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【再掲】悶々とするこの思い~相模原の事件に思う~

相模原市の知的障害者入所施設での事件から6年。改めてその日のこと、その後自分の心に渦巻いた思いを記したコラムをここに再掲し、今もって障害福祉に携わる上で決して風化させてはならないその気持ちを再認識することとした。


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先日、とあるクライエントとの相談の最中に「あのことをどう思っていますか?」とふいに聞かれた。

あのこと、とは数年前に起きた凄惨な事件のこと。言うまでもなく、神奈川県の障害者入所施設で起きた元職員による前代未聞の出来事。この事件が起きた当時から、私は幾度となく業界内外問わず多くの人から「どう思うか」聞かれてきた。私もその分野の真っ只中で現役として仕事していたからこそである。



同じ日の夜、私は都内の施設で夜勤をしていた。

明け方、そろそろ入所者が目を覚まし始める頃と思いロビーのテレビをつけると、おびただしい数のパトカーと救急車が映し出され、何か重大性を思わせるテロップが流れていた。もちろんこの時はそれほどまでに驚愕することが起きているとは感じてはいなかった。情報が明確ではなかったからである。ただ、事件の起きた場所が、自分が同じ時間に夜勤をしていた施設とそれほど離れていないこともあり、「犯人の感情の矛先がずれていたら自分が被害に遭っていたかも」という、他人事ではない思いも感じていた。




影響は確実にこの業界を震撼させる。

利用予定だったクライエントからは次々とキャンセルの申し出があり、地域で暮らすかつて支援していたクライエントからも「自分は本当に存在する価値がないのか」と不安の声が聞かれた。

外部の研修や会議などに出席すると必ず「犯人に対してどう思いますか?」と意見を求められた。


さらに、ご承知の通り、これまでの大事件とはまたちょっと違う方向に世論がブレ始めているのも苦々しい思いだった。



様々な感情が渦巻く中、ぬぐいきれず悶々としてしまった理由はただ一つ、犯人が「元職員」という事実だった。






私がこの世界(障害者福祉)に入ったのは22歳の時。その前、始めて障害者施設と実際に関わりを持ったのはまだ学生だった20歳前後の頃。


そこから、述べ何百人とも言えるほどの職員とともに働いてきた。すでに業界長い先輩方や、同時期に入職した者、後輩や、後輩だったとしても年配の方々など。そして、彼らの知的障害者に対する支援方法もまた十人十色であった。



今思うと、当時の支援方法は教育的であり指導的であり、またご都合主義的な部分もあった。現代とは人権意識そのものが比較にならない。


もちろん、虐待をしていたとまでは言わないが、人権意識に極端に神経を尖らせる今では「該当」してしまうのではという対応方法も正直散見された。今考えると私だってそれらを参考に支援していたところもあったと思う。



支援という名の指導。サポートという名の強制。関わりという名の叱責。これらの境界線すらまだ未発達であった時代である。その後、各法人で倫理綱領や行動規範が精査され、そういった行為への関心の眼も鋭くなる。




そのハザマで、まだ発展途上の支援者だった私も、利用者支援においてはやりきれない不条理な状況を数多く体験してきた。それは若い自分の心の傷になったこともあったし、今でも思い出すだけでイラっとすることもある。

こういう思いは、どの仕事に就いたとしても起こりうる。この分野だけの話ではない。


ただ、目の前にクライエントがおり、彼らの障害特性により傷つけられたとしても、だまって我慢する。対抗してしまうとその瞬間「虐待」と叫ばれてしまう。

昨今、高齢者施設でのセクシャルハラスメントなどもようやく声をあげられるようになってきたが、それでも「利用者の人権」は守られるが「支援者の人権」は置いてけぼりのままである。この世界に人材が集まらないのもうなずける。






では、神奈川の障害者施設で起きた事件についてはどうか?私は当時も、今でも、この問いに対する答えは同じ。





「犯人の考えは1ミリたりとも理解も共感もできない」





これに尽きる。


ただ、一方で思うことは「いつかこういうことをしでかす人が出てこないか常に不安だった」ということ。これは、この世界に長く携わってきたからこその不安であった。

自分がともに働いた多くの同僚を振り返ると、誠実に支援に取り組む人だけではない。なぜこの世界に飛び込んだのか理解に苦しむような人も見られた。繰り返すが、それは何も福祉施設の世界に限ったことではない。一般企業だって同じことだ。ただ、少し特殊な環境であることには異論はない。



このことを払拭するにはどうすればよいか。知的障害者の特性がこの事件によって変わる、ということはない。支援者が一生懸命研修を受けても、効果はたかが知れている。



単純な考え方ではあるが、今一度「職場環境」の整備が大切なのではないだろうか。


支援員同士で気持ちを分かち合うこと、辛い思いをした時に支え合う文化、疑問を感じた時に腹を割って話し合える空気。何か問題が起きた時に「誰かのせい」にせず、共有し解決する風習。もちろん、労働条件の整備(これは運営管理者のもっとも大事な仕事)。



理想論だとか、当たり前ではないかと言われそうだが、実はこれらのことを実践できている事業所は極めて少ない。なぜか?時代錯誤の福祉を語る経営者が未だにはびこることもその一要因であるし、あらゆるビジネス要素が参入したことにより営利主義的な運営が広まったことも遠因であろう。

これらは必ずしも『悪』と言うことではないが、言いたいことは山ほどある。ここでは詳細は割愛する。


被害に遭われた方々のケアは専門家に委ねるしかない。周りであまり騒ぎ立てても、本人たちは報われない。まずは普段の生活に1日も早く戻してあげること。



そして、いよいよ裁判が始まった今、改めて事件が起きたその背景を分析し、業界全体として進むべき道を探っていくことが大切である。これは、終わりのないプランニングである。



当日夜勤をしていた職員の心の傷も心配している。


先ほど、様々な支援員がいたと述懐し誤解を招いたかもしれないが、多くは誠実に利用者支援に向き合う人たちである。彼ら彼女らが抱えてしまったのは「恐怖」よりも「責任」ではなかろうか。

もし利用者を守ることができなかったと自責の念を抱いているとしたら、それは間違っている。命をかけて守ろうとした、立派な支援者である。それを、すべての人が認識し、彼ら彼女らを支え続けて欲しい。私は最大限の敬意を表したい。





犯人に対して。


彼の人権を守る必要はもはやどこにもない。持論を貫くなら好きにしたら良い。やがて突きつけられる現実に真正面から向き合うときが否応なしに来るだろう。







この事件によって傷を負ったすべての人々に、1日も早く平穏な日々が戻りますように。

最後までお読みいただきありがとうございました。皆様のお役に立てるようなコラムを今後も更新してまいります。ご縁がつながれば幸いです。 よろしければサポートお願いいたします。