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「いじりといじめとは?」対話カフェそもそも レポート#31

【開催日時】
2024年2月10日(土)
13:00~15:00

第31回のテーマは「いじりといじめとは?」です。

いじめはもちろんダメです。
では「いじり」はどうでしょうか。

容姿をいじるのはダメ、という空気は当たり前になってきたように感じます。

しぐさや、出身地をいじるのは?
どこまでがいじめやハラスメントになる?

言われているほうが楽しんでいるなら良い「いじり」?
では、楽しんでいるとどうやって見分けるのか?

いじりといじめについて対話したレポートです。

はじめの問い

まずはテーマについて抱いている問いや、思うこと挙げていきます。

「いじりといじめの境界線は?」

「『いじめ』という言葉を使う是非について。社会だったら暴行事件になるようなことが、学校だと『いじめ』として軽く扱われる。『いじめ』という言葉を使わないほうがいいのでは」

これらの問いが挙がりました。

いじりといじめについて思うこと

問いに取り組む前に、どんどん思うことを挙げていきます。

「どちらにも、する側とされる側が必要なこと。一人きりではできない」

「する側される側だけでなく、見ている側にも不快感を与える」

「ひとつの行為でも、する側、される側、見ている側で受け取り方が違ってくる」

「受ける側がどう受け止めるかで、変わってくる」

「受ける側が『いじめられている』と気づいていない、認識していないパターンもある」

「近いところで、いじめる側が『これはいじめじゃない、遊びのうち』と相手に言い聞かせることも」

「子どもなら『遊びだった』『ふざけあってただけ』と言うことはよくある」

「学校側がいじめ発覚したあとに『遊びだと思っていた」って説明することもあったような」

「いじめられた側としては、いじめられていたという形で記憶をしまい込むと苦しいので、『自分はいじられていたんだ』と思い込んで消化していることもある」

いじりといじめの楽しさの関係

いじりといじめの差には、楽しむ、という要素が絡む?

「いじりは両者が楽しんでいるケースがある。例えば、タレントの松崎しげるに誰かが『黒い』みたいないじりをするけど、松崎しげる本人はそれを笑いに替えて楽しんでいるように見える」

「お笑いのアンソニーとか『見た目が外国人っぽいけど日本語ペラペラで英語は全然しゃべれない』みたいなのを自分で笑いにしてて、いじられることを楽しんでそう」

「ただ、本当に楽しんでいるのか、第三者は判断でいない」

「あとになってから『ブスいじりされるのが嫌でした』って打ち明ける女性芸人もいましたね」

いじりといじめと笑いの関係は難しい……。

いじりといじめの境界線は?

「いじりかいじめかは、受ける人の感想に依存している。受けた人が楽しんでいればいじり、不快ならいじめ」

「いじめは反撃してこなさそうな人がターゲットになりやすい。適度なリアクションがあるからいじめる側が楽しむ」

「まったくリアクションしないから狙われることも。消しゴムのカス投げつけて笑ってたりとかもあったり」

「いじりも、する側だけが楽しんでいたら、それはもういじめと同じ」

「いじりは軽いノリ、いじめは行きすぎた行為、という印象」

「いじりもいじめも、する側は客観的な判断ができない」

「ここまでは個人の話でしたが、例えば『国が労働者をいじめている』という表現もありますよね」

「税金増やすとか不利になる法案を通すとか」

「それはいじめというより差別に近いと感じる」

「いじめという言葉は包括的で、いじめの中に差別が含まれる。ただ、逆に、差別の中にいじめが含まれることもある」

「図に書いてみると、不思議な関係性ですね」

「道徳か何かで、『魚の世界でも弱い個体がいじめられることはある、でもそれは群れが生き残るために必要なことで、自然淘汰のひとつ』というのがあった。いじめというのは実は無いのかも」

「違うからいじめるとか、違いを排除するとかは、社会の秩序を保つための働きなのかもしれない」

「でも、された側が『自然淘汰だから』で納得できるかってなると……」

「ならないですよね」

「境界線は、物理的な暴力が伴うかどうか。アザとかがあればそれは間違いなくいじめ」

「これを言ってしまうのはルール違反かもしれないけれど、個人の文化圏や価値観で変容するもの」

「哲学対話は『人それぞれで片付けない』というルールがあったりしますが、よーく考えた上でそれにたどり着いたのならOKです。問いに対してすぐ『そんなの人それぞれですよね』で終わらせてしまうことを防ぐためのルールなので」

「ビジネスシーンで言うと、欧米では『みんながいる前で叱ること』は屈辱的な行為と取られると聞きますね。文化が違えば、同じ行為でも受け止め方が変わるのは事実としてある」

「物理的な暴力があれば、という話がありましたが、言葉のいじめはどうでしょうか? これまで話題になったいじめの事件でも、暴力ではなく精神的に追い詰めていくいじめもありました」

「言葉のいじめについては、する側の悪意があるかどうか。悪意があればいじめが成立する」

いじりと認められる要件は?

逆に、どんな要素があればいじりと認定できるのでしょうか?

「両者が楽しんでいるのがいじり、という話がありました。両者が楽しんでいるなら、それはいじめではなくていじりと認めていいんでしょうか?」

「いいと思うけど……第三者からの判定が難しい。楽しんでいるかは第三者からはわからない」

「わざわざ隠れてやってるのは、いじりじゃないと思います」

「他人の目を避けているなら、する側にやましい気持ちがあるってことですものね」

「クラス全員が『する側』だった場合は、教室でも普通に起きてしまう」

「教室に監視カメラつけたほうがいいんですかね?」

「そうなったら、する側はトイレでやりますよね。あとはネット使って、とか」

「一人一人にボディカメラつけるわけにもいかないし……人権問題が絡む」

監視でいじめの防ぐのは難しそうです。

大人になってまでいじめをするのはなぜ?

「これだけ学生時代にいじめが問題になっているのに、大人になっても会社とかでいじめが起きるのはなぜなんでしょうか」

「全然ふつうに起きてますよね」

「誰かが誰かを嫌いになる、ということは大人になってもあると思う。個人の相性だから」

「多人数で個人にいやがらせをしたら間違いなくいじめでいいとして……個人と個人の場合はどうなるのか」

「嫌いだから関わらない、というのはいじめっぽくない」

「嫌いな相手にわざわざ嫌がらせをするとなると、それはいじめ」

「嫌いだから距離を置いて関わらないのはあり?」

「でも距離を置かれた方が不快に感じたり、無視されていると思ったら、それはいじめになってしまう?」

ファシリテーターから、あるケースを例示して考えてみます。

「いじめられている」と言うAさんのケース

ある職場に、AさんとBさんがいます。
Aさんは、Bさんのことが嫌いです。

Aさんは「Bさんは私に対しての態度が冷たい。指示の仕方や、言い方が厳しい。Bさんは私をいじめている」と言います。

Bさんは仕事の都合で、Aさんに話しかけて伝達したりします。
AさんからBさんに直接話しかけることはありません。

AさんがBさんに用があるときは、Aさんが味方と感じるCさんを経由してやりとりをします。
Bさんは「Aさんに避けられていて不快」という思いを抱いています。

AさんはCさんに「Bさんからいじめられている」と愚痴をこぼします。
しかし、Cさんから見て、Aさんに対するBさんの態度はごく普通であり、まったくいじめにはみえません。
Bさんが陰でいやがらせをしていることもありません。

Cさんから見ると、Aさんの被害妄想が強すぎるのです。

このケースについて考えてみます。

「こういうの、すごくありそう」

「自分はCさんの立場になりやすいから、Cさんのつらさがわかる」

「Aさんは『いじめられている』とはっきり認定しているけど、第三者からそうは見えない、ってことですよね」

「これは……どうしたらいいんですかね?」

「Bさんの態度を改めてもらうのもちがいますよね、客観的には普通なんだから」

「Aさんに『いじめじゃないですよ』って言っても通じなさそう」

「Cさんから言ってもらったらどうですか? Bさんのはいじめじゃないよ、って」

「そうしたら、Aさんからすると『Bさんの肩を持つなら、Bさんの仲間だな』って思われて、今度はCさんもAさんから敵認定されそう」

「難しい!」

「対話の前半で『いじめかどうかは、される側の感想に依存する』って話がありましたよね。このケースを考えると……」

「された側の感想で認定したら良くないですね」

いじめられたという証言にどう向き合えばいいのか?

「いじめられた」という訴えの信頼性

「全面的に信用するのもどうなんだろう?とは思えてきた」

「でも、疑ってかかるのはダメだと思う。虐待問題でもそうだけど、まずは100%信用して話を聞くところから始めないと」

「それはそうですよね。問題は、その証言に事実と違う内容とか、被害妄想が入っていた場合」

「する側と、される側、それぞれから聞き取りしないもいけないですね」

「よく、加害者側にもひどい家庭環境があったとか、事情があった、みたいな話ありますよね。だから大目に見て、みたいな」

「でも、いくら大変な事情があったからと言っても、いじめをやっていい理由にはならない」

「ここまで聞いてきて、伝えようとしているのに伝わらないことってよくあるんだな、と。伝えると伝わるはまったく違う」

「いじめを受けた側の認識はどこまで信頼できるのでしょうか?」

「そうなると、さっきのCさんのような、第三者の認識もどこまで信頼できるのか?ってなってくる」

「やっぱり証拠が大切ってなるのかな」

「裁判みたいですね」

「判断をまちがえたら冤罪を生んでしまうから難しい」

このあたりで時間いっぱいとなりました。

ファシリテーターの思うこと

今回はとても難しいテーマでした。

いじりもいじめも、人のココロの問題なので、とても難しい。

考えていくと、何を信じたらいいのかわからなくなり、皆で頭を抱えることが何度もありました。

それでもあきらめずに、最後まで全員で考え続けたという実感があります。

とても密度の高い対話でした。

参加してくださった皆様、ありがとうございました。

次回の開催案内

次回は2024年2月24日(土)開催。
テーマは「コミュ障とは?」です。
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