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TRPG制作日記(80) 容姿12

高価であることが、それ自体が魅力になることはあります。私たちが美術館で絵を鑑賞するときに、ある絵が数百億円で取引されていると聞くとそれだけでその絵への関心が深まり、もっとこの絵について知りたいと思った経験がある人はいるでしょう。

高価であることの価値は、それが魅力的に見えたり関心を持たれたりするだけではありません。

たとえば、100円のボールペンを紛失したときに、私たちは確かに悲しいと思うでしょうが、その悲しみは30万円の万年筆を紛失したときほど深くないと思われます。

また、30万円の蒔絵の万年筆は100円のボールペンよりも傷が付かないように大切にされるはずです。登山に行くときに、万年筆ではなくボールペンを持って行くのはただ便利だからという理由だけではないはずです。

高価な物は大切にされるのです。


昨日は労働力を含めた商品の価値を、使用価値と交換価値に分けて考えることを試みました。

使用価値とは商品の実際に役に立つ能力のことで、交換価値とはそれがどれだけの価格でやりとされるかです。

たとえば、100円のボールペンの使用価値は書くことであり、そして交換価値は100円です。


これは道具だけではなく人間にも当てはまります。なぜなら、資本主義社会においては私たちは労働市場で労働力を売るからです。

この場合は個人の技術や能力が使用価値となり、そして時給を交換価値として解釈することができます。


さらに、使用価値と交換価値は等価交換方程式(AとBは商品)、

aA=bB

で関係付けられています。この式から技術や能力などの使用価値はどれもが質的に異なっており、どれもが社会で対等で平等に必要とされているのも関わらず、それらは数値化されて交換価値の高いものと低いものに分けることができてしまいました。

そして、交換価値の低い技術や能力を身につけた労働者は低所得労働を押しつけられて、最後には貧困による死に至ることを書きました。


昨日は個人が低い交換価値を持つことにより、肉体的な悲劇に陥ることを指摘しましたが、今日は交換価値が低いことによって、ただ貧しくなるだけではないことを指摘したいと思います。


さて、30万円の蒔絵万年筆Bと100円のボールペンAの例に戻りましょう。

この二つは書くという同じ使用価値を持ちますが、交換価値は蒔絵万年筆Bが30万で、オールペンAが100と大きく異なります。

このときに私たちは蒔絵万年筆Bには書くこととは異なる別の使用価値が存在していることに気がつきます。

まず一つ目は外見です。

蒔絵万年筆Bには蒔絵が施されています。そのため、この万年筆はそれ自体が美術品といえます。

たとえば、100億円の絵画を思い出してください。

それらは紙と絵の具であり、ぱっと思いつく原価は、せいぜい2000円くらいにしかなりません。

それが絵画になることで感動という使用価値を持つようになります。蒔絵万年筆も同様に、蒔絵が施されることにより美しさという書くこととは別の使用価値を得ています。

私たちは美しい蒔絵を見るのが好きなので、美しい蒔絵を見るのです。


そして、二つ目です。二つ目は決定的です。それは耐久性、ではなくて使用者の容姿への肯定的な影響です。

契約書にサインをするときに、相手が蒔絵万年筆でサインをしたらあなたは厳粛な気持ちになることができるでしょう。

また、蒔絵万年筆で何かを書いている人を見たら、私たちは彼らが重要なことを書いているような気になります。

このように、30万年の蒔絵万年筆は使用者に容姿による権威という別の能力を与えることがあります。


万年筆の例は良くないので、衣服を例にしましょう。

もしあなたが駅前で恋人と待ち合わせをしているときに、駅から出てきた相手が魅力的な服装をしていたら幸福な気持ちになるでしょう。

相手が男性なら、シックな黒いジャケットやジーンズ。

相手が女性なら、フェミニンな白いブラウスやスカート。

もちろん、あなたがどのような服装を喜ぶのかは好みにより、そしてどのような服装であっても相手が魅力的に見えればあなたは幸福なはずです。相手がどのような服装を選んできても、それが魅力的であればどのような服装でも魅力的です。

しかし、デートで相手が安物で着古したジャケットやジーンズ、安物で着古したブラウスやスカートだったら残念な気持ちになるでしょう。

ああ、この人は自分をその程度の存在としか思っていないのだと悲しく感じるかもしれません。


このことから分かるのは、少なくともデートのときにおいて、私たちは相手の服装にそれなりの交換価値の商品を求めるということです。

これは営業のときの服装に関しても同様ですし、販売員が商品を進めるときも同様です。

営業のときに相手が安物の服装だと残念ですし、また販売員がわざわざ店で一番安い商品を「あなたにぴったりですよ」と勧めると相手は侮辱されたように感じることでしょう。


極端に高価な例は別として、このように交換価値の高い商品は、その交換価値の高い商品に触れている人の容姿に肯定的な影響を与えます。相手を魅力的な人物に見せてしまいます。

また逆に交換価値の低い商品は、交換価値の低い商品を身につけている人の容姿を著しく損ねます。

交換価値は周囲の存在に魅力を与えるという使用価値を持つのです。


これは衝撃的なことであり、また衝撃を受けるべきことです。

人間の話に戻りましょう。私たちは資本主義社会では人間であるだけではなくて商品としても存在しています。

そのため、同じ現象が起きます。

すなわち、資本主義社会では、交換価値の低い仕事をしている低所得労働者と親しい人を見ると醜く見えて、また交換価値の高い高所得労働者と親しい人は魅力的に見えるのです。

社会運動家が醜く見えるのはそのためです。


昨日は交換価値が低い技術や能力を身につけることが貧困に至り、生活を苦しくすることを指摘しました。

しかし、交換価値が低い技術や能力を身につけることの恐ろしさは生活が苦しいだけではありません。

私たちは交換価値の低い技術や能力を身につけることで、私たちが親しくしている大切な人たちの人間関係を破壊してしまうのです。その技術や能力が社会で必要とされており、彼らの仕事が重要であり、そして本来ならその技術や能力を必死に習得して、その仕事を携わる人たちが本来なら敬意を払われるべき人々であるにもかかわらず。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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