チャラ系エモ特盛りラブソングが混迷する世界を照らす勇気の書であった件
真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、新しい目で見ることにある
マルセル・プルーストの代表作『失われた時を求めて』に由来する言葉である。
とかく新しいテクノロジーやストラテジーに飛びついてしまう私にとって、この言葉は深く胸に響く。どれほど革新的な技術であっても、それをどう捉えるかによってその価値は変わるものである。
世界遺産すべてを見に行くとか、47都道府県の郷土料理を現地で食べるとか。生きているうちにやりたいことはあるが、それは真の発見の旅ではない。新しい目を獲得すること人生の肝要事だとすれば、私の人生はネットサーフィンによって充足できそうなものである。
先日、まさに新しい目で見ることで真の発見に繋がった、というできごとがあった。
それは、かつて「薄っぺらくて単純過ぎ」と吐き捨てた作品が、相当な深みをもって迫ってくるという体験であった。
きっかけはYouTubeの人気チャンネル「THE FIRST TAKE」である。
懐かしのJ-POPにおけるノスタルジーと再発見
とりおりYouTubeのオススメに「THE FIRST TAKE」が出てくる。
音楽の面白さ・楽しさを違った角度から表現してくれる。人並みにJ-popを楽しむ私にとって、それは全く正しいレコメンドだ。いや、過去に見たことがあるからレコメンドされるのだが。
「THE FIRST TAKE」は、昨今のミュージシャンを知る貴重な機会である。
アイナ・ジ・エンドを知ったのも、Creepy Nutsを腰を据えて聞いたのもこのチャンネルがキッカケだ。それは新しい景色の音楽だと感じた。新鮮な驚きと斬新な表現に満ちたその音楽は、やはり新しいコンテンツへの興味をそそられるものである。
新しい音楽の話をしたが、今回取り上げるのは昔懐かしい平成のJ-POPについてである。
学生時代によく聞いていたバンドやグループの曲を聴く機会は、もうほとんどなくなっている。「平成の名曲特集」的なテレビ番組があっても見ないし、Spotifyで流れてきても聞き流すだけである。
20年以上前にリリースされた曲を聴くことでノスタルジーを感じて楽しむことはできる。しかし、それは新たな知見を得る喜びや新たな視点を獲得する興奮とは無縁である。そう思っていた。
もちろん懐かしさを摂取することは精神衛生上よいことだ。
私もそう思って20年近く前にリリースされた曲を楽しんでいる。「THE FIRST TAKE」は懐かしいJ-POPに出会ういい機会である。
ところが、ただ懐かしいだけではない、新たな発見があった。衝撃的な思想に支えられたその曲は、まさに私が新たな目を持ったことで感じられる発見の旅であったのだ。
Aqua Timez『千の夜を超えて』の基底にあった思想
2006年の曲である。
いい曲である。
いい曲・・・というかいいメロディではあるが、自分向けの音楽ではない。当時はそう思って聴いていた。
理由は3点ある。
エモ要素が多すぎる
“好き””愛してる”の表現がストレート過ぎる
ビジュアルがチャラい
いわば「チャラ系エモ特盛りラブソング」である。
学生時代から光の当たるところでイケてる生活を送り、青春と恋愛を謳歌してきた人には刺さるのかもしれない。しかし、文化祭で周りが浮かれ気分のときに薄暗い部室に一人でこもり、ゲームをしたり自意識拗らせ系小説を読んでいる人間にとっては、とてもじゃないがこの曲にシンパシーを感じるほどの生き方をしてこなかったのだ。
これがAqua Timez、および『千の夜をこえて』の印象である。
「THE FIRST TAKE」に『千の夜をこえて』が公開され、すぐにYouTubeのオススメに表示された。「おっ、メロディだけエモくて自分とは縁遠い世界のやつだ」と、半ば小馬鹿さと自嘲が混じった感情が湧いてくる。
「懐かしいな、聞こう」。再生。
キューにはためず、即時処理をする。改めてレコメンドエンジンの優秀さに感心する。
楽曲が始まる数十秒前から動画が始まる。
マイクに向かい床に置いているヘッドフォンを取る。落ち着いているが、情熱と覚悟を持った「ではお願いします」のセリフ。ピアノ、バイオリン、ギターがセットされる。
これからの5分弱の一曲に全ての魂を込める、という演出がうまい。
言い方を変えると、とにかくエモい。
そう、曲自体がエモいのに、演出も加わってエモの特盛になっているのだ。
そんなエモ演出のエモソングのエモイントロが始まる。この冒頭のメロディ、なぜか夢破れた人間たちの物語が頭に浮かぶ。静止画でゆっくりとフィードしながら、悔し涙と無念の顔のアップが頭の中に映し出される。どこかのNHK番組のように。
この時点ではラブソングっぽくないが、ボーカルが入るといきなり「愛されたい」で始まる。
やはり、チャラ系の音楽である。
やはりチャラ系の音楽だ、と安心して聴き始める。愛だ恋だ好きだをやたらに使うのは違う世界の住人の価値観である。私のような人間は、「好き」ということさえ憚られる。そもそも「好き」とはどういうことなのか。自分の好きな食べ物さえ分からない人にとって、「好き」というハードルは限りなく高い。
しかしAメロに入ったあたりで景色が変わる。「あれ?これってあの本と同じ思想じゃない?」と新たな仮説が生まれる。
そして、しっかりと歌詞を読み解いていくと、あの21世紀を代表するベストセラー本を考えをベースにしていることに気づいた。
それは混迷する世界を照らす導きの星であり、大切な人に贈りたい本であり、世界で1000万部突破した勇気の書だ。
目的論・承認欲求の否定・課題の分離
『嫌われる勇気』である。
いまだに本屋で平積みされているモンスター自己啓発本。もはや全国民が既読であると思う。
以下の3点が『嫌われる勇気』の核心部分である。
目的論
承認欲求の否定
課題の分離
『嫌われる勇気』は全人類が読んだと思うのでご存じかと思うが、忘れた方向けに簡単に解説する。
目的論:
目的論は、物事の結果は因果ではなく目的によって発生する、という論旨だ。
あなたが怒っているのはコーヒーをこぼされたからではなく、店員に怒りたいからだ、という主張。
これはあまりにも無茶苦茶な主張だとは思うが、人生を生きやすくするには非常に良いマインドだと思う。
承認欲求の否定:
アドラー心理学では承認欲求を否定する。これが大前提である。
現代ではとかく承認欲求について言及されるが、他者からの承認を求めるのは賞罰教育の影響と論じている。
では何が必要が。課題の分離である。
課題の分離:
自分の課題と他者の課題を分けて考えよ、という教えである。
自分の力では変えられない事実に執着することなく、自分が変えられる部分に集中する。これが『嫌われる勇気』のハイライトだ。
多くの悩みは課題の分離ができずにいるし、課題の分離ができないことで苦しんでいるように思う。
では、課題を分離したあとはどうするのか。
他者の課題は切り捨てる。それが人生をシンプルにする・・・。
『嫌われる勇気』で語られるアドラー心理学は、いわば逆張りである。
原因と結果で考えることを求められるし、承認欲求は肥大しているように思うし、他者との関係は複雑で切り分けられないから難しい。これが現代の考えの主流だからこそ、アンチテーゼとしてのアドラー心理学に響く現代人が多かったのだと思う。
そして、『嫌われる勇気』が発売される7年前に、すでにその思想をベースとしていた曲が『千の夜をこえて』だったのだ。
そこにはアドラーがいた
『千の夜をこえて』のエモイントロの後に、いきなり冒頭の歌詞でアドラーが顔をのぞかせる。
目的論である。アドラーだ。
愛することは怖いし傷つくこともある。傷つかないように愛そうともしない。傷つき自分の存在や可能性を否定されないようにしている。愛さないことはそういう行為である。
ただ、そこから好きな人に好きって伝えることを決心する。たとえ結果がどうであっても前に踏み出そうとする勇気を持つ。「勇気づけ」のアプローチだ。
そしてAメロ。
承認欲求の否定である。アドラーだ。
他者からの評価に振り回されず、自分の価値を自分で決めるという覚悟だ。冒頭で「愛されたい」で始まったのに、もう「どっちでもいい」である。人類最速での承認欲求を否定した、と言っても過言ではない。
これほどまでにアドラーなJ-POPはあっただろうか。
『嫌われる勇気』の青年は承認欲求の否定について強く反発する。承認欲求についての議論は、この本の最も白熱する箇所であるといってもよい。読者も同じく反発心が生まれるからだ。
この点『千の夜をこえて』は、一切の疑問や共感を許す間もなく否定してしまった。
アドラーの思想はどことなくサイコパス味を感じる。共感のなさや道徳観念のロジカルさは故であるが、この変わり身の早さもサイコパス的でアドラーっぽい。もしかしたらAqua Timezはアドラーなのかもしれない。
そして、その仮説は確信に変わる。
課題の分離である。やはりアドラーだ。
自分の問題と他者の問題を完全に切り分けている。アドラーが提唱するように、自分の力では変えられない事実に執着することなく、自分が変えられる部分に集中する。この曲は課題の分離の本質を見事に表現している。
もう、疑う余地なくアドラーである。
『千の夜をこえて』は『嫌われる勇気』であり、Aqua Timez はアドラーである。
私はこの点に気づき、深く感動すると同時に、かつて「チャラ系エモ特盛りラブソング」と吐き捨てたことを自分を恥じた。それは単に私の視点と感性が足りなかっただけなのだ。
18年を経て「THE FIRST TAKE」で『千の夜をこえて』が公開された意味が分かる。
『嫌われる勇気』以前にアドラーを歌ったのにも関わらず、それに気づかずに「いい感じのエモいラブソング」として消費している私のようなやつがいる。アフター『嫌われる勇気』の今なら、そのアドラー感に気づくチャンスである。伏線回収の喜びとともに、自己を顧みる機会だ。青年と哲人の会話を通して読者に与えた視点は、かつてのコンテンツを再発見するベストタイミング。新しいコンテンツを楽しむだけでなく、新しい目で見ることで真の発見が得られるのだ。
プログラマにおける「おまじない」と真の発見
真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、新しい目で見ることにある
一見よさそうな名言だが、何度も読んでいると疑問がわいてくる。
新しい目はどうしたら獲得できるのか
新しい土地で新しい仲間と新しい仕事を始めるのは、発見の旅っぽさがある。新たな環境に自ら置くことは、実際に多くの発見に出会うと思う。ただ、それは新しい景色を探す行為であろう。
プログラミングの話で考えてみる。
プログラミングを学び始めると、しょちゅう「おまじない」に遭遇する。
import sys # おまじない
def main():
print("Hello, World")
if __name__ == "__main__": # おまじない
main()
初学者の時点では、「おまじない」をおまじないとして捉えて先に進む。
プログラミングを課題解決のツールとして利用するのであれば、「おまじない」以上の意味を知る必要はないし、それで十分活用できる。
そして長年プログラマーをしていると、どこかで「おまじない」の意味を理解するタイミングが訪れる。やっているうちに理解が深まり、いつのまにか「おまじない」ではなく意味あるコードとなるのだ。
しかし、意味あるコードに変換されたタイミングは分からない。
新しい技術をインプットしてあれこれと試行錯誤して、try & error を繰り返し、ひたすらバグ解析と改修をこなす。そうしているうちに、気づけば新しい目を獲得していた。
そういうものなのかもしれない。
新しい景色と新しい目はグラデーション上にある。新しい景色を見ることで新しい目を獲得することもあるし、新しい目を獲得するために新しい景色を見に行く必要もある。いずれにしても新しいことへの興味を持つことが必要になる。
そこで大事にしたいのが「好奇心」だ。
好奇心を持ち続けていれば新しい景色を楽しめる。
「THE FIRST TAKE」をノスタルジーに浸る場ではなく、新たな発見の場として楽しむことができる。「おまじない」をもう一段深く理解することができる。
実は、この記事を書いているときも再発見があった。
プルーストの一節が意訳であるこが分かったのである。
真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、新しい目で見ることにある
これは原文の一部が簡略化されたもの。
正確には『失われた時を求めて』の第5巻『囚われの女(La Prisonnière, 1923)』にある以下が原文である。
・・・
意訳しすぎじゃない???
・・・
最後に今回取り上げたコンテンツを紹介する
Aqua Timez - 千の夜をこえて / THE FIRST TAKE
デビュー20周年ということで再結成し、「THE FIRST TAKE」に出演。考えが深まるいい機会として取り上げたけど、ストレートに聞いてもよい曲。演出も素晴らしい。
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
オーディオブックでもっていたが、この記事を書くためにKindle版も購入した。おもしろいボキャブラリーをお持ちの青年を楽しむのが、本書の正しい読み方。
と思って読み返すと、哲人の神対応を楽しむ本であった。
全サピエンスが読んでいると思うが、やはり読み返すと再発見がある本。
では、また!