スマートフォン
今でこそ、スマートフォンは多機能と高性能化が進み、ほとんどの事はスマートフォン1台で出来るようになった。我々の生活に無くてはならないツールのひとつである。
メール・電話・インターネット
従来型の携帯電話を利用してたときは、基本的にはこの3つの機能があれば良かった。
着メロとか、アプリとか、おサイフケータイとか、ワンセグとかは後付のオプションのようなものであり、まずはこの3つが十分に使えることが最低限の利用条件だった。
ここでいうネットは、現在のスマートフォンのようにオープンでワールドワイドなインターネットを指しているのではなく、携帯電話会社が作り出した「iモード」や「ezweb」といった閉ざされた世界である。
そこで、着メロやその端末独自にカスタマイズした壁紙や動画等の配信サービス等を行っていた。
携帯電話会社公式ではなく、URLを直接打ち込むことで個人が作ったホームページに飛ぶコットも出来た。「勝手サイト」という名称で、アングラ的な要素を含みつつも、モバイルインターネットの発展に寄与していったのである。
ネットの接続料は、今でこそ定額制もしくは段階制の定額制が主流であるが、当時は青天井に膨れ上がる仕組みであった。
1パケット(128バイト=全角64文字)が0.27円とか0.3円という単位で課金されていき、
そのパケット代が膨れ上がり携帯料金が高額になる「パケ死」という現象を生み出した。
※現在の「パケ死=データ量が上限までいって使えなくなること」の意味ではない。
各社ともにインターネットよりも「電話」へのニーズが高く、○円分の通話無料。
このコースだと30秒あたりの電話料金が○円といった売り方がされていた。
2003年くらいまでの携帯電話会社のシェアは、1位ドコモ、2位au、3位ボーダフォン、4位 ツーカー、5位DDIポケットといったところだろうか。
肌感覚だと、ドコモ半分、au3割、ボーダフォン2割で、数パーセントがツーカーとDDIポケット。
携帯電話とPHSの違いは、通信方式の違いである。
携帯電話が自動車に搭載する自動車電話を元に発展していったのに対して、PHSは電話の子機をベースに発展していった。
PHSは「Personal Handyphone System」の略称で当初名称を「PHP」にしようとしたらPHP研究所からクレームがあってやめたとの話がある。
今、「5Gの時代だ」と言っているが、PHSの通信形式は世代的には第2世代になる。ドコモでいうmova、auでいうcdmaOneと同級生なのである。
そんな状況の2004年、DDIポケットから1台のPHSが販売された。
「AH-K3001V」
日本で初めてoperaブラウザを搭載し、通常のパソコンで見ているようなサイトが見られるようになったのだ。そして携帯電話会社初のパケット定額制を導入しており、「パケ死」からの恐怖から解放されるのだった。
当時のホームページにあったキャッチコピーは「手のひらはインターネット」
15年前のスマホ普及前にこのフレーズである。
PHSのファンからは「京ぽん」という愛称で呼ばれていた。
「京ぽん」は今までの携帯電話が出来なかったことが出来るようになる自由度が高い端末だった。着うたは自分で作成して取り込む、ゲームは有志がJavaスクリプトで作る、なかなかストイックな世界だった。
「わーい京ぽんだ何でも出来るぞ」のAA(アスキーアート)が示すとおりユーザーが創意工夫して何でも出来た。鈴木の人生の中で、これを超える端末はない。
iPhoneが出たときよりも、京ぽんの方が凄かった。
発売日にいった大宮のビッグカメラは、開通までに4時間の時間を要した。
京ポンでみた「Google」の最初のロゴで、こんな小さい端末から世界に広がっているんだと感慨深いモノがあった。
発売後すぐの2ちゃんねるのスレッドは、どんどん流れていき読むのも一苦労だった。
もちろん、使っているうちに問題点も出てくる。
動作が全体的にもっさりしてたり、固まったり、発熱したり。
秋葉原にあったショップ(その当時、全部直営店で全国に約20店舗ほどあった)に行って、何回か交換していた覚えがある。
新機種がなかなか出なく、外装等に飽きてくるので、「まもるくん」という携帯電話のカバーを装着したりもしていた。
DDIポケットは、その後KDDIグループを離れ、カーライルグループという外資系企業が出資、ウィルコムと名称を変えることになる。
そのウィルコムからWindowsMobileが発売された。2005年12月のことで会った。
「W-ZERO3」
キーボード付きのスマートフォンである。
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