埼玉県与野市(与野ハウス)の思い出

1992年12月。
家族は埼玉県の与野市(現さいたま市)にある、与野ハウスというところに移り住んだ。
丸増マンションと違い、ここは今も存在する。
日本初の、高層マンション。今で言うタワマン。
後で調べたら、そんなホームページ上の記載があった。
1976年生まれのマンションなんで、その当時で築16年である。広さは3LDK。
最寄り駅は埼京線の北与野駅。直線距離で徒歩2分。
父親の勤務先が大宮だったので、最高&最強の立地条件である。

家賃は、母親に聞いた話だと12万ほど。とはいえ、住宅補助が出ていたので半分くらいで住めたらしい。記憶だと4号棟まで存在しており。2号棟の10階、1010室に住んでいた。
中央には子どもが遊べる広場があり。よくそこで遊んでいた。与野ハウスの下には、当時スーパーマーケットの「マルヤ」とか「でんきち」という名前の家電屋があった。
また、ミニ商店街みたいなのがあって、焼き肉屋とモスバーガーと床屋と花屋があった気がする。
で、子どもの足で徒歩8分くらいでつく、与野市立(現さいたま市立)下落合小学校というところに転校した。
12月という非常に中途半端な時期に転校したのは、父親が先に転勤で行って、家族が住むのにふさわしい場所を探していたから・・・らしい。
転校した日のことは、とてもよく覚えている。
札幌の時転校生が来ても「ふーん」くらいだったのが、来たときに蜂の子をつつくような騒ぎになっていたことに、正直引いた。
埼玉県とか、現さいたま市とか、旧与野市に愛情を持てなかった理由としては、このときの体験が尾を引いているように思える。自分は異邦人なんだと。
不幸なことに、鈴木はそこで残りの小学校生活と中学校生活を送る羽目になったのである。
引っ越し先が与野だった理由は、父親の同僚が勧めたため・・・らしい。ただそれだけ
。何の思い入れも無い土地。それが与野。
正直、楽しい思い出よりも嫌だった思い出の方が多いし、これが自分自身の人生に大きく暗い影を落としているんだろうなと、いい年になった自分自身思ってしまう。

父親の職場は大宮だった。
通勤時間は、北与野駅までが直線距離2分。埼京線で大宮まで3分くらいか。そこから徒歩で10分なんで、正味20分くらいの通勤時間だったのではないかと推測される。
北与野駅の近くには、今の書楽という大型書店、昔は忠実屋という大型スーパーがあった。
と思う。おもちゃ売り場で、カードダスをしていた記憶がある。
のちにダイエーになって、そのあと潰れるのか。そのときには与野ハウスにいなかったから記憶にない。

この与野ハウス、1992年12月~1996年くらいまでは住んでいたのだろうか。
ここら辺の記憶があやふやなのなのだが、与野ハウスを引っ越したわけには父親の転職が絡んでいるのだ。

1993年~1994年頃、公文式を中国に広めようという話があり、中国に行きたかった父親は家族そろって上尾の公民館で毎週土曜か日曜かに開かれていた中国語講座に、休みの日に行っていた。中国語の勉強を小学生ながらやっていたのである。

今思うと、公文式社内の出世競争から遅れていた父親が一発逆転ホームランを狙って中国行きを直訴し、家族を巻き込んだようにしか見えないのだ。
家族を巻き込んだのは、「嫁も子どもも、これだけ中国語をやっている」というアリバイ作りに使われたような気がしてならない。

1年少したった後、結局は駄目で、父親の同期が中国に行くことになった。
(後に、父親はこの同期から700万を風俗店運営のために借りることとなる。そして、父は自己破産したのだ)

以前にも、会社に振り回されているだけの父親。
長野に転勤の辞令があったようだが、それを家族都合という体で拒否していた。

そして、1995年。ついに公文式を退職することとなる。
退職後半年~1年くらいは与野ハウスに住んでいたのだが、主に経済的な事情もあり1996年には引っ越すこととなった。

鈴木家崩壊まで、あと17年。

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