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ヘテラルキーについて。私たちはフラットな関係になれるか?『トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡』より

自分が対話に参加する時には参加者の方と対等な関係を意識してやっていました。安全に本音で話してもらうためにその関係性が必要だと思っていたからです。特に主催したりファシリテーター(進行役)をする時は誰より控え目を意識してました。そんな中、『トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡』を読んでいた時に衝撃的な言葉が目に入りました。

「僕はクライアントと専門家が対等になれるとは思わない」


以下引用(アレンジあり)です。

(略)ヒエラルキーからヘテラルキーへという関係性の移行について、後者が単なるフラットな関係を意味しないことも明言されている。この点は、リフレクティングを活用した各種のダイアローグ実践などにおいて、今も誤解されがちな部分だろう。僕はクライアントと専門家が対等になれるとは思わない

  • クライアント→僕の持っていない『ローカルな』経験を有す

  •      →彼らの持っていない『一般的な』経験を有す

だから僕らは異なっている。そしてまた、彼らは、何を、どんなふうに僕らが話すべきかについて決定権を持っているという意味でも対等じゃない。

こうしたアンデルセンの発言は、われわれが会話の場において、安易にクライアントと専門家のあいだにフラットな関係を標榜することに慎重であるように促し、振りかえりの機会を与えてくれる。当然のことながら、会話の参加者は、それぞれに多層的な歴史を刻む固有の文脈に位置づいており、 各々がそれを意識するにせよ、しないにせよ、既存の社会関係にそれらの文脈のいくばくかが編み込まれた状況のなか、そこに生じる力関係の磁場のもとで会話はなされてゆく。ここに述べてきた通り大切なことは、お題目としてフラットな関係を標榜することではなく(もし、それが専門家の側から一方的になされるとしたら、まことに悲惨だろう)、既存の文脈がはらむ力関係を感受し続けながら、その場にいる人々のそれぞれに異なる固有の価値を尊び、願わくはそのあいだに新鮮な風を通す工夫を重ねていくことだろう。

(Andersen 1993:321)「トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡 リフレクティング・チームからリフレクティング・プロセスへ」p.90

これだけではヘテラルキーがどのようなものかはっきりしない。ヘテラルキーを調べても日本語での情報は非常に少ない。ということで英文wikipediaの該当部分っぽいところを翻訳サイトを通したのが以下になります。

社会的には、ヘテラルキーは特権と意思決定を参加者に分散させるが、ヒエラルキーは構造の上位のメンバーに多くの権力と特権を割り当てる。システム的な観点では、Gilbert ProbstやJean-Yves Mercierなどはヘテラルキーを組織内部の形式的関係の柔軟性として説明している[9]。 支配と従属のリンクはシステムの必要性に応じて、それぞれの状況下で逆転させたり特権を再分配させたりすることが可能である[10]。

もう一つわかりやすい文章があったので引用です。

格差問題。ヘテラルキーかヒエラルキーか ――そして格差についての比較です。弥生時代だけではなく縄文時代にも、格差社会は存在したそうです。ただ、弥生時代は上の階層に行けば行くほど人数が少なくなるヒエラルキー社会だったのに対して、縄文時代は、さまざまなタイプの人が重要人物として扱われるヘテラルキー社会だったということです。格差に苦しむ現代において、縄文時代の社会構造がひとつのヒントになるかもしれませんね。
設楽: そうですね。ヒエラルキーが君主制であるのに対して、ヘテラルキーは言ってみれば共和制のようなものですよね。弥生時代は人が人を支配する社会になっていった。ところが縄文時代は、役割分担のようなものが違う複数の頭がいたヘテラルキーですよね。支配の仕組みではない。リーダーはいますけれども、合議制のようなものによって社会をコントロールしていくわけです。ですから格差というものを特化していく弥生社会に対して、それを解消するような縄文社会という違いがあると思うんですね。 例えば弥生時代の終わりぐらいから奴隷がいたということが『魏志倭人伝』などに書いてあるんですが、縄文時代に奴隷はいません。ですから縄文社会の、格差はあるけれどうまくコントロールしているような仕組みをあれこれ考えると、何かヒントがあるんじゃないかなとも思いますね。

ヒエラルキーの反意語は「ホラクラシー」

ホラクラシーとは、階層構造をなさない組織構造で上下関係がないという特徴を持っている。会社組織においては、社長や役員はいるが、その他の社員は役職や肩書を持たない、というケースもホラクラシー型組織。
…というわけで本文で言うフラットな関係に近いみたいですね。

いろいろ調べてみて…医師や主催やファシリテーターなどの立場で力関係が発生するのは事実としてあるけど患者自身の感じたことは本人からしかもたらされないものとしてその価値を尊ぶ、(他の参加者に対してもそれぞれに価値を尊ぶ)と私は読みました。皆様はどう思われたでしょうか。

読んでいただきありがとうございます。ご意見などあればぜひお寄せください。

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