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40代からの終活は早すぎる?

大動脈弁閉鎖不全症のため大動脈弁置換術という手術を受けたキリスト教牧師のお話。

そういえば、ICUの看護師さんに「幼小中とカトリックの学校でした」という人がいた。
聖書って面白いですよね、とか、どうして牧師になろうと思ったんですかと聞いてきてくれたので、いろいろお話しました。
自分の人生の歩みを聞いてもらえるというのは嬉しいことなんだなと思った。

術後三日目に一般病棟に戻ってきた。
最初は観察のためナースステーションの目の前の部屋(個室)に。
室料差額が日ごとに発生するが、静かに眠れる。

入院時に持ち込んだ荷物は、術後ICUに行くために、タオルと下着とコップなど以外、すべてを一旦持ち帰らないといけないのだが、一般病棟に戻ってきたので、スーツケースにまとめていたものを再び妻が持ってきてくれた。

その中からディボーションノート(日記のようなもの)を、取り出し、もう一度、それを開いた。

妻への遺言が書いてある。

今回は必要ないものになった遺言書だ。
よかった、よかった。

字も雑に、内容も銀行の暗証番号とかそんな話。
しかもノートの片隅に。

もっとちゃんと書きたい、ちゃんと書かなきゃ、と思いながら、どうしても実感が沸かず、そんな気になれなかった。
仕方なく、手術前日の夜に15分ぐらいで書いたものだ。

夜のだれもいないデイルーム(面会室)で、三人の子どもにそれぞれにあてたビデオメッセージを…。
「これを見ているってことは、お父さんはもうイエスさまのところにいるってことだね…。」
そんなベタなフレーズで始まるメッセージを残したりするのかな?

と思ったけれど、それも全くそんな気分にはなれなかった。
ほんとに死ななくてよかった。

教会にも「もしもの時に開けてください」と書いた封書をのこしておいた。
後任の人事についてとか、葬儀についてとか、やはり淡々としたものになってしまったが。

人はいつ死ぬか分からない。

だから、大切な人に、大切なことばを残しておくのは、すぐにやった方が良い。
あなたが今、10代や、20代だったとしても。

三浦綾子さんの「塩狩峠」という小説の主人公の話か、そのモデルになった長野政雄さんの話か忘れてしまったけれども、クリスチャンであるその人は、毎年元旦に遺書を更新し、それを一年間、肌身離さず持ち歩く、というのを読んだ。

おめでたい元旦にそんな辛気臭いことをと、人は笑うかもしれないが、自分の命をいつでも好きな時まで延ばすことができると考える方がよっぽどおめでたいのではないか。

高校生か大学生かの時に「塩狩峠」を読んで感銘を受けたぼくは、遺書をしたためて、それを親友に託した。

10代の青年には遺すような財産もないし、ためになる教訓話や経験談を書けるわけでもない。

キリストに出会って、生きる喜びを知れてよかった。
短くても幸いな生涯だった。でもこれは終わりではなく、永遠のいのちに続いていくのだから、これを読む人はよろず信じて天国で自分と再会して欲しい。そんなことを書いたと思う。

そして「家族をよろしく頼む」と言って、それを親友に託した。いつもはふざけあっている仲だが、ぼくが真剣なのを見て、おう、任せとけ、みたいなことを言ってくれたと思う。
記憶が曖昧だが、とにかく頼もしいなと思ったのは覚えている。

それ以来、遺書を更新はしていない
そろそろちゃんとしたものを書いておかなければな。

でも、書き出し三行で泣いちゃうんだよな。

だから、普段から、大切な人に大切なことばを、伝えておく。
自分の人生に、神さまがどれほど大きなことをしてくださったかを話しておく。
こっちの方がもっと大切なことだ。

私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは それをよく知っています。

[詩篇 139:14]

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