた。その時僕の身体に衝撃が走る。驚きとともに酔いが飛ぶ。僕は歩きながら街路樹にぶつかったようだった。ポケットを探ると目薬の他に見知らぬサプリメントが出てきた。買った覚えのない商品に僕は少し恐怖を覚える。しかし、友人が言うにはそれも僕はちゃんとレジに運んでいたようだ。お酒の飲めない彼の前でこれほど酔ったのは初めてだった。
 
 酔いに任せた眠りから覚める。枕元に転がったイヤホンが破損していた。少し憂鬱な気持ちを励まして支度をすまし、チェックアウトする。フェリーの乗り場を間違え、正規の乗り場へと走る。僕たちの旅はいつもこうだ。それでも、フェリーには間に合った。昨日とは打って変わっての晴天により桜島がくっきり見える。今日ははっきりと噴煙が上がっているのが確認できた。桜島の住人は外に洗濯物を干せないのだろうか。だとしたら彼らは乾燥機を持っているのだろうか。下らない想像を膨らませる。やがて、綺麗な三角形を描く開聞岳を背にした船は揺れ始める。僕はフランス語の翻訳を諦めiPadを閉じる。甲板に出ると小さく島が見えてくる。竹島と硫黄島だろうか。しばらくすると背の高い島が見えてくる、屋久島だ。

 僕たちは島へと降り立ち、歩いてレンタカー屋へと向かう。話を聞くと港に迎えが来ていたらしい。レンタカーを借りたところに運転手のおじいさんが帰ってくる。僕が彼に謝ると彼は「楽しんできてください」と返してくれる。ああ、いいな、と思った。
 僕たちは雲水白谷峡に向かう。「もののけ姫」の世界観の元になったとされる森だ。車窓から見える猿に挨拶をしながら山を登る。登山をするには少し遅い時間かもしれない。山道を進みながら屋久杉を拝む。僕たちはすれ違う登山客に挨拶をする。日頃、ここまで挨拶をする日もない。私たちが普段住む世界に失われたものがここにはあるのかもしれない。それはまさに一期一会、刹那に開かれるコミュニケーションの可能性だ。
 二代大杉の前で、おじいさんに写真撮影を頼まれる。同じくらいの年齢のおばあさんと彼より若いおばさんがいる。家族で来たのだろうか。僕は彼から渡されたデジカメで何枚か、構図を変えながら撮る。彼らと別れた後、友人が僕に向かって笑った。何枚も写真を撮るから彼らが困惑していたと。
 険しい道に差し掛かるとすれ違う人もいなくなった。息があがってくる。呼吸が荒くなるにつれ、おいしい空気が肺を満たし身体を駆け巡るのがわかる。いくつかの著名な杉をまわる。

 民宿への途中で洋菓子を買う。ケーキのショーケースの前で、世界の存亡をかけた選択を迫られている僕を店員のお姉さんが笑っている。彼女と他愛もない会話を交わし、会計をすると、お姉さんは煎餅をサービスしてくれる。
 民宿にチェックインすると受付のお兄さんが予定を尋ねてくる。想定外の会話に僕は少し戸惑いながらも予定を答える。とはいえ、緻密に考えているわけではない。明日は島を一周して、明後日は縄文杉に行こうかと思っていると説明すると、彼は明日回るべきポイントをいくつか提案してくれた。そこには僕たちが事前にネットでさらっと調べた中にはない場所も含まれていた。
 夕食を食べようとハンドルを握る。街灯のない道が眠気を誘う。信号で止まったら目薬をさそうと考えたが、信号がない。音楽で眠気を紛らわしながらなんとか焼肉店に辿り着く。屋久鹿の焼き肉が食べられるお店だ。店内は家族連れなどで賑わっていた。屋久鹿は脂身が少なく、身が引き締まっていて美味であった。帰りは友人に運転を任せ、僕は微睡の中に落ちていく。

 朝、少し早く目覚めた僕は物音を立てないようにフランス語の課題を終わらせる。7時になると町内放送が流れる。これは毎朝流れるのだろうか、だとしたら彼らはなんと早起きなんだろう、などとくだらないことを考える。そして、起きだした友人と共に食堂に降りる。普段独りで暮らしていると誰かと一緒に朝食を食べることなどほとんどない。新鮮で楽しい時間だ。
 この日は当初の予定通り、1日かけて屋久島をまわることにした。まず、屋久杉自然館に向かう。そこでは屋久杉について、屋久杉と人間の関わり合いが語られる。屋久島は地面が隆起してできた島であり、そのほとんどは花崗岩でできた山である。元々、屋久島の山は島民にとって神聖な場所であり、人々が立ち入ることはなかった。しかし、それが変わったのは江戸時代だった。薩摩藩の統治下にあった屋久島は当然年貢を納めることを要求されるのだが、米を取れる土地ではなかったため、1人の儒学者の提言により屋久杉が年貢として納められるようになった。それが屋久杉の伐採の始まりである。そして、戦後、木材需要が高まるにつれ屋久杉の伐採は国家的プロジェクトとなり、伐採事業は大いに隆盛した。次第にそこで働く人も増え、家族で移住するようになり、小杉谷という集落ができた。小学校や中学校ができるほどに栄えた小杉谷だが、昭和40年半ばには森林保護の声の高まりや国産木材の需要低下により屋久杉の伐採は大幅に縮小し、昭和45年には小杉谷も閉所となった。それにより作業員たちが住んでいた集落も閉所となり、その後、屋久杉の伐採自体が禁止された。伐採禁止後は江戸時代などに切り倒されて森に残っていた土埋木が運び出され、取引されるようになったという。
 そこで描かれていたのは自然と人間のせめぎ合いであり、共生の可能性であった。放映されていたドキュメンタリーで描かれた1人の山師の姿がそれを如実に伝えていた。その山師は高田さんという。彼は19歳の頃から屋久杉の伐採に携わり、伐採が禁止された後も土埋木の採集に携わった。そうした彼の腕は一流であったという。彼は仕事とともに屋久杉の苗木の植樹、山のし尿問題の解決などにも尽力した。彼がインタビューにて語っていたのは「森からもらった分を返さないと」ということだった。彼は目を細めながら200年後、300年後の森は想像できると言い、言葉を止める。インタビュアーが「植えた苗木が育つのを見たいですね」と振ると「そうですね」と、彼は遠くを見つめた。シーンはそこで切り替わる。高田さんは2013年に逝去したという。映像の雰囲気から察するにインタビューからそう日は経っていないと思われる。もしかしたら彼はもう自分が長く生きられないことを知っていたのかもしれない。それでも彼は山に出続け、土埋木を採集し、苗木を植えたのかもしれない。そして、彼にはこれからの森が本当に見えていたのだろう。彼が示したのは森から奪った後、森を再生させるといった一方通行的な、人間が主体的な森との関係ではなく、人間も自然の一部として森と関わりあう姿勢であったように感じられた。
 土埋木の採集は2015年、土埋木の減少により終了した。元々事業を行っていたのは林野庁であり、打ち切りを決めたのも彼らだ。それにより山師の技術は永遠に失われてしまった、とドキュメンタリーは締めくくられた。そこには屋久島の中央へ対する静かな怒りが読み取れるかもしれない。屋久島の人々は屋久杉をめぐって常に島外の「よそ者」によって振り回された、と見えるかもしれない。
 当初の予定を大幅に超過した僕たちは昼食の後、昨日民宿のお兄さんが勧めたガジュマルへと向かう。カーナビが指し示す場所に着くも、駐車場の表示もあやしい。入り口の標識もないが、草木が分けられた小径のようなものを僕たちは進んでいく。そこはまた、屋久杉の匂いとも違う、独特の香りのする場所だ。日のさし方が違うのだろう。印象的な木漏れ日の中で僕たちは木に登り、写真を撮る。その間僕たちの他にここにくる人間はいない。

 その後、樹之香というアクセサリーショップに立ち寄った。そこで僕は前述の高田さんのエピソードを通じて突きつけられた「労働」とはなにかという問題を改めて考えることになる。それはつまり「労働」が「交換」される「市場」の話でもある。改めて確認しておくと、市場交換はあくまで交換関係だとされている。しかし、私はここで必ずしも交換の概念に収まらない市場交換の可能性について言及したい。そして、その可能性が閉ざされようとすることで私たちは労働を贈与することすら「許されなくなる」のだ。
 交換ではない市場交換の要素とは、つまり、「共有(シェアリング)」である。ここでの「共有(シェアリング)」とはモノの共有(シェアリング)ではない。それはもっとスピリチュアルな、人格の共有である。その可能性は私たちのすぐ近くで開かれている。例えば私が登山靴を神保町で買った時、見るからに登山オタクの専門店のおじちゃんが靴を勧める。そこで値切り交渉が行われ、私は靴を買うのだが、それはただの靴ではなく、彼が好きでたまらない靴だ。そこには間違いなく彼の人格の一部が宿っている。この「人格の宿ったモノ」という考え方は「贈与」の概念によく見られるものだ。マルセル・モースが「贈与論」にて提起した「マナ」の慣例は現代の市場交換の中にも残っている。
 それが「樹之香」にあったのだ。そこで店主が私に次のような言葉を向けた。「カッコいい物は高いよ。」そこにあるのは自らが作った物がカッコいいという自信であろう。確かに、そこに市場交換の営業的な側面が彼らの言動に現れていたことを私はあえて否定はしない。ただ、それだけで説明がつかないものがある、そしてそれが利益計算に裏打ちされたものではなく、彼らの人格そのものなのだと私は考える。彼の「カッコいい」という自負であり、誇りなのだと。
 「樹之香」を後にした僕たちは滝を眺め、湯泊温泉へ車を走らせた。そこは文字通り波打ち際にほったかされている温泉であった。潮と森の香りが交叉する場所で生まれたての姿で湯につかっていた僕たちはいつの間にか冷たい海水の中にいた。暫く震えながら太平洋にいた僕らは温泉に人影を確認し、一目散に元いた場所へと駆ける。石が足の裏に刺さって痛い。しかし、この島で細かいことを気にする必要はないのかもしれない。なんなくやり過ごした僕たちは笑う。振り返ると服と靴が“エモい”感じに積まれている。こうしたさりげない景色がきっととても大事なんだと感じる。

 僕たちは夕日を見るために夕日が綺麗だと言う岬へ向かう。しかし、時間がない。僕は適当なところに車を停め、砂浜に降りる。海の彼方にオレンジの太陽が見える。僕と太陽を隔てるものは、何もない。僕たちは思い思いに写真を撮る。やがて、僕たちはスマホの画面越しに世界を覗くことをやめる。これから何十年後、この景色を思い出せるだろうか。死に際の走馬灯にこの世界で1番美しい夕陽を持ち込めるだろうか。そんなことを考えていると背中からは闇がやってくる。僕たちはどちらともなく立ち上がった。星たちの時間が始まる。

 カーブを曲がったところに猫が現れた。僕は慌ててハンドルを切る。左のタイヤに嫌な衝撃がはしる。空いているところに車を止め、戻ってみるが何もない。安心と不安が入り混じる中で猫の鳴き声が聞こえた気がした。
 その日は夕食の場所を探すのに手間取った。目星をつけていたところは総じて閉まっていて、どこも灯りを落としていた。こんな日もある、と思いながらも探していると一軒の居酒屋に行き着いた。ドアを開けるとおっちゃんがギターを抱えて熱唱している。こちらなどお構いなしだ。僕が声をかけると彼は少し気恥ずかしそうに歌うのをやめる。
 店内に客は僕たちだけだった。途中で山帰りの男性が来たぐらいだ。メニューに「トンカツ」と「涙のトンカツ」がある。僕たちはもちろん「涙のトンカツ」と、いくつかのつまみ、それに僕は焼酎を、友人はコーラを注文した。僕たちは果たして「涙のトンカツ」にどんなエピソードがあったのかと話し合った。「きっと店長が路上で歌っていた時に本当に辛いことがあってその時に食べたトンカツなんだろう」ということで一旦落ち着いた。若めの女性が「涙のトンカツ」を運んでくる。僕は、なぜそれが「涙のトンカツ」なのかと彼女に尋ねる。女性は恥ずかしそうに「中にわさびが入っているからです」を答え、席を後にする。きっとおっちゃんの娘さんなのだろう。いかにもあのおっちゃんが考えそうなことではある。さて、めいいっぱいにわさびが挟まった「涙のトンカツ」であったが、これがなかなかどうして美味であった。揚げてあるせいか、わさび特有の鼻にくる辛さがなく、わさびの風味を楽しめた。涙が出るような味ではない。

 縄文杉に登る朝は早い。僕たちは手早く準備をし、車に乗り込む。空はまだ暗い。途中轢かれた猫が道路に倒れていた。保健所などに電話をするが繋がらない。僕たちは手を合わせてその場を後にする。生命は常に再生産されている。
 友人が車内で調べたところによると、縄文杉に行くには途中からバスに乗らねばならず、そして、午前6時の便が最終なのだという。ただ、そんなことも調べていない自分たちを笑う余裕があった。それでもワゴン車が猛スピードで僕たちを追い抜いた。僕たちは彼らに悪態つきながら走った。しかし、その後、なぜ彼らがそれほどまでに急いでいたのか知ることになる。
 5時50分僕たちはシャトルの駐車場に着く。それからバス乗り場に向かうとバスの最終便は5時45分だとおじいちゃんが言う。唖然とする僕たちを前におじいちゃんは、今日は人が多くてバスがもう一回出るから大丈夫だと告げる。こうした一悶着がありながらもバスに乗り込む。「まぁ猫のこともあったし。」車窓から山々の切れ目から顔を出す朝日が見える。1日が始まる。
 トロッコ道を歩きながら僕たちは思い思いに写真を撮りながら歩く。名もない木に目を向ける人は少ない。僕たちが写真を撮っていると夫婦が僕たちを追い抜く。僕たちが歩き始めるとまた彼らを追い抜く。途中、ガイドさんが率いる集団と何度か出くわす。トロッコ道は狭く、後ろから人が来たら端によって道を譲らなければならない。それが暗黙のルールであるらしい。僕たちも何度も道を譲ってもらい、何度か立ち止まり、端に寄った。

 自然と人間の関わり合いへの葛藤が解説看板に見て取れた。「(前略)昭和30年代には、木材生産の増強が国民的要請となり本格的なヤクスギの伐採が行われました。ここ(筆者注:小杉谷のこと)で働く人も増え最大時540人の集落になり、小中学校もできました。昭和40年代半ばには自然保護の要請が高まる中、その使命を終えた小杉谷は、昭和45年に閉山となり、人々も山を去っていきました。この周囲の森林はほとんどがヤクスギを伐採した跡ですが、自然の力に人が少し手を加えながら、元の原生的な森林へと甦えろうとしています。」別のものには「(前略)これから進む、歩道周辺のスギを見てください。林内の所々にも右図のように切り株や倒木の上に生えているスギが見られます。これは、300年以上も前に伐採された後の切り株や倒木の上に種が落ち、それが発芽して生長したもので、このような木の再生をそれぞれ切株上更新、倒木上更新と言います。このように、屋久島の森には長年にわたる、自然と人々の関わり合いの歴史が深く刻まれています。」これらは両方とも林野庁九州森林管理局屋久島森林管理署によって建てられたものだ。しかし、この2つには同じ役所が書いたとは思えないほど顕著な違いが見られるだろう。前者はあくまで人間が主体的な関係性だが、後者には双方向的な「関わり合い」が強調されている。そしてこの「関わり合い」は屋久杉自然館にて放映されていたドキュメンタリーに通ずる部分があるだろう。また、前者にある、主体的に集落を去っていた人々という部分にも注目されたい。森林伐採が誰によって批判され、誰によって禁止され、それが誰に対して影響を与えたのか、そして、誰の生活を変えてしまったのか。そうしたことをわたしたちは考えなければならない。この社会では自らの生活に関わるものが巧妙に隠され、すべて金銭で解決できるような錯覚を起こしてしまうから。
 仁王杉や三代杉の前で立ち止まる。どうしても名前がついた木の前で立ち止まり、特別そうに、それらを撮ることに違和感を覚えながらも、僕はスマホを杉に向ける。仁王杉のうち、たっているのは阿形であるとガイドさんが話しているのを盗み聞く。吽形の杉の方がより吽形に似ていたのだが倒れてしまったのだそうだ。三代杉は倒れた屋久杉の切り株に新しい杉が植生し、三代目が現在、たち伸びている。屋久島は花崗岩が隆起してできた島で、土壌が貧しいため、屋久杉は何百年もかけて成長する。それが3代続いているのだ。およそ一個人の時間感覚を超える時がそこには流れているのだろう。
 トロッコ道が終わると道は険しくなる。時に手で岩を掴みながら進む。ウィルソン株までつくと大勢の人がそこで一息ついていた。ガイドさんが話すには、ウィルソン株の木が倒れたことで周りの木に日光が降り注ぐようになり成長したのだという。大きすぎる木は他の木の日光を遮断する。そして、それが倒れた時、周りの木が成長する。そうした循環の中で森は再生と破壊を繰り返すのだ。僕たちは人びとが殺到しているウィルソン株をじっくり見ることをあきらめ、先へ進んだ。
 大きく息を吸い、吐く…その行為の繰り返しで四肢が軽くなっていくのを感じる。僕は飛び跳ねながら、ときに小走りで進み、立ち止まり、友人を待つ。疲れると僕は多弁に、友人は無口になる。普段は生まれないその空気に、僕は少し居心地の悪さも感じる。すれ違う人が多くなる。僕たちは道を譲り合い、短く挨拶を交わし、二度と交わることのないであろう他者と刹那の交流を取り結ぶ。
 開けた場所が見える。縄文杉まで着いたらしい。保護のための展望台からはその迫力は半減してしまうのだろう。距離というものは「感じる」という行為においてはとりわけ重要性を増す。それでも人はスマホを構え、縄文杉をバックにポーズを決める。僕たちを含めて。「さすがに一緒に撮るか」何度も共に旅した友人であったが、彼と同じ写真に映ったことはなかった。見ず知らずの人に依頼し、友人とのツーショットを撮る。見ず知らずの人と言えど、街で交わるのと森で交わるのではその様相は大きく異なる。僕たちが写真撮影を依頼した男性は友人にスマホを返す時に言う。「これ、画面の線入ってるの面白いね」そのスマホはカメラを起動すると画面に9分割のグリッドが現れる。友人は答える「これがあると撮りやすいかなって」些細な会話だが、きっとこの山でしか生まれないであろう会話だ。すれ違う際の、なんてことはない挨拶もこの場所でしか生まれないだろう。すれ違う人の数でいえば都会の駅の方が多いかもしれないが、都会の駅ではコミュニケーションの可能性はほとんど閉じられている。だが、この山では自然と会話が生まれる、そういった空気がある。話しかけることが憚れる雰囲気が希薄だ。それでも、ガイドの中には自らの顧客でない人間と関わりたくない人間は多いようだった。「仕事」だからといえばそれはもしかしたら当然なのかもしれない。それでも僕はそこにどこか寂しさを感じてしまう。
 亀仙人を名乗る某有名漫画のキャラクターにインスパイアされたであろうガイドが大きなリアクションをとり、客を笑わせている。彼はどうしてその風貌に至ったのだろうか。それを知る由はない。きっと彼と腹を割って話すことなどできないだろうから。それは孤独と呼ぶにはあまりにもありふれたものかもしれない。ただ、市井の他人に対して僕が感じるものに、他の名前が思いつかない。

 縄文杉の奥に簡易トイレがあったのでそこで用を足してから山を下ることにした。そこまでの道は想像以上に長く、僕たちは少し不安になった。果たして辿り着いたトイレはたくさんのハエがたかっていた。個室のドアを開けるとハエの羽音が聞こえる。僕は虫が苦手だ。僕はそこで用を足すのを諦め、木陰で携帯用トイレを広げた。自然の中で用を足すのはどこか気持ちのよいものであった。
 人もまばらになった縄文杉まで戻ると、僕は「じゃあな」と心のなかで呟き、彼を一瞥した。僕たちも山を下る。途中の分岐を自然散策路の方に進む。険しい道をあえて通る人はいなかった。極めて人の手が加わってなさそうな道をピンクのビニールの目印を頼りに進む。途中何度も立ち止まり、目印を探した。ときにビニールを巻きつけられた枝は落ちていた。僕たちはそうした目印がなければすぐに迷い、帰ることすらできない、そうした存在なのだと認識する。

 トロッコ道まで降った僕たちは帰りのバスの時間を気にし始める。バスに乗り遅れることは考えにくいが、できるだけ早い時間のバスを目指し早歩きで歩き始める。やがて僕たちは走り出す。誰かの背中が見えたら早歩きになり追い抜き、彼らから離れたらまた走り出す。途中エメラルドブルーの川を見るために立ち止まる以外は休憩もなく、歩を進めた。やがて僕たちは走るのをやめ、歩き始めた。別に次のバスだっていいんだ。それでもトロッコ道をわざわざ走ったのは決して時間が惜しかったからではない。僕はただ走ってみたかった。そこにとってつけたようにバスの時間を提起したに過ぎない。心地よい肉体の疲れを感じた。
 バスの車内で友人はうたた寝をしている。僕は立ち寄れそうなカフェを検索する。あの山に全くピュアな自然はなかった。そこは人が立ち入るためにメイクアップされたものであった。山道にある手すりもピンクのビニールも。きっとこの地球にピュアな自然など、もはやほとんど残っていないのだろう。しかし、それは悲観的なことではなく、人と自然の関わりの最中にわたしたち自身がいる、ということなのだ。
 コンビニとケーキ屋がくっついたような場所でモンブランを食べる。甘みに身体が喜ぶ。コーヒーは淹れてから随分時間が経っているらしく不味かった。壁に貼ってあるポスターが会話をつくる、友人と同じ苗字の表札があるだけで会話が生まれる。そんな関係はきっと得難いものなのだろう。
 サウナのテレビは鹿児島の離島の無人島で米軍の演習があったことを伝える。元島民のインタビューがあった。島を有効活用してほしいというもの、有人島に悪影響が出なければという話。その村では無人島への米軍基地の誘致を目指しているようだ。理由は補助金だとニュースは伝える。そして、鹿児島で行われた祭りの様子、天気予報が流れる。明日は雨だそうだ。
 昨日は浸かれなかったぬるま湯の温泉に肩まで浸かって大きく息を吐く。友人と他愛もない話をしながらいつの間にか微睡の中に落ちる。誘うのは何事かをやり遂げた多幸感だろうか。
 駐車場に出て、ふと空を見上げる。空には文字通りのまんてんの星が輝いていた。僕たちはしばらく星空を見上げ、友人はスマートフォンで星空を撮影しようとし、僕はカーオーディオでaikoの「星のない世界」をプレイした。軽自動車の貧弱なスピーカーを車外で聴くのは、音質という観点で考えれば普段の体験には到底叶わない。しかし、音楽を聴くという行為を文脈で捉えるならば、これ以上の経験はなかった。「とても大事な宝物をあたしはやっと手に入れたんだ胸が病みそうで」僕は素直にこの美しい世界の一部でいられていることに感じ入った。
 夕食を民宿の近くの寿司屋でとる。メニューにはなかったが「愛子」があるかと尋ねる。おばちゃんはさも当然そうにあると答えた。僕はロックでそれを頼み、地魚の握りとともにいただいた。焼酎がこれほど美味しいと初めて知った。食事も切り取ることのできない文脈の中にある。
 夜も深まる中、民宿の洗濯機を回しながら僕たちはそれぞれ音楽に浸っていた。交代交代でマッサージ機に足を突っ込み、僕は屋久島の観光情報誌をパラパラとめくる。やがて、洗濯が終わり、乾燥機に洗濯物を入れようとベランダに出る。先客のおっちゃんが、どこから来たのか僕たちに尋ねる。僕たちが東京から来たこと、今日縄文杉に行ったことを告げると、彼は自分が鹿児島本島からビジネスで来たこと、縄文杉には行ったことがないと明かす。そんな彼が縄文杉はどうだったか、さらに尋ねる。「すごく…良かったですよ」どうしてこんな時、言葉はこれほどまでに不自由なのだろう。「おやすみなさい」と彼と別れる。彼に朝の挨拶をすることはなかった。

 小雨の中、デッキにでる。屋久島が遠のく。船内の小さなテレビでは2000年代後半のドラマがアナログテレビで流れている。aikoが主題歌を歌っていたドラマだとタイトルを見て思い出す。友人は早々と寝てしまった。手持ち無沙汰になった僕はドラマを見る。今ではフェミニズムの槍玉にあげられそうなドラマは特別面白いわけでもなかった。ドラマが1話終わり、aikoが「横顔」を歌う。こんなところでこんなaikoが聴けるとは思わなかった。ドラマは4話まで流れると、ブラウン管は黒を映し、しばらくしてNHKの国会放送に切り替わった。僕は目を閉じる。

 乗り込んだ路面電車に高校生がたくさん乗り込んでくる。狭くなった車内にスーツケースを引く僕は、どこか居づらさを感じる。でもどうしようもないのだ。言葉を探しても、それが音を持つことはない。
 
 最終日、指宿までの道で懐かしいコンビニやファーストフードショップの看板を見る。屋久島が非日常を演出したのはきっとそうした「見慣れたもの」がなかったからだろう。露天風呂に浸かる。日本でも有数の眺望の露天風呂らしい。確かに絶景だ。風呂の縁でおっさんが寝転んでいる。僕たちも寝っ転がってみる。秋の温かな日光とそよ風が気持ち良い。風呂に一人のおっさんと数人の少年が入ってくる。脱衣所ですれ違った集団だ。子どもたちは発達障害のようなものを持っているのだろう。こういう時どんな反応をすればいいのかわからない。何か特別扱いしたり避けたりするのも違うだろうし、とはいえ意識しないこともできない。自らの挙動が何か違うことを、自らの目線がどこかぎこちないことを感じずにはいられないのだ。おっさんはしきりに子どもたちを注意している。引率なのだろうか。ただ、彼らは風呂の端で寝っ転がっている僕たちよりも「ちゃんと」風呂に入っている。
 昼食を済ませた僕たちは知覧特攻平和会館へと向かう。僕の実父が是非と勧めてきた場所だ。そこには特攻兵の写真が壁面を埋め、手紙や遺品が展示され、記録映像が流れていた。そこで感じたのは匿名性への拒絶、どこまでも文脈にしがみつこうとする人々の思いだった。手紙に書かれる「お国のために」、残していく家族への心配、弟への激励、それと対比されるように実際に特攻隊員に接した女性が語る彼らの弱音。英雄ではなくとも、そこにはたしかに「わたし」がいて「あなた」がいた。彼らの葛藤は妙にリアルで何かを感じずにはいられない。わたしたちの住む世界では連日、何人が死にました、今では何人が感染しました、といったニュースが流れている。そうしたニュースはどうしても他人事のように聞こえ、リアリティが希薄だ。その数字1つ1つに「わたし」がいて彼ら彼女らの文脈には無数の「あなた」がいることをわたしたちはともすれば忘れてしまう。しかし、そこにあった関係が、コミュニケーションが、人を人たらしめているものなのだろう。それは物語ではない。
 先に飛行機に乗る友人を空港にとどけた後、僕は雨の高速を独りで走る。カーオーディオでaikoが歌っている。「秘密」、僕のお気に入りのナンバーだ。雨をかき分けながら、一人でぼんやりと考える。旅という非日常は、組み込まれた日常の一部なんだと。今日、僕は帰る。そうしたら、また日常が再開する。
 僕は帰り道が嫌いだ。小学生の頃、友達と遊んで帰る道が嫌いだった。家族旅行で見慣れたICの名前を見るのが嫌いだった。決められた終わりをなぞることが虚しかった。それでも帰らなければいけない。それは、僕がどこにも行けないということを確認する作業なのかもしれない。そうして、僕は飛行機に乗った。


 ふと夜空を見上げる。別に僕は七夕だから、流星群があるからといって星空を見ることはなかったし、どれがベネブでどれがアルタイルかもわからない。それでもふとしたとき、悲しいことがあったとき、辛いことがあったとき、嬉しいことがあった帰り道、恋をしたとき、星空を見上げてきた。
 この街の空は狭く、暗い。ビルに切り取られ、照らされる夜空に星なんて見えやしない。星々の代わりに輝いているのはビルの明かり、ネオン広告、看板、そんなものばかりだ。
 星を眺めるという行為は無意味なものだ。誰かのためになることでも、もちろんそれでお金が得られるということもない。ただそこには星を見るという行為自体が目的として存在しているのであり、手段・方法と目的が一致した極めて欺瞞的ではない営みだ。人は昔から夜空に想いを馳せてきた。屋久島の星空は綺麗だった。そして、僕も確かにその星空の一部だった。そこには僕が星を見ることを阻害するものはなかった。無意味な行為を、金のために奪われることはなかった。
 星たちの光はまさに彼らが燃える光だ。いつか彼らも燃え尽きてしまう。今見ている星の中にも僕たちに光を届け、既に燃え尽きたものがあるかもしれない。僕たちはそこから何を受け取れるだろう。不可逆的な時間と、薄れながら重なる記憶が交差した世界で僕たちは何を見るのだろうか。
 

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