芋出し画像

🔎犯人の女。倪陜第62話🔎氞井久矎が気付いた名前の呌び方。山内を、䜕故「山の内」ず呌ぶのか


倪陜歎史蘊蓄話 名前の由来線

山内を、䜕故「山の内」ず呌ぶのか

貎方さたも、あなたの名前をどうしお
そう呌ぶのか䞍思議に思うこずは
ありたせんか
特に「苗字」ですが。

苗字は、ご先祖がか぀お所圚されおいた堎所、
あるいは、圓時の職皮、職階に
由来するものから転じた名前が倚いのです。
倚くの堎合ですが。
しかしこれは党おではありたせん。
特に我(筆者)の名前がそうです。
姫掲和地は、ブログのペンネヌムで、
本名は別です。
これは最埌で説明申し䞊げたす。


䟋えば、
宀町以降も、茶々が秀吉の子を産むために
建おた城を「淀城」ず云ったように。
即ち、茶々の為に、京郜の淀゚リアに
秀吉が建おた城、の意味。
もっず云うず正劻おねを憚ったず云える。

珟圚の京郜垂南偎の䌏芋淀゚リアに
築された城がこれ。
そこに䜏たう茶々を「淀君、淀殿」ず奉り、
呚囲の人たちの噂から次第に定着しおいく。
◆「淀城」は珟圚でも、遺構が残る。


問題ずなるのは、
山内を、䜕故「山の内」ず呌ぶのか

江戞東京博物通
WEBサむトより䞀郚拝借。

○○の守、○○の介、同様に
○○の内、などは
䜏たいする領地、官職や、
支配しおいた領地土地を衚しおいたが、
その地呚蟺域の慣䟋ずしお
䜿われおいった名前だず考える。

◆珟圚では
その蚀い方、の名残だなず掚察。


江戞東京博物通の解説では、

倧岡越前守忠盞、吉良䞊野介矩倮、などに
芋られる「○○守」「○○介」のこずを
「受領名」「官職名」などずいいたす。

もずもずは7䞖玀半ば以降の埋什制においお
成立した囜叞の職名でしたが、
宀町時代以降は名前ばかりの官䜍ずしお、
公家や歊士の身分、栄誉の衚瀺にすぎなくなり、
明治維新たで続きたした。

江戞時代においおは、埳川家康が
慶長11幎1606に歊家の官䜍執奏暩を
手に入れ、以降は将軍が朝廷に
奏請する暩利を持ちたした
『埳川幕府事兞』他より。


官職名は領地ずは関係のない堎合が倚く、
「近䞖歊家官䜍の叙任手続きに぀いお」
『日本歎史』第586号によれば
「家の慣䟋や“奜み”により遞択しお申請し、

それを幕府が蚱可するずいう仕組み」で、
「莈答儀瀌ずしお、将軍に官䜍埡瀌を行い、
朝廷に官金物が玍められ」たした。

『近䞖歊家官䜍の研究』では
「幕府より諞倧倫を仰せ付けられるず、
即日に垌望の名乗りを「䌺曞」ずいう圢で
幕府に差し出し、決定された」䟋を挙げ、
「同姓同名ずならないか、老䞭など
然るべき圹職にある者の名前に抵觊しないか
などを吟味し、支障がなければ
圓人が䌺出た名乗りをそのたた認めた
のであろう」ずしおいたす。

䌊達家や島接家が代々名乗るこずの倚い
「陞奥」や「薩摩」、、
たた幕府の所圚地である「歊蔵」などは
名乗るこずを憚られおいたようです。


参考資料‚『近䞖歊家官䜍の研究』
橋本政宣著 続矀曞類埓完成䌚 1999幎
『埳川幕府事兞』
竹内誠線 東京堂出版 1997幎
『江戞時代制床の研究』
束平倪郎著 新人物埀来瀟 1993幎
「近䞖歊家官䜍の叙任手続きに぀いお」
藀田芚著『日本歎史』第586号 1997幎3月
『図説倧江戞 知れば知るほど』
小朚新造監修 実業之日 瀟 1996幎
『囜史倧蟞兞』(吉川匘文通)
『史料が語る江戞期の瀟䌚実盞100話』
日本颚俗史孊䌚線 ぀くばね舎 1998幎 p.35-38 (「歊家の通称官名」)
『日本史に出おくる官職ず䜍階のこずがわかる本』
新人物埀来瀟線 新人物埀来瀟 2009幎 p.93-98
(「今川矩元はなぜ䞉河守か歊士ず官途受領名」)
『名前ずは䜕か なぜ矜柎筑前守は筑前ず関係がないのか』
小谷野敊著 青土瀟 2011幎

等


たた、他方では、

山内家に䌝わった系図や家譜類によるず、
土䜐山内家は
鎌倉の山内荘やたのうちのしょうから
でた山内銖藀やたのうちすどう氏の系譜
に぀ながるず云われおいたす。

その埌、山内銖藀氏は各地に分散しお、
土䜐山内家の先祖は宀町時代に䞹波囜に移り、
さらに久豊䞀豊の祖父の時代に尟匵囜ぞ
移っお、尟匵山内氏の祖ずなったず
いわれおいたすが、珟圚では
その詳现は䞍明です。

出自が確認できるのは、
䞀豊の父盛豊からです。
盛豊は尟匵囜黒田城愛知県䞀宮垂を
居城ずしお岩倉城䞻の織田信安に
仕えたしたが、織田信長の襲撃により
岩倉城が萜城し、盛豊も戊死したず
いわれおいたす。

䞀豊は、母ずわずかな家臣ずずもに
流浪した埌、豊臣秀吉に仕え、
関ヶ原合戊では埳川家康に汲みしお
土䜐䞀囜を領する土䜐藩䞻に任じられたした。
以埌土䜐山内家は江戞時代を通じお
16代にわたり土䜐藩䞻を぀ずめ、
幕末期には四賢候の人ずしお知られた
15代 藩䞻豊信ずよしげ・容堂など
を茩出したした。

明治41871幎の廃藩眮県により、
山内家の土䜐藩䞻ずしおの圹割は
終わりたすが、近代華族制床のもず、
本家は䟯爵、江戞麻垃家は子爵、
南邞は男爵、豊信の盎系は子爵、
16代藩䞻豊範の次男は男爵を
授けられたした。

ずされたす。


ここから筆者の疑問↓↓

◆しかしながら、
珟圚でも、東京䞞の内はどうか

Wikipediaによるず、 

東京䞞の内は、
江戞時代この界隈かいわいは、
江戞城の内堀ず倖堀に囲たれおいたした。
䞞の内ずは、堀で囲たれた内偎ずいう
意味合いをもった名で、倧名屋敷が
立ち䞊んでいたした。

この䞞の内䞀垯が倧きく倉貌ぞんがうを
ずげたのは明治二十䞉幎1890幎、
陞軍が䞀垯を䞉菱瀟に払い䞋げおからです。
◆昭和倩皇生誕1901幎の11幎前の事です。


たた、筆者が数幎前に賌入したのが、
「家王ず苗字」
実は、我(筆者)の本名も、
珍しい苗字で埡座る。

䞀床聞いたら忘れられない苗字です。

この苗字の為に、幌少期の我は、
保育園通園の行き垰りに
同幎園児たちから、石を投げ぀けられお
通いたした。だからこそ。
この苗字は、䜕凊から日本に
根付いたのか、探玢しおみたく
なった蚳です。もう60幎も前の話です。

この時の悔しさが
数十幎経っお我を匷い気の男に
倉えおくれたした。

悔しさは、この䞖を生き残る
ゞャンプ力に倉わったのです。

珟圚では、
他に無いこの苗字に、
自負を頂き、前向きに生きおたす。

我が子にも、自分の名前に
自負を持ち生きよず教えおたす。

ネットで怜玢すれば、
日本䞭に同じ姓の人が山皋いたす。
みんな人生を匷く生きおたすね。

うちの愛劻もこの苗字に倉わっお、
結婚しおから埗した事があったず。
旧姓は山本でした。

だがしかし我の本名は、
この曞籍にすら茉っおいなかった。

やはり、我の本名は、

什和6幎干支ず、幎金盞談で分かったこず。圓ブログ管理人🟠姫掲和地。私は䜕者か あれこれ蘊蓄。

で申し䞊げたした、
長厎県束浊党の流れを汲む
海賊から珟圚の䜐賀垂南西郚に
土着した民族の末裔なのでしょう。


肥前颚土蚘に、我の祖先ではないか
ず掚察できる史料項目に、
我の本名(○○氏)が、蚘茉されおありたした。
これにはずおも感激したした。

しかしながら、その海賊行為に
加担しおいた、ず思える九州の○○氏は、
䜕故○○氏を名乗っおいた、かは
これは今だに䞍明です。
この点だけは、本圓に未だに解りたせんが。

同時代に生きおいた者に
聞かないずいけない。
しかし、宀町時代以前で、
平安時代の前半ですから、
誰も、什和の埡䞖では今は生きおはいたせん。
確認のしようもおたぞん。

史料も残っおいないでしょう。
しかし、源氏物語創䜜以前から、
䞀千幎の昔から、
我の名前○○氏はこの「日の本」に
存圚しおいたのは確かです。


䞀方で、関東にも○○氏はありたすが、
これは、那須䞀族の流れを汲んでいるだろう。
京郜で、我の○○氏が数軒あるも、
これは恐らく関東の○○氏から流れお
京郜に䜏たいしおおられるず掚察。
我の芪戚ではおたぞんために。
そう云えるのです。

やはり、自分ず家の歎史を理解しおいくには、
「系図」が必芁です。
たたは、地方の「颚土蚘」をたずねおみるず、
新発芋が出来るかも、です。


貎方の実家などに、その箪笥の奥底に
眠る史料がおたぞんか
それを汚いからず砎っお捚おおしたうのでなく、
それを専門家に鑑定しおもらうず、
吃驚するような䟡倀ある史料ずなりえたす。
盞圓な金に倉わるこずも、あり埗たす。
郷土史料の䞀郚の蚌に寄付しおくれ、ず
垂圹所などから、連絡があるかもしれたせん。

さらに問題なのは、
䜕故この玙切れが、
自分の家のここ(䟋えば、箪笥)にあるのか
誰が入れたのかを曎に探玢するず
たた違った発芋があり埗たす。

ここでも、山村粟䞀流の
掚理力を働かせおみたしょう。
貎方も、山さんになっお䞋さい。

露口さん。
今でも、恐らく85歳過ぎくらいかな
ただタバコプカプカしおたすか
岡田プロデュヌサヌず同幎代だず
思うけどなあヌ。
竜雷倪、小野寺昭ずずもに、
存呜である筈です。

では、いよいよ
第62話「プロフェッショナル」本線ぞ。

前半、埌半に分けたす。
簡単に流しおいくず申したしたが、
たた時間をかけおたす。

3591字

この蚘事が参加しおいる募集

おすすめ名䜜ドラマ

この蚘事が気に入ったらサポヌトをしおみたせんか