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【AIに置換されない生き方】魔法のファシリテーションとVSOP

米国で起業して5年目の夏。

デザインのバックグラウンドを活かしてこれまでに様々なクライアントと多くの仕事をさせて頂きましたが、最近になって一気に本業となってきた感があるのがいわゆるデザイン思考の敷衍。ここ数年はワークショップ形式で、年に10~15回くらい行うようになりました。今日は私が行っているそんな取り組みの一部と、その中で気付いたAIに置換されない創造的な価値について記してみたいと思います。

前職含め、これまでIDEO社やスタンフォード大学とのコラボレーションを通じ、多くのワークショップの起案と実践を経験し、そして、IDEO創業者の一人であるトム・ケリー氏とも長く親交を温めることもできました。しかしそれにも増してとても価値のあったこと。それは、気が付けば、自分の中に、自分だけの視点や持ち味でフィルターされた独自のデザイン思考のメソッドが、多くのアプローチのバリエーションと共に構築されていたこと。これに気付いたのが3年ほど前だったでしょうか。

それまではクライアントとしてワークショップを委託する側だった訳ですが、今度は自分がクライアントに対し、ワークショップを企画し、ファシリテートすることになる。ですから、最初は「デザイン思考を方法論として習得したい方に自分の知識やスキルを伝授する」ことを要諦として捉え、どうしたら分かり易く伝えられるかを一生懸命考えていました。

しかし、何度か回数を重ねるうちに、クライアントやオーディエンスが私に求めていることが自分のそうした捉え方とは少し違ってきていることに気付きました。

確かに、基礎的な方法論、例えば「How might we~?」のテンプレートや、ブレーンストーミングのルールなど、押さえるべきデザイン思考の基本要素はその捉え方で良いとして、さらに私自身が独自に身に付けたノウハウなども、より戦略的な方法論の一部として実践的にお伝えすれば良いでしょう。
ただ、それ以外にももっと大切な、参加頂く皆様に最も喜んで貰えている要素があることにある時気付きました。

「魔法のようなファシリテーション」

時々クライアントやご参加頂いた皆様から「Takaさんのファシリテーションは魔法みたいですね」と言われることがあります。どういう意味ですか?とお尋ねすると「たった一言の助言で絡み合った紐がスッとほどけるような感じ」であったり、「言葉では上手く言えないけれど何となくワクワクする雰囲気」があり、何より「議論や会話が楽しくなる」のだそうです。

私自身それが何によって齎されているのか、今まで分析したことは無かったのですが、少しだけ整理し、平易に表現すると「想像を超えた発見」があることと、それを促す「ユーモア」によるものなのかなと思います。

先日行った働き方の革新をテーマにしたワークショップで、参加頂いた方が働き方改革の参考に持って来られた一枚の絵。それはラットの頭にケーブルが差し込まれたイラストでした。私が「これ、どういう意図の絵なんです?」と尋ねると「脳を強制的に業務モードにするケーブルを差し込まれたラットの絵です」とのことでした。そして、それを聞いた私は思わず「そりゃスゲーっ!」と超絶に大きくリアクションしてしまいました。

「働き方」改革と言えば、時短であったり、職場環境の快適性向上などをイメージするのが普通です。が、このラットの絵はその真逆を行く、つまり職場に付いたらケーブルをガシャンと頭に差し込むだけで、自分の意思に関係なく自分の能力をフルフルで業務に発揮できる訳です。勿論、見方によっては電脳化された奴隷のようにも見えますし、攻殻機動隊やマトリクスのようなディストピア的未来にも見えますが、しかし、それを望む人からすれば全てのストレスから解放されながら自分の能力を余すことなく発揮できるという意味では最高の業務環境とも言える訳です。

私の「そりゃスゲーっ!」という超絶にポジティブなリアクションには参加者の皆さんも最初は戸惑っていらっしゃいましたが(笑)、私がその解釈を説明し、ご理解頂くと、皆さん一様に(その絵を持って来られたご本人もそこまでの意図は無かったようで一緒に)「なるほど!」と驚きながらも賛同して頂きました。本人自身も気付いていないかもしれない潜在的な発見を、本人に代わって気付かせること。これこそファシリテーションの醍醐味と感じます。

これを可能にする要素。想像を超えた視点の獲得とどんなモノでも面白がれる(笑)ユーモア。それらが私の行うワークショップでは特徴的に現れると同時に、参加した皆さんに最も喜んで頂けている価値のように思えます。私がこれまでの人生を生きる中で獲得してきた何かがこうした価値を生み出している。それは単なるデザイン思考の方法論を超えて、むしろ私自身の在り方そのものと言っても良いのかもしれません。

「V・S・O・P  その順序が意味すること」

関連して、いつだったか何かの記事で読んだ「V・S・O・P」という価値の話を思い出しました。VSOP!ですからてっきりお酒の記事かと思いきや(笑)、その記事の中で「V・S・O・P」は人が年代ごとに発揮していくべき価値として説明されていました。

20代は「バラエティ」の「V」で、色んなことを経験して体得しながら組織や社会に役立っていく。30代は「スペシャリティ」の「S」で、自分の強みや得意分野を確立していく。40代は「オリジナリティ」の「O」で、自分にしかできない何かを生み出し提供していく。そして50代は「パーソナリティ」の「P」。それら経験の全てを活かして形作られる、その人の個性そのものが価値となっていくと。

個人的には今の時代、これらの価値は必ずしも年代と紐付けなくとも良いだろうと思いつつも、今の私が私の個性そのものを提供価値としてビジネスに出来ているとすれば極めて合点がいく、面白い観点だなと思いました。

さて、この「V・S・O・P」をあらためて眺めていて、最近私がふと思ったのは、特にデザインの仕事の中で、これらはAIに取って替わられる要素の順番になっているように見える、ということなのです。「V」:デザインのバリエーションづくりなどは真っ先にAIにやって貰って効率を上げられる要素です。「S」:専門特化した技術。例えば3DCADや特定のプログラムなどデザインを実現する技術的手段の部分もAIがどんどん担ってくれたら良いかもしれません。

一方で、「O」のようにその人にしか持ち得ない思想や理念、美学に基づく独創的な造形やデザイン、アイデアなどは、もしかするとまだAIには担えない部分かもしれません。さらに「P」。その人の存在感、存在そのものは迫り来るAIの侵攻に対する最後の砦になるのではないかと思うのです。

「スキルを磨くより感性や情緒を磨く」

AIに置換される仕事や職能などが良く話題に上る昨今、この「V・S・O・P」の示唆するところは大きいのではいないかと思います。単純化するなら多くの「スキル」の範疇はAIによって置換可能だけれど、感性や情緒によって形成される「個性」はまだ置換されない。数学者の岡潔さんも著書「春宵十話」や「論理と情緒」の中で情緒を磨くことの大切さを説いています。

では、感性や情緒を磨くにはどうしたらよいか。私は自身の経験から「絶対に妥協しない」「孤立を恐れない」「自然と調和して生きる」の3つがそれには必要だと感じます。時に現代社会の在り方やコミュニティの存在、或いは組織の論理がこれらを阻むことがあります。それによって感性や情緒が鈍化し劣化していく。集団が形作る社会やコミュニティは社会的生き物である人間にとって重要ですが、しかし一方でそれに埋没したり依存したりすることなく、一定の距離を保っていくこともまた、自分の感受性や創造性を高め、それを高くキープする秘訣なのではないかと思います。

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