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【責任のリミッターを外す】足元の現実を暈かし無責任に未来を描く

デザイン思考を分かり易くかつオリジナルの解釈で紹介する活動。昨今、弊社ではオンラインのワークショップを通じてこれを実践しています。オリジナルのコンテンツも増えて現在10種類ほど。いわゆる議論/発想法の習得からビジネスモデル、リーダーシップ、コーポレートビジョン、さらには親子で参加するデザインシンキング入門!など幅広く行っています。
中でも最近、最も頻繁にやっているワークショップが灯台元暗しのススメ(Became In The Future=未来の過去形化)というもの。30年先、50年先、場合によっては100年先の未来に想いを馳せ、未来を過去形化できるくらいまで視覚化の解像度を上げるために、敢えて足元の現実を暈かすという意図のもと、このタイトルになっています。今日はこれについて少し書きたいと思います。

足元の現実に精通しすぎる弊害

このワークショップはこれまでに企業や大学生や留学生、NPO団体など様々な対象で行ってきましたが、特に日本の参加者からよく聞かれるのが「日常では2、3年先ぐらいしか意識していない」という感想です。学生でもビジネスマンでもこの感想は変わらず聞かれます。私の企業での経験からも日常業務では確かに今日、明日のことが最重要となり、未来に想いを馳せる機会が殆ど無いという現実がこの背景にあることは間違いないでしょう。

現実課題への対処が最優先事項となるため、これに尽力する人が一番評価される。議論でも非現実的な未来を語るよりも技術的実現性を語ることが重要視される。夢に満ちた未来志向の提案に対し、技術課題を列挙してこれを潰すことが誘発されてしまう。デザイン思考ではどうすれば実現できるか?を考えるための「How might we~?」という構文がありますが、企業などではむしろ「出来ない理由を論理的に明示する能力」ばかり身に付いてしまう。言わば足元の現実にばかり精通して未来志向の提案が潰されてしまいがちなのではないかと思います。

無限の可能性でしかない無責任な未来

ワークショップを通じ、ご紹介するブレーンストーミングのルールというものがあります。中でも「Go For Quantity」(質より量に拘れ!)「Build on the other’s ideas」(他人のアイデアに乗っかれ!)という2つは米国人に比べて日本人の参加者には難しいように思います。日本人は最初から完成度に拘ってしまったり、その実直さから他人のアイデアに自分のアイデアを乗っけることを躊躇してしまう。言い換えれば、何か常に「過剰な責任感」のようなものを自分に課しているようにも見えます。だから、未来の過去形化のワークショップでは出来る限り無責任になって未来を語って貰う様な仕掛けを取り入れています。

某大学と東京湾再生のテーマで行ったワークショップでは「2070年東京湾は火星になった」「2070年東京湾はレディ・ガガになった」「2070年東京湾は旨いカツカレーになった」などミスマッチの突合から思いもよらない持続可能性のヒントを獲得するアプローチを執り、型に嵌らない環境ソリューションが数多く発想されました。加速度の時代と言われる今、50年後の未来には無限の可能性がある。この無限の未来を見渡すためには一旦、発想に対する責任感のリミッターを外し、無責任なまでに想いを馳せる必要があります。

責任ある創造を成すために一旦無責任になる

そもそも責任感とは何でしょう。今の日本では問題に対する潔い態度よりも「変なコトをしない」ことだったり「後で責任を取らされないようにする」ことを意味するように思えます。言わば事前に責任範囲を決めた中で果たそうとする限定的で責任回避的な責任感。

本来は「コレがオレの考えです!」と腹を括ることであり、そのためには一旦、自分の責任範囲というリミットを外し、議論や思考の中で責任範囲を設定していく必要があるはずです。予め「ココまでしか責任取りませんよ」と言って取る行動は、責任ある行動を取ったことにならないでしょうし、この行動パターンは、足元の現実の、強烈な呪縛によって想像力にリミッターが掛かってしまう思考パターンに似ています。

つまり真に責任ある提案をするためには無責任なまでの果てしない想像力を発揮する必要がある。責任感という責任回避を止めること。予め「落し所」を想定したような議論では真の解決は生まれない。飛躍すること。責任という名の呪縛から自分を解放すること。Unlockし、Unleashすること。真に責任ある創造を成すためには一旦、無責任になることが必要なんだと思います。無責任になることで初めて真の責任ある行動や思考と向き合うことが出来る。禅問答のような話ですが真実だと思います。

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