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熊野神社の南東にあった凖提堂

黒山翠山撮影の熊野神社、1928年(昭和3年)の百万遍-熊野神社前市電開通以降ごろか 歴彩館デジタルアーカイブ所蔵

 熊野神社はその昔、今より境内が広かった。市電開通を機に丸太町通りが境内を貫通し、南北に分かれた。その南側にあった建物や仏像がどこに行ったのか調べてみた。今でいう、交差点南側のファミマ聖護院店から三菱東京UFJ銀行のあたりだ。

イラストで見る熊野神社

 現在の熊野神社は南が丸太町通り、東が東大路までが敷地だ。郷土史家竹村が描いたイラストがある。

竹村俊則 昭和京都名所図会 2 (洛東 下)  出版者 駸々堂 1981.10 p. 198

 昭和期に市電が通っていた交差点なので、角が丸く道路が広くとられている。熊野神社境内は、昔はもっと南東に広い。1864年に描かれた日本画によると、右端(南東側)に准胝観音と見える。

岡崎秀雄 花洛名勝図会 東山之部 三 26頁

観音堂 本社の東南にあり 西向準低観世音を安?辨堂前にあり諸人常小絶?

花洛名勝図会 東山之部 三 24頁

 「じゅんてい」とよむ。この頃の丸太町通りは熊野神社の門前通りで、東端が熊野神社の鳥居だった。ここの茶店が八つ橋発祥の地の一つと言われている。熊野神社にも石碑がある。
凖提堂公式サイト曰く、1880年に今の京大病院玄関辺りにあった積善院が熊野神社南の移動になる。1895年の文献には、熊野神社の項に記載がある。

準胝堂 積善院という本社東南に隣るもと境内にありしを神仏分離のとき現所に移せしなり 堂宇小なれども参拝群衆して香火常にたえず

内貴甚三郎 京華要誌 下 明治28年 p.136

  1980年代の文献にもあった。

準提観世音菩薩
 積善院と伝、熊野神社裏門外にあり。旧と其境内にありしを神仏分離の際今の地に移せりと伝。

新撰京都叢書 第4巻 編著:新撰京都叢書刊行会 出版者:臨川書店 1985.7 p. 68

 神仏分離に関しては、例えば祗園社は八坂神社に1868(慶応4)年に名称変更されるなど、この頃京都は多くの仏閣が再編されている。漫画るろうに剣心で安慈和尚が破戒僧になったきっかけにも神仏分離が描かれている。以下の絵や地図が描かれたころだ。

琵琶湖疎水線路全景二万分一之圖 1890年
仮製図1892(明治25)年 熊野神社周辺

 1912年の市電開通を見据えた丸太町通りの延伸と道路拡張によって、熊野神社境内は南北に分割された。このことは、歴彩館デジタルアーカイブの社寺明細帳異動綴(土地分割届1893(明治26)年06月27日 上京区聖護院町 積善院)にも記載されている。

分割後の境内南側

 分割された南側がどうなっているか、地図から見てみよう。

新版京都地圖1905年

 南側に「順天堂」と見える。
 地図によって南側の表記が異なり、

新版京都地圖1905年

こちらは順天堂でなくジユテイ観音とある。製作者も自信がないのか、ジユテイ観音の「ユ」と「テ」の左に物凄く小さく「ン」と書かれている。

新版京都地圖1905年のアップ

 小学生の漢字テストのごまかし方みたいだ。
 いくつかの地図に謎に「順天堂」とあったが、国会図書館デジタルライブラリにも歴彩館デジタルアーカイブにもそんな言葉がなかった。これも地図作成者が聞き間違えて適当に描いたんでないかしら。もしくは、異なる方言の地域の人なのかも。ついでに、この頃東竹屋町にあった絹糸紡績も読み方は「ケンシボヲセキ」とある。ホントかな。

疏水側からの写真

 年代不明だが、南の夷川船溜(今の夷川ダム)から絹糸紡績が撮影された写真が残されている。

石井行昌撮影 「武徳会の水泳(疎水ダム・絹糸紡績)」明治末頃
歴彩館デジタルアーカイブ
 疏水南の冷泉通から北西方向を望む

 撮影手法がガラス乾板らしく端が欠けており、周囲はボケているが、非常に高い画質で保存されている。遊泳しているおじさんの笑顔も確認できる。泳いでいる方々は大日本武徳会遊泳部で、後の京都踏水会だ。
 鴨東運河の竣工が1890年、遊泳部の設立は1896年(岡田2014)で、鐘淵紡績による絹糸紡績の買収が1911年なので撮影は1896~1910年と思われる。ということは、熊野神社境内が南北に分割された1895年以降の写真なので、森のような右奥の建物のいずれかが凖提堂だろう。ついでに、絹糸紡績の敷地は西側は熊野道にまであり、今の熊野寮敷地だけでなく京大職員宿舎まで含んでいたことがわかる。

聖護院の東隣に移転

 今の場所に移ったのは1914年のことで、移転の件指令案が知事から積善院へ、同年9月2日に出ている。このことは智積院公式サイトにも記載されている。竹村のイラストの一番右側だ。

竹村俊則 昭和京都名所図会 2 (洛東 下)  出版者 駸々堂 1981.10 p. 192

1859(安政6)年の石灯篭もあり、一緒に移設されたと思われる。

西村明 トリップアドバイザーにある2019年撮影された石灯篭の写真

 こっちは準胝観世音と書かれている。凖提堂の現賽銭箱は、二条新地の女性たちの寄進であったことが記されていると公式サイトにある。三高の誘致で移動になった二条新地だ。

凖提観音 積善院凖提堂公式サイトより

 タイムリーなことに、毎年2月23日に五大力菩薩が開帳される。

表記ゆれの罠

 しかし、今回調べて出てきただけでも、準胝なのか準底なのか凖提なのか、表記の揺らぎが多すぎる。元々はチュンディーなので漢字は何でもいいのかもしれない。はたまた、順天なんて表記も地図にあった。有名な順天堂大学の順天は語源が孟子なので、由来が全然違う。以前の記事に書いた、萬里小路(までのこうじ)が鞠小路(まりこうじ)に変わった程度なぞ可愛いものだ。聞き間違えをそのまま載せるんじゃねえとも言えるし、変遷を追うのは面白いともいえる。一つの資料だけでは信用ならないという経験が得られた。今後、地名に関しては慎重に調べよう。あと、地図もモノによって路地や建物の位置関係が微妙に異なる。きちんと測位された地図と観光向け地図では用途が異なるからしょうがないのかもしれない。
 ついでに、上記智積院には名前のインパクトが強い人食い地蔵という地蔵もあることは京都大学新聞で紹介されている。よく崇徳院(すとくいん)地蔵がなまったものと説明される。名前の変化は、言い間違いや聞き間違いや読み間違いや書き間違いで生じるのだろうけど、母音まで変わるかな?すぐ隣は崇徳院と当時の名前が残ってるから謎だ。

まとめ

 国会図書館のアーカイブをちまちま調べるより、寮のすぐそこにある智積院で案内板を見るほうが早かった。ただ、文献のおかげで仏像や建物のいわれは時がたっても頑強に情報が保存できる。移設のきっかけである市電の開通など、周囲の変化と比べることで理解が深まった。神社仏閣など伝統と歴史がありそうな場所でも、長い目で見れば街の一部として革新を繰り返していることが分かった。

・1799(寛政11)年 凖提観音開眼法要
・1880(明治13)年 熊野神社の南にあった凖提堂へ、今の京大病院玄関辺りにあった積善院が移動し合祀され積善院凖提堂に
・1893(明治26)年4月 第4回内国勧業博覧会を開催公布、6月には智積院が土地分割届を提出
・1895(明治28)年4月 内国勧業博覧会を開催
・1914(大正3)年4月 市電東山線(熊野神社前 - 竹屋町通)開通、聖護院東隣の智積院へ移動
・1928(昭和3)年1月 市電東山線(百万遍-熊野神社前)開通により熊野神社東側境内がさらに減る 神社東の商店街が東大路になる

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