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庭づくりの中で感じた「対話」の姿勢

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「対話の木の葉(任意団体)」のnoteでは、メンバーがそれぞれの日々の中で感じる「対話」にまつわる着想を記事にしてお届けしています。今回は千葉県いすみ市の古民家に住む、まさ(長井雅史)が庭づくり中に感じた対話体験についてです。

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去年から千葉県いすみ市にある古民家を借りて、田んぼや畑など自然との距離が近い暮らしづくりをしているのだが、母屋の前にある庭のスペースはずっとうまく手を付けることができていなかった。

ようやく今秋から腰を据えて手をつけることができているのだが、その体験の中で感じた「対話」との共通点について言葉にしておきたい。

まず、素人の体験ではあるが、ようやく庭づくりに手を付け始めて思ったのは、心地の良い庭をつくるときは「見えてくるまで」そこに立ち続けることが大切だということだ。焦って手を動かしたり、とりあえずの勢いで農機を使うのではなく、その場に立ち、何か感じるものが現れるまで、じっくりと待つのである。これは対話でいうところの「保留」に当たると思う。

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見ての通り放置されている庭はカオスである。どこから手をつけていいのかわからない。

刈り払い機をつかって一気に草刈りをすることもできるし、耕運機でとりあえず一気に耕すこともできる。しかし、「それをした方が楽だよな」と思う自分がいる一方で、その行動を選択するのに躊躇する自分もいる。

庭には様々な命があり、そこにはおそらく多様な命の多様なやりとりがある。感覚的にはなってしまうが、たぶんその脈動を感じたときに、自分の意思だけでは自由に身体が動かなくなるのである。どこから手をつけるのがいいのか、どのようにその網の目に入り込むのがいいのか、わからなくなるのだと思う。

それでも、その庭を見ながら、歩きながら、感じながら、対峙し続けると、なんとなく湧いてくるイメージが現れてくる。
おそらくそれが身体が感じ取った「庭」という生態系との接点なのである。対話に置き換えると、自分の持っている前提や枠組みからすぐに「評価・判断」するのではなく、じっくりと最後まで聴くことをしているのだと思う。

あとはこのプロセスの最中で一番手がかかるのが、内側で湧き起こるするセルフジャッジの声である。

「自分はいつまでも手をつけずに何やっているのだろう?」「もう耕運機で全部耕してまっさらにしちゃえばいいのに」「果たして手をつけれる時が来るのだろうか?」「腰が重い人だなぁ」など、自分の中で様々なセルフジャッジの声が聞こえてくる。

しかし、その声に惑わされずに、ぐっとその場に踏みとどまり続けることが大切だ。

腑に落ちないまま手を動かしても、どこかうまくいかない。手が止まったり、やる気がなくなったりなど、気持ちよく庭をつくるプロセスに入ることができない。だから、内側から何かが湧いてくるギリギリのところまで保留をする。
 
すると、ひょんなタイミングで「するするするっ」と動き出せる時が来るだろう。「あっ」と思うイメージが湧き、なんとなくその庭の近い未来のイメージが見えるかのように道や畑の配置が見えてくる。

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(最初の段階の素人ラフスケッチ。まずはこのイメージを手がかりにつくりはじめ、そのプロセスの中でまた詳細に見えてくるイメージがある)

 
このような自分の独断で決めるのではなく、その場所と辛抱強く向き合いながら、あるときふっと湧いてくるそのイメージを掴む感覚。
 
これは「対話」に通ずる感覚ではないだろうか。対話は基本人と人の間で行われるやりとりに対して使われることが多い言葉だと思うが、「間」から湧いてくるものを掴む、という感覚。それは相対するものが人であることに限らないのだろう。
 
ただ人と人の場合と違い、人以外の対象(生き物)との対話は、そこで現れてきたイメージが相手側にとっても心地の良いものなのか、そのことが確かめようがないように感じる。人と人の場合、なんとなくお互いのしっくり感、その時の肌感覚で「これが良さそうだね!」という感覚を共有することができる。

しかし相手が自然の場合、それはどのように確かめることができるのだろうか。このことはまだまだ探究する必要がある。ただひとつの取っ掛かりとして以下の言葉を引用したい。

それは、最近読んだ『土中環境: 忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技』(高田宏臣, 建築資料研究社, 2020)という本だ。著者の高田氏はこのようなことを述べている。

 「健全な環境では、草木や菌類を含む微生物、動物も多種共存し、すべてが滞りなく循環する調和した状態が、動的かつ恒常的に維持されます。そのような健全な環境を、われわれ人間は「美しい」、「尊い」と感じ、優しい心持ちになるのです。それはきっと人間が持つ、生き物の一員としての本能なのではないかと思います」(高田, p.16-17)
「なぜそこに、まるで自然の力が集まっているかのように環境が息づくのか。論理的、科学的な解明以前に、古来、人はこうしたことを感覚的に把握していたのだと考えられます。いのちの循環の拠点や、その力強さに何か神秘的なものを感じておそれることは、人間の本能の奥底からくるものなのかもしれません。健康な杜(森)や川に気持ち良さを感じるのも、同じことなのではないでしょうか」(高田, p.51-52)
 「海底湧水と海水のぶつかるところはキラキラと輝くように美しく、訪れる人を魅了します。そこがいのちの生まれる要の場所であり、人は生き物としての本能から、こうした正常な循環が営まれる光景を美しいと感じ、安らぐのではないでしょうか」(高田, p.135)

ここから私は「人にはもともと環境(命)の健やかさを感じ取る力がある」という視点を受け取った。裏を返すと、自分自身の内側にある「美しい」「安らぐ」「心地よい」という感覚を頼りにしながら向き合っていくと結果的に健全な庭をつくることができると言える。

この直感的な感覚をもとに庭を作っていくことが、果たして実際に生態系にとって良いことなのか、それは正直わからない。しかし、自分の感覚を頼りに、庭の未来のイメージを手繰り寄せ、本当に「美しい」「心地よい」「尊い」と感じる場に迫れた時、そこに現れる庭は実態としても健全な環境になるのかもしれない。
その実験としても引き続き感覚を頼りに庭と向き合い続けていきたいと思う。


● ライター:長井雅史(まさ)
慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了。SFC研究所上席所員。米国CTI認定プロフェッショナル・コーアクティブ・コーチ(CPCC)。日本の同コーチ養成機関において資格を取得し、対話の研究を経て独立。人が身の回りに「質のある関係性」を取り戻すことをテーマとする。現在はコーチングや対話を通じて個人・組織の変化に関わることや、対話を学ぶ研修・ワークショップ、コミュニティづくりに取り組む。また、その傍で古民家をベースに自然とのつながりの中で暮らす場づくりを実験中。共著書に『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』(2018年)

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