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【考察メモ】村上春樹 新作短編『夏帆』

村上春樹さんの新作短編『夏帆』が新潮創刊120周年記念号に掲載された。
この作品は雑誌掲載に先んじて早稲田大学で行われた「春のみみずく朗読会」で村上春樹さん本人の朗読によって初披露された。私も朗読会で本作を耳で味わった。

雑誌掲載版を改めて読むと、多少の差異が朗読版との間にあるように思う。いずれもディティールの違い程度であり、さらに(朗読会は録音禁止だったので)私の記憶が正しければ、だが。

活字に起こされた『夏帆』を読み、村上主義者として気になった点や考えておきたい点がいくつか出てきたので、以下読後メモ。随時アップデートされます。

『夏帆』とはすなわち、古語「かほ(顔)」なのではないか


引用元: https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%8B%E3%81%BB

朗読が始まるなり、気になったのは『作品名にふつうの人名が用いられている点』だった。
もっとも、登場人物の名前がそのまま作品名になることの前例がないわけではない。
例えば、『トニー滝谷』、『加納クレタ』、『木野』がそうだ。『トニー滝谷』と『加納クレタ』は、作中で変わった名前であると自己言及される。『木野』は登場人物の苗字であると同時に物語が展開するバーの名前である。つまり、いずれの作品においてもその名前が作品名になることの必然性が明確だ。
一方、『夏帆』においては一見、名前が作品名となる必然性が明示されていない。ありふれた名前だし、物語の成り行き上重要な意味を持たない。

けれど、朗読が終盤にさしかかり「かおさがし」という単語が出てきたときに合点がいった。この物語は、夏帆の「かほさがし(=アイデンティティの探求?)」の話であり、「かほかたち(顔貌)」の話なのだ。

「顔」の持つ不思議な性質

本作をお読みになった方は同意されると思うが、従来作品と比べて過剰なまでに「見た目」や「美醜」といったテーマに注意が向くように書かれている。例えば、「ルッキズム」という単語だ。よもや村上作品で見ることになるとは思っていなかった(「デート・アプリ」もそうだ)。

実際、「顔」は不思議なものだ。

ある人のことを思い出すとき、その人の顔を思い浮かべるように、顔は人のアイコンだ。
また、「あの人は顔はいい」という人物評を聞くと、暗に「性格はいまひとつ」と示唆しているようにも思える。このように、「顔」という言葉は人の表層を指す言葉として用いられることが多い。

一方で、人の内面・品性を表すときもある。「親の顔が見てみたい」という慣用句は、「いったいどんな品性をしている人なのか」という侮辱的な意味合いを持つ。実際、私たちは誰かの感情・思考を推しはかりたいときにその表情を必死に読み取ろうとする。「顔が潰れる・顔に泥をぬる」というように人の名誉やプライドを指すときもある。

このように顔ということばは、(もはや矛盾とさえ言えるほど)複雑な意味を含んでいる。そして、私たちはその意味するところをなかば無意識的に使い分けている。

もっとも恐ろしいのは、「私」は「私」の「顔」を直接目にすることは決してできないという事実だ。絶対に客観視できない「顔」という器官は、「私」を識別し、「私」の価値を規定し、「私」の内面を表出している。

この文脈で、佐原の不穏なセリフ「距離的なことを言うなら、僕らはもともとそう遠く離れていないんだ」の意味するところが紐解ける気がする(が、端緒をつかめない)。

夏帆は海? 佐原は砂漠?

あとは、ささいだが興味深い点をいくつか。

  • 本作の終盤で夏帆は「深い海の底で夢を見て」、佐原によって体験した不快な出来事を「息の長いロングセラー」へと昇華してしまう。私はここに海と砂漠の対比があるように思う。夏帆という名前から「大海原に浮かぶヨット」的光景を想像しないほうが難しいし、深い海の底で回復するなど、海や水といった属性が夏帆に紐づけられていないか。駄洒落遊び的に、佐原はサハラ砂漠から名付けられているのではないか。(勘ぐりすぎ?)

  • 本作でも複数種類の動物・虫が登場する。

    • 佐原はオオアリクイや蜘蛛で形容される。アリクイは蟻を食べ、蜘蛛はゴキブリを食べる。

    • 不快害虫(ゴキブリ、蜘蛛)への言及。見た目が気持ち悪いから害虫扱いするのも、ある意味ではルッキズムだ。

  • 村上作品では、やはり「バイク」は不穏な乗り物? 『アフターダーク』でも中国人マフィアがバイクで執拗に追跡していた。BMWが登場する率も高い気がするし、「乗り物で読み解く村上春樹」もおもしろいかも。

最後に、本作でいちばん好きなのはやっぱり「病んでいる人間のディズニーランド」のくだりです。

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