【小説】願いごとなんて

 この告白を受けたら、私は真の意味で普通の人間に成ってしまう。緊張した面持ちでこちらを見つめる目の前の男を見ながらそう思った。
 「普通とは何ぞや。」脳に住まう古代人がそう問うた。普通とは他の大勢と同じ人生を辿ることなり、と答えた。古代人は「つまんなそ」と言った。
 「そんなことないわ」と反論したのは未来人であった。「普通はいい事だわ、いい事だわ」と繰り返した。未来人の知性は現代人のそれに劣るのだと何かの本で読んだ。「酷いわ。そんなことないわ。」未来人はじたばたした。「だって小さい頃は普通になるためにがんばったじゃない。普通になったら嫌われなくなったじゃない!」お黙りなさい、と私は言った。
 その時机をばん、と叩いたのは生活担当大臣であった。
「静粛に!」
一番うるさいのは貴殿ではないかと言うと、大臣はきりりと此方を睨んだ。「其方はそもそも生きるということが成っていないのだ。」どういうことかと私は耳を傾けた。「毎朝の食事は林檎と適当な菓子、昼餉は朝が遅かったため無し、母君の作る夕飯だけがまともな食である。」それには反論の余地もなかった。だが私は生きている。ならよいではないか。
 「こんなんじゃ絵にもならないよ。」弱々しく呟いたのは芸術家であった。芸術家の姿はどこにも見えなかった。「絵なんて描けないよ。」愛はどうか、と私は問うた。「愛なんて、絵にもならないよ。」芸術家は寂しそうに言った。「愛を知っているのか」と古代人が問うた。古代人の目は爛々と輝いていた。「愛はあの丘の上にあるよ。僕もそこに居るよ。」芸術家は丘の上に居るようだった。私は古代人と未来人と生活担当大臣を連れて丘を登った。

  願いごとなんて本当は意味ないの
  星が降るのは風が吹くから

 丘の上の芸術家はそう繰り返していた。それなあに、と私は聞いた。「邪魔をしないでくれよ」と呆れた顔で返される頃には丘の頂上に着いていた。「星ね。星がよく見えるわね。」未来人がはしゃいだ。確かに星は、上空を吹く強い風にぱらぱらちらちらと揺れていた。
 恋をしたことはあるか、と私は問うた。「恋だと、ある。あの女は芙蓉のよう、また粉雪のような儚い夢の女であった。」古代人は田んぼの畦道のように朗々と語り出した。私はそれが長い話になることが分かっていたので、未来人に向き合った。未来人は「恋、恋ね。知ってるわ、わたし。恋よ。恋なの。」そう言いながら下半身が地面に埋まっていた。私は慌てて未来人の脇を掴んで引っ張り上げた。
 私が未来人の頭を撫でていると、後ろで大仰な木製の机に頬杖をついた生活担当大臣が叫んだ。「遅い! 月にはいつ着くのか。」大臣は酔っているようであった。私はいくら歩いても月には辿り着かないことを説明しようとしたが、喉がつっかえて声が出なかった。「なんだ、骨を詰まらせているではないか。」心配そうな顔で、大臣は私の口に手を突っ込んだ。「ほら、熱帯魚を食ったな?」もちろん、私は熱帯魚など食ったことはなかった。大臣が私の口から抜き取った拳を開くと、赤い、ひらひらとした尾びれの小さな魚が宙を泳いでいった。「あれ、土佐錦だったな。」ははは、と大臣は口を大きく開けて笑った。
 「恋を知らないとは、もしや人ではないな?」古代人が突然言った。「時にお前は幾つなのか。」もうすぐ二十だ、と答えた。「私の時代では二十歳は年増の行き遅れである。」私は憤った。それは古い時代の話だ。「酷いわ。行き遅れなんて酷いわ。」だが、もっと怒ったのは未来人だった。「この子は人だわ。人に成るんだわ。」人に成るとはどういうことか、私は疑問だった。「人に成りたいの?」芸術家が振り返って言った。もう丘は遠いはずだが、声だけは近くに聞こえた。「人に成るなら愛を知らなくちゃ。」愛とは何ぞや。「愛は、絵にもならないよ。」私は何もわからなかった。「愛をするってむずかしいわね。あの川を渡れば愛をすることになるかしら?」未来人は目の高さを横切る大河を指さした。川面が目の高さなので水中がよく見えた。昨日は大雨だったから、見えたのは濁った水と流されるゴミだけであった。私は、中学生の頃国語の授業で読んだ物語を思い出した。だが川向うに待つ友はいない。「駄目だ駄目だ。流れが早すぎる。」大臣が弱音を吐いた。私はそれでもいつかこの川を渡らなければならない気がした。「人に成るってむずかしいわ。」こればかりは未来人に同感であった。「風が強い。船はだめだ。」古代人が呟いた。「別の道を探そう!」帽子を抑えながら誰かが叫んだ。確かに風は地を這う獣のようであった。窓ががたがたと音を立てて、私ははっとした。
 目の前には先程から同じく緊張した面持ちの男が行儀よく座っていた。
「どうでしょうか」
 行儀のいい癖にせっかちな男であった。
「濁流を渡るのは危険です」
「それもそうだ。でも、あなた一人なら渡れるのではないですか」
 たしかに、古代人と未来人と生活担当大臣と芸術家を抱えて川を渡ることはできないが、彼らを置いていけば不可能ではないと思った。「置いていくのか」と古代人の怒る声が聞こえるかと思ったが、もう誰も何も言わなかった。
「川を渡る覚悟はできますか。渡ってくれますか」
 私は迷った。男を全く意識しないわけではなかった。しかし、彼らを置いてまで渡る必要のある道だろうか。私はひとつ「うーむ」と唸ると、ため息を一つと深呼吸を三回し、ごめんねの「ご」の形に唇を整えた。

 目の前には帽子の似合う友人が座っていた。
「また話の途中で寝ていたね?」
「ねてたかな」
 友人は釣り目がちな眼を困った風に下げて言った。
「一緒にいた人は帰っちゃったよ」
「せっかちだねえ」
「……良かったの? 川を渡らなくて」
「まあ、渡っても良かったんだけどさ、こっちの岸には君がいるから」
「ふん」
 友人は鼻を鳴らすと帽子を目深に被り直した。
 私は、私の願いごとについて考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?