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【旅するデザイン思考】マイノリティとして生きる楽しさ!

私が企業のインハウスデザイナーだった頃、よく海外のインターン生の面倒を見る機会がありました。そんな中に米国LAから来た身長190センチの台湾系米国人の青年がいました。お互い初めて会った気がしないほどすぐに打ち解け、本人の強い希望もありインターン後即、社員に採用した。すぐに私のチームでデザイナーとして働き始め、仕事でも遊びでも一緒に楽しく過ごした。彼は日本酒と牛丼とスノーボードが大好きだった。半年ほどして彼の白血病が発覚。急遽アメリカに帰国し、闘病生活を送った。しばらくは順調に推移し、その間も彼は楽しそうに私との将来のビジネスの準備をしていた。しかしそれから数か月後、私は突如、彼の訃報を在米の別の知人から聞くこととなる。本当に”良いヤツ”という言葉がピッタリくる奴だった。私が良く彼に「LA生まれなんてカッコ良いじゃん」と言うと「でもマイノリティだから辛いことも結構あるよ」と言っていた。今、カリフォルニアに住んで9年目の私には彼の言っていたことの意味が良く解ります。ということで今日は、米国でマイノリティとして生きることについて書いてみます。

■適度な負荷を常に求める気質

今住んでいるカリフォルニア州のロスガトス市はベイエリアでも富裕な人の多い住宅地。アジア系比率の高いサンノゼからはだいぶ離れている此処は白人系の比率が高くアジア系は非常に少ないので、我々は立派なマイノリティです。でも私には何とも心地良い。米国人の価値観に「平等であるフリをする」というのがあります。過去の歴史を背景に宗教観や倫理感から差別的な要素を排除する文化が色濃い米国。まだ息子が小学生の頃、学校で友達と泥んこ遊びをしていた際にジョークで「その顔をもっと黒くしてやるぞ」と言ってしまってオフィスに呼ばれたことがあります。それくらい日常のコミュニケーションはセンシティブ。※因みに、色について話す際は「I’m not a racist, but~」(これは差別じゃ無いんだけど~)と前置きするのが礼儀。

とは言いながら、人々の本音に区別や差別は必ずあります(種別やグループを意識するのは生存本能の一部ですから当たり前)。表面で幾ら平等を装っても例えば英語にアクセントがあるだけでそんな本音が透けて見える時もある。でもそんな小さな刺激や負荷さえ私は寧ろ心地よく感じる。刺激も負荷も無い世界など生きてても手応えも張り合いもない。以前のnoteに「ある日、右手で箸を持つ容易さが気持ち悪くなって左手で食べたりする」話を書きましたが、私自身は生来そんな「適度な負荷を追い求める気質」が強いんだろうと思います。適度な負荷=自分の能力を少しだけ超えた目標を常に設定していないと生産性を維持できないような危機感を感じる。それはクリエーター気質(創造的飢餓感)の一部なんだろうと思います。

■"逆" ハンディをバネに活かす

マイノリティであることがイコールInferiority(劣等)であるかといえば、私は気の持ち様であり、考え方次第だと思います。例えば「“逆”ハンディ」という考え方。マイノリティですから色々な意味でUnder Estimate(低めに値踏み)されるのは日常です。そんな中にあって、意外なほど英語の語彙が豊富だったり、歴史に詳しかったり、大きな米国人も驚くような身体能力を発揮すれば「低い値踏み」をされるハンディがある分、余計に上乗せして驚かれたり尊敬されたりします。初めから「コイツ強そうだなぁ」とか「コイツ相当頭がキレそうだなぁ」とか思われて実際のパフォーマンスがその値踏みに劣れば「なぁ~んだ」と勝手にガッカリされるでしょう。だからハンディがあった方が有利だし“逆”の効果を最大限に発揮できる。

そういう意味では日本人というレッテルも使い様です。「真面目」「キレイ好き」「論理思考」「数字に強い」とか勝手に思われちゃいますから、これらに適合していれば良いですが、どれにも当て嵌まらない場合困る(笑)。
でも上手く逆手に使えば「日本人にしては随分アバンギャルドだね!」と言わせることだってできます。最近私が一番気を付けているのは「日本人なのに日本の事を知らない」と謂われるのだけは避けたいということ。日本人としての誇りとかプライドとか気張った事じゃ無いんですが、最低限、自分のルーツや軸みたいなものはブレずに持っていたいと思っています。

■創造的な「旅の恥は掻き捨て」

旅するように生きるデザイナーを実践する自分。マイノリティであることはここでも活かされる。何故ならマイノリティは様々な局面で劣勢であることが前提。逆に言えばどんなことでも「上手く出来なくて当たり前。ぜんぜん気にしなくて良い」という免罪符があるということ。カリフォルニア州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガー氏も「“California”すら正しく発音できない」と訛りを散々揶揄されましたが立派に職を全うした。自分の慣れ親しんだ環境に安住していれば絶対に必要に迫られることのない果敢な挑戦の機会が周囲に無数に存在するのがマイノリティならではのアドバンテージです。

大勢の前で英語でレクチャーやワークショップをする、人前で歌や楽器の演奏を披露する、タフなアメリカ人を相手にスポーツで競い合うなど、日本で生活していたら自分ならチャレンジしなかったであろうことに今は平気で挑戦できる。シュワ氏の奮闘に倣うなら米国の政治に参画していくのも良いでしょう。いずれにしろ私は常に旅の途中に居る。だから常に創造的な意味で「旅の恥は掻き捨て」とでも言うべき究極に前向きな心境を維持できる。これもマイノリティであることのポジティブな側面ではないかと思います。

■マイノリティだからこそ暴れられる

私がマイノリティという言葉に対して敏感に反応してしまうのは前述の他界した親友との会話があったから。こんなポジティブ過ぎる私のマイノリティの解釈を彼に伝えたら、彼はきっと「イヤ~まったくTakaさんらしいね!」とShrug(肩を竦める仕草)しながら笑顔で言うでしょう。彼の命日は5月。またLAに行って彼の顔を見に行こうと思います。彼が感じていたマイノリティとしての思いとはどんなものであったのか。彼が果たせなかった私とのデザインビジネス。だから私は彼の分まで暴れてやりたいと思っています。

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