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鞠小路通りの旧名

↑2009年11月頃のストリートビュー 寮東側の通りから南を望む

・京大病院の東にある鞠小路(まりこうじ)通りは旧名萬里小路(までのこうじ)通り
・まんりこうじと読む人もいた
・昭和3年に鞠小路通りへ名称変更された
・熊野寮の東、踏水会の間の通りも鞠小路通りかと思っていたけど違うかもしれない

 この記事では、身近だった通りの名前の変遷を追ってみた。

読み方の定着

 鞠小路通りは鴨川の西、東大路通りの東にある南北の通りだ。京大体育館や京大病院のすぐ東にあたり、金平糖で有名な緑寿庵清水や阿闍梨餅本舗満月本店が面する。在学中は東京ラーメンというやたらと安い店があり、よく通った。
 この通りは、今は鞠小路(まりこうじ)通りという名前だが、以前は萬里小路(までのこうじ)通りという名だった。なぜ変わったのか、国会図書館デジタルライブラリで検索すると以下のような記事が見つかった。

がこれは地名変遷の一例と見れば少しも差し支えない。訓み方が変化しそれにつれて文字も変化する例は頗る多い。最近の一例をあげると、京都吉田町の西に萬里小路という地名があった。無論そればマテノコウヂと訓むべきもので、私たちが学生の時代にも誰も正しくそう訓んでいた。それがいつの間にやらマンリコウヂと訓まれるやうになり、最近とうとう市当局によって鞠小路と文字まで改められてしまった。

高林誠一「家持の仮名管見(十二)」国語国文の研究 (24)
京都国語国文研究会 編 出版者:文献書院(1928-09)
p.83

今の百萬遍停留所から一つ西の通りは萬里小路通りである。マデノコウジと讀むのが正しいのであろうが、私のいた白川の下宿のおばさんは、すでにマンリコウジと發音していた。

吉川幸次郎 「学事詩事 : 随筆集」 出版者:筑摩書房(1960)

京都のような古風を誇りとしている土地でさえ、シュガクイン(修学院)がシュウガクインと呼ばれ、マデノコウジ(万里小路)がマリコウジと呼ばれるようになっているというように。

西尾実 国語教育全集 第6巻 (国語教育理論集説 2)
出版者:教育出版 (1975)

いつからか「鞠小路」と表記されているよう。
字だけ見て置き換えたか。

京の通り名 京都方言のサイト「京言葉」

 前者の二名は大正時代の京都に住んでいた。

とにかく、その萬里小路を北へゆくと、まず左がわ、つまり西がわにあるのが、狩野君山先生のお宅であり、いまも令息が住んでいられる。その東南隅にある四畳半の書齋に、私がはじめていたのは、大正十二年、三高を卒業しようとする早春である。以後昭和二十年十二月の、先生の終焉に及ぶまで、二十三年間、わたしが一番頻繁に出入したのは、この屋敷である。平均月に一度として、三百に近い回数である。

吉川幸次郎 「学事詩事 : 随筆集」 出版者:筑摩書房(1960)

 実際に住んでいた方の記述を追うに、読み方が マテノコウジ(もしくはマデノコウジ) → マンリコウジ → マリコウジ と大正時代ごろに変遷し、昭和時代には漢字の正式名称すら変わったということだ。テかデか濁音の有無、マンリかマリかンの有無など複数バリエーションがありそうだが、大体上記のように読み間違えが定着して正式名称になったと思われる。

萬里小路通りの由来

 旧名である萬里小路の由来は調べてもわからなかった。今でいう、柳馬場通りの平安時代の旧名が萬里小路であり、公家である萬里小路家の名はこの通りに由来する。しかし、柳馬場通りは鴨川の西側なので、現在の鞠小路通りからは時代も場所も離れている。明治期に鴨川東岸地域が開発された際に、この通りを萬里小路と誰かが名付けたと思われる。

熊野寮の東側の通り

 記憶違いかもしれないが、熊野寮の東側の通りも鞠小路、もしくは萬里小路という名じゃなかったかな?と記憶している。なぜなら、よく遊びに行った友達の家が鞠小路通りにあり、寮と往復した道で「南端は疏水にまでかかるんだ」と思印象にあったから。ただ、京都市公式サイトから道路の名前を調べると、

京都市認定路線網図提供システムより

ご覧の通り錦林経5号線という名前だった。さらに、琺瑯でできた仁丹町名表示板を愛するサイト、京都仁丹樂會には昭和3年5月24日付け京都市告示第252号が載っており、

2013年08月11日 告示第252号の不思議 1/3 ~仁丹町名表示板~  京都仁丹樂會 より

鞠小路通りの南端は春日北通りだった。さきほどの路線網の通りだ。う~ん、私の記憶違いだったのかな?いやまてよ、旧名の萬里小路(もしくは万里小路)通りという看板か表示が寮の東の通りあったのかもしれない。あった気がするのだけど。

いつできたのか

 旧名の萬里小路通りの南端が疏水まで伸びていたのかもしれない。日文研の古地図から通りの変遷を追ってみよう。

京都區分一覽之圖 : 改正 : 附リ山城八郡丹波三郡 1876年
京都 1889年
改正新刻京都市街新細圖 1894年
明治京都 1897年

 北西の荒神橋に近い鴨川東岸には、1872(明治5)年設立の京都府牧畜場が見える。今でいうiPS研のあたりだ。また、牧畜場北に京都織物株式会社があり、この女工寄宿舎の建物が後に京大の学生寮の一つ、吉田西寮に転用される。
 鞠小路通りに戻ろう。この頃は萬里小路と呼ばれていたはずだが、通り自体が出来たのは1889年から1894年のあいだのようだ。1892(明治25)年に京都市の学区制が確立した頃であり、1897(明治30)年の京都帝国大学創立より少し前に、この地域の道路や区画が整備されたといえる。1894年と1897年の地図を見ると、確かに萬里小路の南端は疏水まであり、熊野寮東側の錦林径5号線と同じ通りにあるぞ。

寄宿舎の存在

 その後どうなったか、立命館オーバレイマップで見るとの地図を見ると、

正式図 1912(大正元)年

 建物によって、萬里小路通りが春日北通りの南側で塞がれている。この場所は紡績会社の寄宿舎があったのだが、当時の様子については別途記事を書く。少なくとも1908(明治41)年には京都絹糸紡績上京工場寄宿舎が存在した。通りが建物によって途切れた後に名称変更されたため、寮の東側の通りには旧名が残った可能性はある。いつだったか、看板を見た気がするのだけどなあ。

まとめ

 鞠小路通りの由来は読み間違えの定着だった。そんな由来に憤慨されていた方もいらっしゃる。

美しい名に改めたつもりかもしれないが、物知らぬ人達の言語道断の措置である。その憤慨は置くとして、とにかく二十年足らずの間にこの変遷がある。

高林誠一「家持の仮名管見(十二)」国語国文の研究 (24)
京都国語国文研究会 編 出版者:文献書院(1928-09)
p.83

 だが、言葉は変遷していくものだし、そもそも1890年頃に出来た比較的新しい通りなので、そんなに怒らなくてもいいのでは。

つまり、われわれのことばには、漢字によって伝統が保存される一面があるとともに、また漢字によって伝統が破壊される一面もあることになる。

西尾実 国語教育全集 第6巻 (国語教育理論集説 2)
出版者:教育出版 (1975)

 別の通りの旧名と重複していたらわかりにくいし、しかも下京区には万里小路町という地名が存在するのでなおさらだ。京都は住所を示す際に通りの名前を使うので重要なのだ。私は今の鞠小路という名称の方がいい。何より「鞠」という字づらが可愛い。
 熊野寮東側の通りの名前が鞠小路もしくは萬里小路だったはずなので、今後証拠を探してみたい。記憶違いだったのかなあ。在学中に何度も通ったんだけど。

 引用文の旧仮名遣いは現代仮名遣いに、旧字体はだいたい新字に変えた。


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