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枯れ寂びライカ Japan

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ネットで遊んでいたら、ロマネ・コンティ1億2千万で売り出されていた。その高額に腰を抜かした。さらに、1945年生れでなんと71年もの。これで腰がくだけた。
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#一度は行きたいあの場所

ロマネ・コンティ1945

ネットで遊んでいたら、 ロマネ・コンティが1億2千万で売り出されていた。 その高額に腰を抜かした。 さらに、1945年生れでなんと71年もの。 これで腰がくだけた。 世界大戦が終わった1945年、稀なる好天気でぶどうの出来は最高。 空前絶後の当たり年にロマネ・コンティは、たったの600本。 そのなかで、いま1億円ほどの3リットルボトルは2本だけ作られ、 その1本が妖怪のごとく日本に現われた。 「わいんばー・ギンザ」。 銀座コリドー街で営んで開業35年、ワインバーの草分けだ

光源氏は男前?

昔々 琵琶湖のそばの石山寺を 訪れたことがある この寺には 紫式部が『源氏物語』を書いた と伝わる「源氏の間」がある   今をさる千年まえ 紫式部はこの部屋に七日間参籠し 昇った中秋の名月が湖面に 映える美しい光景に 人の世の栄華を思い さらに無常を 感じたのだろう おもむくままに筆をとり 「今宵は十五夜なりけり」 と源氏物語を書きだした   さてさて、物語のヒーロー 光源氏はどれほどのセレブで 美男であったか 「掃木」の巻の「雨野の品定め」で 「女にてみたてまつらま

紫のにほへる妹

絶世の美女だ、いや違う 貴人ふたりと三角関係にあったか、否か 世を去って千三百年あとの今も そんなやりとりがつづいている 万葉の女流歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)    「あかねさす紫野行き標野行き野守はみずや君が袖ふる」 ー大海人皇子よ 慕わしいあなたが紫草が咲き誇っている御料地を あちこち歩きながら 私にお袖をしきりとお振りになるのを ほれ番人が見ていますよー 18歳の額田王は のちに天武天皇となる大海人皇子に 言い寄られて十市皇女を生んだ そのあと大海人皇子の兄

昭和の代筆屋

大河ドラマ「光る君へ」 紫式部・まひろが京の街なかで 恋文を代筆するシーンから 回り舞台のごとく 千年先 昭和の恋文横丁に飛んだ 恋をかたるに 歌をよむ素養が決め手だった平安の世 これは今でも変わらない 戦災で焼け野原となった渋谷にバラック街が生れ その一角に代筆屋が登場した 朝鮮戦争が始まり 駐留軍のアメリカ兵と恋におちた女性の その思いを本人に代わり手紙を書いたり 訳したりするために代筆屋が生まれた そのひとり菅谷篤二さんは 戦後、渋谷のバラック横丁で 先ずは古

太宰治の遺書

これが小学生の書いた作文なのか 文字、内容とも子供がつづったと思えない これこそ、持って生まれた文才なのだろう 太宰治が幼いころ鉛筆で書いた生原稿 青森でたまたま目にして驚きで声もでなかった 太宰は原稿を好んで毛筆で書いたといわれる 弘前出身で太宰の自伝を書いた 長部日出雄『辻音楽師の唄-もう一つの太宰治伝』によると 太宰の原稿を手にした古谷綱武は 和紙にすこしかすれるような墨づかいで書かれた きれいな筆の字におどろき さらにその内容に興奮 無名の大型新人現わると直感した

まんぷく食堂

東京駅から有楽町駅までのガード下を 探検したことがある そば屋、居酒屋、イタ飯、中華、カフェ ビアホール、焼き鳥、アイリッシュバー…… さすがフレンチはなかったが 大都会のど真ん中に 雑多でディープな空間がずらり 新宿が引っ越して来たかのよう いち押しは、まんぷく食堂 銀座から日比谷へ通りぬけるガード下 その通路をうまく使った 昭和レトロが満載の居酒屋 カレー、ラーメン、親子丼、スパゲッティ 出汁玉子焼き、ステーキ…… 店内も桜や銭湯の富士山の絵を 当世風に描いた和モダ

太宰治『津軽』

日本海の漁師町、小泊に路線バスで 着いたときはすでに夕暮れ なにはともあれ 太宰治と越野たけの像にむかった 太宰の小説『津軽』を手に 作家が古里を20日ほど歩いた その足跡をたどろうと 津軽半島をまわった 大地主10番目の子であった津島修治は 2歳から6歳まで子守のたけが 母親代わりであった が、あるとき育ての親は姿を消してしまう 『津軽』は、自分さがしの自伝小説で 山場は たけとの30年ぶりの再会だ   「修治だ」 私は笑って帽子をとった   「あらあ」 それだけで